やがて、吞み込まれる

魚野紗芽

やがて、呑み込まれる

 エナメルのスポーツバッグみたいに、どこかマットで、光を反射してもいる。カーキ色の川面はお世辞にも綺麗とは言えない。もったりと、水よりも粘り気を持っていそうだ。霧雨が緩く叩いているのに、そんなものは些細なことだとばかりに悠々と揺蕩う川は恐ろしくもある。

 パシャン、と音がして魚が身体をうねらせるのがほんの少し見えた。どうやらこんな川でも魚は逞しく生きているらしい。飛沫は白いが、あっという間に濁った色に戻った。よくよく見れば他の場所でもいくつかの泡が浮いている。

 ボーッとしたまま、前を歩く男へと目をやる。半そでのシャツは霧雨にしっとりと濡れて細い身体の線をより鮮明に映していた。襟を撫でる長めの茶髪の先は、濡れていつもよりいくらか暗い色になっている。

 「なぁ、どこまでこのドブ川に沿って歩くんだ?」

 痺れを切らしてそう声を掛けるが、前を歩く頭は振り返らない。先ほどから無言のまま、この二人は縦に並んで歩いている。誘ったのは茶髪の男からで、後ろを歩く黒髪の男は軽く誘いに乗っただけである。

 「……もう、二限目も始まる」

 小走りで茶髪の男の前に「ほら」とスマホで時間を見せてみるが、チラリと画面で確認してから邪魔くさそうに押し退けられた。ずんずんと歩む足を止めない。

 「お前だけ学校行ってもいいよ」

 黒髪の男は呆れて息を吐いた。

 「なんでそうなるんだよ……」

 「だって、野口は戻りたいんだろ」

 そこでようやく茶髪の男は立ち止まった。人よりも小さな瞳はジッと野口を見つめている。茶色の髪と同じくやや茶色みがかった瞳は、野口のことを見定めているかのようだった。どこまでついてこれるのかと、まるで忠誠心を測るみたいに。

 「学校はさ、お前がいなきゃつまんないだろ」

 「えー……ほんと?」

 野口の答えに、どうやら満足したらしい茶髪の男の狐顔が綻ぶ。先ほどまでのどこか陰気な、息の詰まる雰囲気が薄くなったのが分かった。

 「ほんとほんと、真島ちゃん最高。だからこんな臭い川からは離れよう」

 背中を手の平で二回ほど叩いてから元来た方へと腕を引いてみる。しかし、真島は動かなかった。

 「気持ちが……籠ってないなぁ」

 本当にめんどくさい男だ、と野口は頭を抱える。

 この真島という茶髪の男は、鋭い顔つきや明るい髪色、ゴツイシルバーのピアスなど、いかにも気の強そうな見た目をしているのだが、その実かなり繊細な男なのだった。今日のこの散歩だって、きっとなにか嫌なことがあったからに違いない。

 きっと、真島にとっての派手な装いは威嚇なのだ。ライオンの鬣(たてがみ)と同じで。

 「だって野口、俺がいなくても他の奴と楽しそうに話してるしー……」

 「それはほら、俺の特技っていうか……真島が不器用すぎるんじゃん?」

 えー、と真島は納得していないようで、ジトリとした目を野口に向けている。

 「真島はさぁ、そんなに俺に見てて欲しいわけ?」

 ニィ、と笑ってみせると真島は気まずそうに目を逸らした。

 素直な反応だ。変に誤魔化すことも出来ない、不器用な真島を、野口はやはりめんどくさいと切り捨てることなど出来ないのだった。

 「……昨日さぁ」

 真島はその場に膝を抱えるようにしゃがみ込む。ざぷん、と川の方からは音がした。きっとまた魚が跳ねたのだろう。

 「俺もファミレス行きたかったのに、聞いてくんなかった」

 出て来た内容の規模の小ささと、自分への驚くような執着心の強さに、野口は思わず口元を手で覆った。――そうしないと、笑っている顔を抑えられない。

 真島はジッと、足元のややぬかるんだ土や、草の先についた細かな雫を見つめていた。だから、野口がいままで見たこともないような表情を浮かべて真島の旋毛を見つめているなんてことは、気付きようもなかった。

 「……じゃあ、今日は二人でファミレス行こうな」

 野口の言葉に、うん、と真島は素直に頷いてから立ち上がる。ズッ、と鼻を啜っていたが、別に泣いているわけではなさそうだった。


 野口は通学路へと戻る道を歩きながら、胸の中をソワソワと撫でる感情を、真島に見えないように押し殺す。


 傷付けてごめんね、お前の近くで他の友達をファミレスに誘ったの、わざとだよ。

 でもお前も同じようなことするんだから、いいよな?


 二人は、お互いに対するまぜこぜになった感情とは釣り合わない晴れやかな表情で、「先生になんて言い訳しようか」なんて話している。

 ゆっくりと水位が上がっていく川は、不穏にうねる。じわじわ岸を侵そうと、機を伺うように。

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