「とりあえず」

あおいえん

第1話「とりあえず」

 先が見えない程長く、でもボーっと歩いていたらあっという間に行き止まりまで来てしまう、そんな畦道を歩いていた。田圃は収穫の時期を終え、燃えきってしまったかのように何もない。夕暮れが眩しくて、僕は下を向いていた。

 日本人はハングリー精神が欠けているよな、と昔誰かが言っていた。今日食うメシに飢えたことも、不当な暴力を受けたこともない。

 家路に着くと、晩御飯の匂いがした。僕はこんな状況に感謝したことすら無い。当たり前の様にメシが食え、義務感に疲れて学校をサボる。大学生になった今でも、バイトのシフトを提出しては「めんどくせえな」と呟いた。

 僕は晩御飯の時間まで自室に籠った。机は散乱した紙とペンで埋もれていた。壁には中学を卒業した時に半紙に書いた「小説家になる」という文字が飾られていた。あれから5年経った今では、その決意の文字がすっかり真っ白な壁に馴染んでしまっていた。

 僕は椅子に座って昨日途中まで書いた制作中の小説を読み返した。1日経ってから文章を読み返すと、雑な部分が良く見えた。最初に考えていた本筋ともずれていた。僕は頭をむしって、原稿をくしゃくしゃに丸めた。

「大丈夫。僕は才能があるから」

 誰にも聞こえない様に、僕は小声で自分に言い聞かせた。さらに前のページを見返した。もういつ書いたかも覚えていなかった。こんな僕でも、日々何かしらを感じて生きている。微妙な変化をしている。だから、いつ書いたかも覚えていないような原稿には、今まさに僕が書きたいと思っている事とはずれた内容が書かれていた。いつの間にか、僕はポケットから携帯を取り出して動画を見漁っていた。もうこんな日が何年も続いていた。

 翌日、僕は大学帰りにアルバイトをしに行った。

「次のおすすめメニュー、こんなのどうかな?ちょっと悩んでいるんだよね」

 出勤前に店長が尋ねた。チェーンの居酒屋だが、会社からの縛りが少なく、おすすめメニューなどは自分たちで考えて作ってもいいと言う事になっていた。「いいんじゃないですか」

 僕は当たり障りない答えで返した。

「まあ、とりあえずやってみるか」

 そう言って、店長は店中の壁におすすめメニューを貼った。店長の「とりあえず」と言う口癖のお陰で、店中色んな張り紙で埋まっていた。もう終了したはずのメニューさえ張りっぱなしになっているのを見つけると、僕は剥がして丸めて捨てた。

 開店前の清掃業務をした。友人たちが口を揃えて「飲食店のアルバイトは楽しそう」と言っていた。でも実際は皿洗いや在庫整理、虫がわかない様に水回りの掃除など、仕事中の大半は地味で面倒くさいことばかりさせられた。ビールサーバーの隙間から、3か月前のしわしわに乾燥したおすすめメニューが出てきた。僕はため息を吐いてゴミ箱に放り投げた。

 深夜に仕事が終わって、僕は家族が寝静まった家にこっそり帰った。真っ先に自室に入って机に向かった。書きたい小説の題材は昔から何個か浮かんでいた。どれも書き切れさえすれば素晴らしい作品になると僕は信じていた。ペンを握って頭を抱えた。気が付けば携帯を握ったまま眠りについてしまった。


「結果が全てだ」

 中学のテニス部の顧問が言っていた。どんなにいいショットを打っても、顧問が試合中に喜ぶことは無かった。勝っても特に褒めたりはしてくれなかったが、負ければそれから1日中不機嫌だった。

中学最後の大会では、顧問は毎年決まって勝負サングラスを掛けていた。雨の日でもそのサングラスを欠かした事は無い、と先輩たちからも伝え聞いていたし、僕らも後輩にその話をしては嘲笑っていた。

 県大会の3回戦で僕は敗れた。最後のボールを追いかけている時、まるでスローモーションのように3年間の努力が思い出された。でもその全てはボールが地面に付いた瞬間に終わった。怪我した時も、伸び悩んだ時も、ラケットを振り続けた。でも、顧問は壊れたロボットのように「結果が全てだ」と言い続けた。身に染みた。次の日から僕はラケットを握ることすら無くなったのだから。

 最近、部活の練習試合や合宿を取り付けてくるのは顧問の役割だと、漫画で知った。それを読むまでは当然のように練習試合をし、不満を垂れながら合宿に臨んでいた。でもその陰で顧問が走り回っていたことを、当時の僕らは知らなかった。

 感謝の気持ちが今になって湧き上がった。でも、それを伝える手段も気力もあっという間に消えてなくなった。顧問が言うように、伝わらなければ意味がない。全ては結果だ。だから、僕が小説を書くときは伝えたいことを完璧に書き終えた「完成品」を人に届けなければならないと考えていた。


 次の週もアルバイトに行った。

「今日から月が替わるから、張り紙一回整理してくれない?」と副店長に言われた。

今日は同期も仕事に入っていたので、2人で張り紙を片付けた。

「ようやく店が綺麗になる」僕が同僚に零した。

「どうせまた張り紙だらけだよ」同僚が笑った。「でも、すごいよ」同僚が続けた。「こんなに毎回新しいメニュー作るなんて」

 そう言われて、僕は剥がした張り紙の束を見た。張り紙が分厚く重なって、僕の両手はパンパンだった。

「1日中洗い物に追われる日々だけどさ、それだけ毎日お客さん来てるってことだよな。人によっては「旨くない」なんて言ってる人もいるけど、ここのお客さんはみんな楽しそうに酒飲むよな」

「ああ」と僕は虚ろな相槌を打った。


 僕は帰りの最終電車に揺られながら、外の月を眺めていた。月は薄い雲に覆われて、次第に隠れてしまった。

「久しぶり」

 不意に誰かが僕の肩を叩いた。僕は狼狽したが、声の正体がわかると途端に安心した。中学の部活仲間だった。卒業以来の再会だったので、僕らは車内で小さく喜び合った。

「元気だったか?」

 僕は久しぶりに気分が上がっていた。彼は中学の時から脚本家を目指していた。同じ物書き同士気が合って、部活を引退してからは彼とよく作文を書いては見せ合っていた。僕が将来の夢を語れる唯一の存在でもあった。

「元気だよ。バイト帰り?」

「○○駅の居酒屋でね。そっちは?」

「知り合いに誘われてライブ見に行ってたんだ」

「ライブ?」

「アマチュアなんだけどね」

 彼がリュックからチラシを取り出した。チラシには4人のかっこいい細身な男性がポーズを決めて写っていた。

「ディスオーダー・トーキョー?」

「そうそう。4人組のバンドなんだけどさ。写真家、画家、小説家、洋裁家と、それぞれ異なる趣味を持っていて、それぞれの作品を会場で展示していたんだ」

「小説家?」

 僕は少しムッとした。

「そうそう。とても自由な発想で、いいイベントだったよ。小説は特に普通だったけど」

 その言葉を聞いて、僕は胸を撫で下ろした。すると、彼が何か閃いたかのように目を見開いた。

「今も小説書いてるの?」

「ま、まあね」

 僕は言葉を詰まらせそうになったが、見栄を張った。

「そしたら、今度僕らで個展開いてみようよ」

 彼は僕の両肩をがっちりと掴んだ。

「個展?」

「ああ。僕も中学卒業してから何作品か書き溜めていたんだけど、中々人に見せる勇気が沸かなくてさ。賞に出すのももちろんいいんだけど、あんな風に人に読んでもらう機会を自分たちで作るのもいいんじゃないかと思って。どうかな?」

 彼の輝く目に、僕は言葉を詰まらせた。展示する作品が1つも無かったからだ。まるで断崖絶壁の縁に立たされている気分だった。後退すれば、谷底に落ちてしまう。

「もちろん」

 僕は苦し紛れに笑って見せた。

「よし、じゃあ日にち決めようぜ」

 結局、僕らは2か月後に個展を開くことに決めた。残された2か月が不安で、彼と別れた後何回か吐きそうになった。

 駅に着いたころには、満月はすっかり顔を出していた。僕はいつもの畦道を歩きながら、小説のストーリーを考えていた。頭の中は案で溢れかえってパンクしそうだった。そんな時、路側で何かが満月の光に当たって反射したのが分かった。僕は反射した光の元へ向かった。何かが落ちていた。被った土の隙間から、見覚えのある色が見えた。僕は一旦躊躇したその手をもう一度それに向かわせた。拾い上げたのは、中学の時に無くしたシャーペンだった。母親に買ってもらった思い出のシャーペンだ。無くした時は酷く落ち込んでいたが、今では無くしたことすら忘れてしまっていた。僕は疑った。5年も前に無くした物が出てくるはずがない、きっと違う人がたまたま同じシャーペンを落しただけだろう、と。しかし、シャーペンをぐるりと1周見回すと、確かに無くしたシャーペンと同じロゴマークの傷跡を見つけた。

 僕はそのシャーペンを家に持って帰り、綺麗に洗ってやった。

 翌日、乾いたシャーペンを握って机に向かった。僕はこのシャーペンに運命を感じていた。だから、きっと個展はうまく行くと信じていた。だが、1日、そしてまた1日と無情に時間は過ぎて行った。時間は過ぎていくばかりで、一向にシャーペンは動いてくれなかった。


 その日もアルバイトを終え、僕は深いため息をついて服を着替えた。

「なんか悩み事でもあるのかい?」

 店長が声を掛けてきた。

 僕は店長に話すことなど何もない、と思いながら気が付けば口を開いていた。

「どうしてそんなに毎回色んなメニューが思い浮かぶんですか?」

 難しい質問だと思った。店長は店長なりに毎日必死に考えているだろうと。しかし、店長から帰ってきた答えは、とても呆気なかった。

「テキトーだよ」

 満面の笑みに僕は驚いた。

「テキトー?」

「そうそう。なんでもいいのよ」

「なんでもって言ったって・・・」

 僕は言葉を詰まらせた。

「挑戦するっていうのはみんな怖い事だし、悩むことだってある。でも悩んで結局何も出来ないままよりも、とりあえず何かを始めれば、それに対してお客さんが反応してくれて失敗するものと定着するものが決まる。だからとりあえずテキトーに始めて、そこから考えればいいんじゃないかな」

 店長はそう言って残りの業務に戻った。

 僕は家に帰って本棚を勢いよく漁った。手に取ったのは中学生の時に作文対決の勉強で読んでいたショートショート小説だった。僕は指を滑らせながらページを捲って小説を読んだ。書きたいことは山ほどある。けど僕に残された時間は少なかった。

「とりあえずやってみるか」

 僕は小さく決意した。


 個展当日、僕らは都内の小さなギャラリーを借りた。真っ白な空間にそれぞれの机を並べた。同級生の彼は長編小説を書きあげて、製本した作品を50冊程持ってきていた。僕も薄っぺらいショートショート小説作品集をどうにか製本まで漕ぎ着けて持参した。机にそれぞれの本を積み上げた。彼の積み重ねた分厚い本は高くそびええ立ち、これまでの努力の差を表しているようだった。

 彼は他に折りたたみ式の長いテーブルと椅子をいくつかを借りていた。そこに今まで書いてきた小説を並べて、自由に読めるようにした。僕にはそんなストックなど無かったので、今回のために書き下ろした中から何作品かを選んでA4のプリント用紙に印刷し、壁に並べて貼った。

 そして、個展が始まった。彼は堂々と椅子に座ってお客さんを待っていたが、僕にはそんな余裕は無かった。積み上げた薄っぺらい本を手に取って、ページを開いた。文字は目に映るだけで頭に入ってこなかった。今すぐ本を隠して逃げてしまいたいとも思った。「とりあえず」で書いた小説なんて、きっとお客さんに嘲笑われて終わるだけだと思っていたからだ。

 だが、そんな僕の気持ちは全くもって烏滸がましいものだと思い知らされた。個展が始まって2時間、お客さんは誰一人入ってこなかった。狭いギャラリーに、2人のため息が共鳴した。

「そんなにうまくはいかないよな」

 彼がため息交じりに呟いた。僕はそれに返す言葉が見つからなかった。すると、彼は立ち上がって僕に自分の小説を差し出した。

「そう言えばまだお前の作品読んでいなかったよな。お互い読みあおうぜ」

「うん」

 僕は彼の小説を手に取った。ずっしりと重みを感じた。片手で受け取るには少し頼りない程だった。僕は自分の作品に手を伸ばした。指先が細かく震えている。彼は真っ直ぐな目で僕を見ていた。ゆっくりと、時間を掛けてようやく自分の小説を手に取った。

「いいタイトルだな」

 僕の小説を受け取って、彼は自分の席に戻っていった。「気になるところあったら直接書き込んじゃっていいから」とも付け加えた。僕は受け取った本の表紙をよく眺めて、ページを開いた。

 それから何時間経っただろうか。相変わらずお客さんは誰一人として来なかった。だが、おかげで彼の小説をどうにか読み終えることが出来た。普段だったら2時間程度で1冊読めてしまうのに、いつもの倍は時間がかかった。自分の小説を誰かが読んでいることにそわそわしたのもあった。でも、何より彼の小説を一言一句血眼で読んでいた。僕の意見なんて大したことないけれど、それでも今僕自身が最も飢えていることが何だかわかっていたからだ。

「読んだ?」

「うん。そっちは?」

「もう3往復読んだよ」

「はは。短いもんな」

「でも、良かったよ」

「本当か?」

「まあ、色々手直しは必要だけどな。俺のは?」

「面白かった。まあ、言いたいことは書いたよ」

 2人はお互いの小説を返し合った。

 返ってきた本は、もう何回も読み込まれたかのように皺が出来ていた。ページを開くと、びっしり彼の言葉が書いてあった。

「中学の顧問が言ってた言葉覚えてる?」

 彼は僕が返した本を読みながら訊ねた。

「え?」

「結果が全てだってやつ」

「ああ。それなんか耳から離れないよな」

「結果を出すって難しいことだよな。でも、結果を出すことの難しさって、結果を出した人間にしかわからない。だから、俺にはお前の苦労がわかる。お前にも俺の苦労が分かってくれていると思う」

「ああ」僕は外を眺めた。西日が射して、オレンジ色の影が僕の方まで伸びていた。「結果は惨敗だけどな」

 2人はギャラリーの外に響くくらい、笑いあった。

 結局、個展は互いに呼んでいた友人が何人か来てくれて、お互い小説が3冊ずつ売れた。みんな小説に興味があったわけではないし、いいアドバイスや、紹介話があったわけでもない。それでも、自分がやりたいことは伝えられた気がした。

 彼とは再び個展を開く約束をして別れた。地元の駅に着いたころには、外はすっかり真っ暗になっていた。背負ったリュックには、売れ残った小説がパンパンに詰まっていた。1歩1歩歩くたびに、首筋に重く圧し掛かった。片手には彼がチェックを入れてくれた小説を握り締めている。タイトルは「とりあえず」。本文に書かれたたくさんのアドバイスに悔しさを覚えた。でも、誰かに何かを伝えるためには伝える技術を磨かなければならない。彼も同じ気持ちだっただろう。僕は早歩きで自宅を目指した。

 先が見えない程長く、でもボーっと歩いていたらあっという間に行き止まりまで来てしまうような畦道で、僕は肩に圧し掛かる重みを感じながらしっかりと歩いてった。


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「とりあえず」 あおいえん @enaoi

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