第70話

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「童のようやと笑わんでくらっしゃい。ほんにわっちもねぇしゃんがそんな心持なんじゃっととは知らんかったんです。まるで少女の様な純粋さをお持ちになりなしゃるとは、あまりにも行動とは別人のよいうですから。確かに奉天での暮らしは辛いことがありました。辺りには囁かざる口があり、それがわっちらの出生に関わる事でしゃったから。そして父の再婚。捨てられたと感じるのは誰でもそうではないでしゃろうか」

「お子さんは?」

 私は聞いた。

 老婦は軽く首を横に振る。

「幸いかどうかはわかりませんが、東家ちゅうのは紀州の中々のお家でタオル事業で成功し泉南の土地を有していましたが、その家には娘さんしかおらず、それを不憫に思った本寺からの檀家紹介の養子縁組でした。それで以後父は東を名乗りましたが、娘さんは結婚後すぐにお亡くなりになりましたそうです。子は残りませんでした。ねぇしゃんは…その事を恨み、まるで少女の様な幼心のまま純粋に保ち続け、やがてそれを心中秘めてひとり背負いながら日本に来よりなさったんですな。つまりわっちの二人の子をかどわかしたのも、全てねぇしゃんの少女の様な父に対する痴擬に等しい純粋な怒りの先にあった行動だったのです。――ねぇしゃんは、そう、この縁側に座り蝉無く声に耳すましながら臨月の腹を撫でながら言いました。――これですべてが揃った。私の呪法は完成し、父は楼蘭という夢が崩れるのを見るだろう。これで全ては呪われる」

 私はペンを走らせる。そしてそこでピタリと止まった。止まって聞きなおす。

「全ては呪われる。その呪いとはつまり…」

 私はロダン君の手稿に書かれていた文字を手探りで引き寄せて口に出そうとした。しかし、それを老婦が押さえる様に言った。それはまるで自白の様だった、長い年月の間、語られることの無かった秘中の中の秘。

「ええ、つまりねぇしゃんは腹に父動眼の子を身籠りなしゃったんです。ええ、あの弔問の若者は言いました――僕は勘違いしをしていた、つまり瀧子さんは自分のではなく…と」

 横に居た刑事は蟹ばった顔を引きつかせながら僕を見た。

 そうなのだ。

 私がロダン君の手稿を読んで叫んだのはこの全てを知り得た時なのだ。

 つまり身を焦がすような焼土の中で嬰児を抱えた戸川瀧子は、父の子を身籠って生んだのである。

 そして、である。

 悲劇の連鎖はそれを自分の子だと勘違いした精神的多重人格を有してしまった憐れな竜一によって、その二人が葬られたという事なのだ。その葬られた先はどこかと言うと…

 それこそが馬蹄橋の七灯篭なのだ。


 想像するがいい。恐ろしさに震える蛇が、恐怖のあまり自分が抱えきれない卵を飲み込んだ。それは勘違いかもしれないが、間違いなく完成された呪いと共に。

 その呪いはまるで過去から既に決まっていたように選ばれた人物の胃袋の中から精神へと伝わった。彼、 田中竜一の中で。

 彼の存在はまるでこの血脈の連鎖の中で選ばれた時代の供物だった言えないだろうか。

 誰への供物となのか。

 それは時代を彩った外道達への供物ではないか。時代はやがて血となり彼という肉体と精神の中で蝕み、やがて、因果を求める。

「ねぇしゃんは今考えるとやっぱり幼い少女だったんじゃないかと。本当は父を求めて寂しい少女。だから成長すればおのこをほしがりしゃるが、それは父性を求めていたんでしゃっしゃろな。それがまぁほんに子供のような幼稚な論理で転がり、殺されなしゃったんですな」

 ただと私は思う。

 戸川瀧子が広げたのはまるで曼荼羅だ。それは胎蔵曼荼羅図。それやがて時代を経て広がり、そこには

 父である動眼も

 子である銀造、竜一、竜二も

 そしてこの龍巳老婦とその双子の龍平、珠子も。

 いやそれだけではない、東夜楼蘭も根来動眼の殷賑さも全てが屏風絵のように描かれた見事な金襴に輝く胎蔵曼荼羅図屏風と言えるだろう。

 そしてそれらの曼荼羅図をまるで風呂敷を包むかのような手並みで閉じた人物こそ、彼、四天王寺ロダンと言えるのではないだろうか。

「それでなぁ、婆さん聞くが。誰が二人を殺したと思う?」

 刑事が思いを切り裂くような図太い声で言った。

「え?」

 私は刑事を振り返る。

「つまりだ。俺が聞きたいのは誰が戸川瀧子と嬰児を殺したのかだ?だってあんた今言ったろ?『ねぇしゃんが殺された』ってな。不自然だろ?それはむしろその事を知ってる人間しか言えねぇ言葉じゃないか、なぁ違うかい?」

 私は老婦の沈黙にのしかかる角谷という刑事の言葉を追う。

「つまりだ。検視したらまぁ長年経過した遺体だがやっぱり科学技術っちゅうのは昔ならわからない過去を暴く様だ。まぁそれはほんまにどうしようもないが、つまり遺体は何か鋭利なもので頭部を殴られ、まぁ斧みたいなもんやな…、それから焼かれてる」

 それから刑事は言う。

「ここは奥地や、それに下から上がって来る時に猪なんぞ捌いてるところもある。この辺りの家にもそれなりのもんがあっておかしくないやろ?

 なぁ聞くが、戸川瀧子は何処で出産したんやと思う?それに田中竜一…あいつも姿を変えて流れのテキヤやったわけや。日本中、色んなとこ流れとる。ここに来たんやないか?それにあいつ自身の精神はまともだったのか、錯乱してるんか?錯乱しているんだったらまともじゃないだろう?つまりあまりの衝撃にきちんと事実を受け止めるだけの精神的余裕が有るとも思うかい?もしかしたら自分がそうあるべきだと言う妄想に取りつかれて真実を虚実と入れ替えて…それで殺人を犯してもおかしくはない。それに…」

 刑事が一気にまくしたてると一拍の間を置いて息を吸い、吐き出すように言った。

「瀧子の子が三つ子なんて誰が言うてるんや?」

 一瞬だが龍巳老婦人が肩をびくりとさせたように見えた。それは刑事の大声に驚いたのか、それとも核心に触れられた慄きにためか、私には分からない。

「誰かが書いた報告書みたいな三文小説はこちらに来る新幹線で読んだが、全くあてにならん。確かに明石の雲竜寺の住職は猪子部や、そして俺が戸籍を調べたところ瀧子の子は二人。見ればそれも竜一、竜二、銀造なんておらん」

 私は刑事を振り返る。

「居ない?」

「せや。銀造なんて出生届出されてない。それだけじゃないぞ。竜一、竜二ともあの馬蹄橋の田中家に養子に出されてる。どんな理由かはしらん」

 …どういうことだ?

 私は困惑する。届けが事実なら、銀造なんてこの世にいない…

(じゃぁ…自分が会ったあの人物は誰なのだ?)

 混迷の霧を振り払う刑事の声が鼓膜に響く。

「それになぁサタやん。いいか、この家で珠子が生まれたというのは事実かどうかも分からん。なんせ珠子はこの婆さんの戸籍には無いんや。それは俺が昨日、もう調べておいた事実や。ともすれば今の話を信ずると仮定してこの婆さんの子供である二人、龍平共々珠子もここから連れ出されたことになる。考えてもみぃ?矛盾やで、いくら何でも戦後の混雑があると言え、有り得すぎるフェイクやないと思わんか、いやそうならば完璧に仕上げられた真実を隠すフェィク劇や、シェークスピアも真っ青のな」

 刑事の言葉は霧の中に広げられたトランプを捲る様に次々と新しい事実を露にしてゆく。

 刑事は屈みこみ、老婦人に言う。

「なぁ婆さん。全部こちらが調べた事とはどうもてんでばらばらや。この辻妻誰がどう合わせるんや?それとも何かぁ、全ては誰かが企画した誰にも解けない謎なのか?それとも真実を知っている誰かが語ったことを再び符牒を合わせて辻褄立てて封印しようとしたのか??じゃぁ辻褄が合わない人物は誰かが生んだ空想上の怪物か??

 まるでこれは劇やで。真実を知っている誰かが、誰かを庇う為に話の道筋をすり替えて本質を曇らせた、そんな劇や。あの小説はその為の小道具としては十分の効果がある。読めば読むほど困惑して、真実を歪めることだろう。

 だがな、事実はいずれはっきりする。実際にこの劇で重要な鍵を握っている人物の言葉を正確に追えば、おのずから誰が犯人なのかは分かる。何度も言うが事件は簡単なのだ。誰が殺してあの馬蹄橋に埋めたかなんだ。そしてこうした複雑な事件はいつもそうだが、誰もが一番思いつかない人物、そう、事件のサークルから距離を取っている人物が犯人なのさ」

 私は刑事が言わんとすることが分かった。彼の老婦の沈黙を追う言葉は、今、この龍巳老婦の何かに向かっているのだ。そうここにはロダンの手稿は書かれていない。

 つまりもう一つの真実は今ここにある。そしてそこに刑事がいま迫りつつある。

 だが、

「…まぁええ。それは推論や。もう、あれはあのままで良い事件や、そのままで良い。時効とかじゃない。関係者がいうんだからもういいやろ」


 ――関係者?


 私は刑事に振り返る。それはどういう子意味かと。それに気づいた刑事が私に言う。

「ああ、俺なぁ、知ってるやろ?林武夫って警官。あれは俺の爺さんさ。俺はその娘林聡子の二女の子。つまりだ、俺はあの女優、西条未希と従兄妹なのさ」

 言うや、それ聞いた私の驚きを他所に刑事は老婦に振りかえると言った。

「まぁこの件はこれで仕舞い。この出張で俺は何も知らんし得るものが無かったちゅうことで、もう終わりや、未希にもそう言っとく。時代はミレニアムやでなぁ…」

 言ってから刑事が老婦を見て僅かに笑う。

「婆さん、ええやろ。全てはもう終わりや」

 それを聞くと龍巳老婦は身づくろいを改めて手を縁に付くと深々と刑事に頭を下げた。

「ありがとしゃんです。ねぇしゃんがほんに迷惑をかけました。わっちが代わりに頭をさげますかい、許してくだっしゃい」

 私は突然訪れた予測もしない終わりにただ茫然とした。蝉は私達の頭上で鳴いている。

 僕は心の中でロダン君が書いた手稿で感じた疑問を心の中で反啜する。

 自分の疑問に答えるロダンの声が蝉に交じる。

 ――血統的遺伝性とは?


 決して性格的偏執性の遺伝性をだけを示しません。それは女性にある多胎児出産をもさすのです。


 ――戸川瀧子の『呪い』とは?

 少女の純粋な気持ちが生んだ純粋な父性の欠乏が生んだものなんですよ。それがまぁ彼女の中で復讐を生んだのでしょう。異常性はあるが、内容は至ってシンプルですね。


 ――双竜とは誰なのか?

 ああ、それは戸川瀧子と龍巳さんの事ですよ。田中竜一、竜二ではありません。引っかかりましたかね? まぁ銀造さんすらもそう思っていたようですが。


 そして

 ――最後に火野龍平はどこに消えたのか


 あ、それは!!

 ロダンが慌てる声が響いたように聞こえたが、やがて老婦の声が響いてきた。

「今日は息子龍平の一回忌でしゃります。龍平はどこかでわっちがここに居ることを知ったんでしょうな。火野家を出て以後は此処に一緒に住んで暮らしました。旦那さんは既に亡くなりまっしょたから、大人になった龍平をついぞ見ることなく。ええ、勿論、あの弔問客の方は東家のかたじゃないかとはわかりましたが、唯、あの若者の方はなんでもインシャネッチョで息子の名を検索したら此処で息子の死亡記事が出てたそうで。まぁ時代はほんにすごかですねぇ。

 ええ、息子が死んだのは猟に出てそこででかい猪にやられたとですよ。それが新聞に出たんです。そう、猪にね。しかし子が親より先に死ぬなんて何ていうことでっしゃろう」

 言うと老婦は目配せをした。今日は法事だと道行く人は言ったのを思い出した。それはつまり…

 私は引くべき時が来たと感じた。

 それで私は老婦人に頭を下げた。

 しかし、その時私は此処で別れに似つかない一言を残してしまった。それは不意に自然と不思議に出た言葉だった。

 後からそれを詮索すればきっとこの事件はより深い迷宮に落ち込むだろうと確信してしまう余計な言葉。

「…龍巳さん、あなたは本当に龍巳さんですよね?本当は戸川瀧子さんではないですよね。どうも双子と言うのは外見上良く分からないもんですから」

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