第69話

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「動眼、つまりわっちどもの父は聞くところでは紀州生まれで、年少の頃から聡明で、それだけでなく美しい童だったようです。それが歳を経て、やがて不思議に何か感が良い少年になり、それで自ら望んだかどうかはわかりませんが、学校へ行くことは無く大きな真言密教寺に入りなしゃった。どうもそうした宗教の世界と言うのが本人には気性としても生来あっていたのでしゃろうな。過ごした寺では――性すこぶるよく、声も程よく呪を唱えても朗々として、まさに天地震わす。また地脈に通じ、良く質を捉える――と言われなしゃたそうですが、実態は中で相反するものがぶつかりなしゃたような複雑さがあったしょうです」

「それは?」

 私が聞くと老婦は口に手を遣った。

「それは御察しできませんやろか。聖人君子いいましても、中には沢山の欲を抱えていらっしゃる。それと他人様の期待に添える様に生きようとする人格が反撥すれば、本物の正邪淫濁なる人に化けなっしゃるでしょう」


 ――本物の正邪淫濁なる人


「これは奉天での父の噂でやっす。父は本寺で修業後、大陸へ渡りなしゃった。それはシルクロードの果てにある楼蘭を目指し、そこに自分の真を探しにいきなしゃったが、しかしながら父が奉天に来て遂に遠く日本から外れると、まるで諺の旅の恥はかき捨ての様に父は精神が緩んだんでしょうな。如何わしい土着宗教に伝わる葉物を吸われて、遂に精神タガがとれてしまい、とうとう女犯をされた。それがわっちらの母でしゃった。母は一度の事でしゃったが、ついぞ身籠り、わっちらを生んだ。その時、父は奉天を逃げる様に去りなさったのです。これこそが父の真の姿なのです。父は何もえらい人物ではありません。夢想し、希望を描く、まるで少年のような子供だった。如何に精神を鍛えた修験者といえど大人の男女の事まで通じていなかったようで、愛なんぞと大言を仏の前では説教できたかもしれなませんがいや寧ろ性根は優しくて臆病だったのかもしれません。結局は何度も雲竜寺から手紙を寄越しては何かと自分の事を書いて、時折金銭を送られました。それは口封じでもあったかもしれません。中国の事が漏れるのを恐れた動眼自身のです。そしてその文通の中に温泉を掘り、『東夜楼蘭』を建てたことなどがあり、いずれ自分達を日本に呼びたいとありました。小心さが現れる小者だったでしょう。自分の野望なんぞ、語れないそんな小者が根来動眼の本来の姿なのです。空想に蕩かされて、現実には弱い人物なのです」

 私はそこまでは聞けば特に何ごとでもない気がした。確かにお二人には気の毒な身上の話だと思うが。 

 だが、何ゆえに戸川瀧子は動眼へ罪をかぶせると言ったのだろう。


「しかし、その中にいけないことが書かれてなしゃったんです」

「え?…いけないこと」

「そうです」

 老婦は顔を下げた。

「父、動眼が東を名乗りなっしゃったのは…つまり東家の娘を娶り、所帯を持ったということなんです。それが姉の心を激しく揺さぶり、内心で父への憎悪を強くさせたてしまったんです」

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