第66話

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 忘備録『馬蹄橋の七灯篭』


 佐竹亮



 これは自分が徳島の祖谷渓奥Nに於いて、田中龍巳(旧姓:戸川龍巳)老婦から聞いたことを忘れないために認めた忘備録である。但し、この忘備録に於いて自分が新しく発見したものは殆ど無く、全ては四天王寺ロダン君なる聡明なる人物が別に呉れた手稿にほぼ沿うものである。それと忘備録には老婦と交わした内容についての会話や口語も交えて小説風に書き残そうと思う。そうすることで彼が書いた小説『馬蹄橋の七灯篭』の補録にもなると考えるからである。

 では忘備録を書くにあたり、やはり馬蹄橋における事件を今一度掘り起こし、整理したい。

 この事件の発端は戸川瀧子自身が馬蹄橋における土地簒奪を計画したことが全てである。その計画は、最初から最後まで一貫して自分の血筋を動眼温泉の上屋『東夜楼蘭』並びに下屋の盟主『田中家』それと繁盛家の『火野家』に送り込むだけではなく、まるでそれらが失敗したときの保険として身内との間に子を産み、それを存命中だった父の動眼に認めさせて(恐らく直孫としてかもしれないが、既に故人であるためその遺志はわからない)、父の財産を全てたらい上げ、この界隈一帯の財を吸い取り君臨すると言うことだったようである。無論当時は温泉街は今の様にさびれておらず、昼夜人は訪れ、まるで夜も眠らない殷賑の地であり、それについては龍巳老婦も、姉自身の性根を思えばそうであろうと述べていた。

 そして時代が下り、戸川瀧子が土地簒奪を目論んだ馬蹄橋の七灯篭の下の土中からバラバラにされた人骨が見つかった。その時代的経過に起きた昭和東京オリンピック前年の「警察官ピストル強奪事件」そして「婦女連続暴行事件」。それは結論から言えば戸川瀧子が起こすべくして最初から計画されたものではなく、当人からすれば全くの偶発的な事件であっただろう。しかし、因果が無いとは言えない。何故ならそれは我が子が起こしたことなのだから。彼女の産み落とした子等は彼女が書いた脚本の操り人形である以上の役者になった。

 何よりも、これらの事件の鍵は戸川瀧子である。

 事件の全容を知る為には兎に角、戸川瀧子という自分を追わなければならない。そして彼女について良く知るのは何よりもこの存命する双子の妹龍巳老婦である。その老婦から、聞かなければならない。

 私は戸川瀧子について尋ねた。すると龍巳老婦は暫く瞑すると、やがて小さく静々と言った。

「…ねぇしゃんですか…前に来たあんひとにも言ったしゃが、なんでっしゃろ、ほんに今思うとあん人はほんに恐ろしい御仁じゃなかったかと私は思いっしゃっとです」

 老婦は私の質問に頷くとぽつりぽつりと話し出した。

 彼女は、いや、お二人は遥か中国の奥地、日露戦争の激戦地の一つ奉天より奥へ進んだ山間地にある真言密教寺に生まれた娘であった。育った時には既に父母は他界しており、二人共祖父の手で育った。姉の瀧子は幼い時より自分とは瓜二つの顔をして尚、頭脳は明晰で、また何よりも人の心の関心と機微を捉えるのが上手い娘だった。それは長ずると共に美貌も兼ね備え益々磨きがかかり、それがために周囲の男どもは彼女を手元から離さぬ日は無く、十八を前にして男女関係の色んな噂が立つほどだった。

 転機は彼女が十八の時、二人を育てていた祖父が亡くなった。寺の住持が亡くなった寺は廃れるしかないのだが、瀧子は寺の一切を売り飛ばし金銭に替えると妹の手を取り、当時の朝鮮半島を経て、日本行きを決めた。

「へぇ…そうです。家には定期的に父動眼よりいつも手紙がきなしょったから、父が日本に居ること、そしてどうやら大阪の南で何やら商売を始めて成功してるとも書いておりなしょったので、姉は寺を売り払いその伝手を頼って日本行きを決めしゃっとです。それで手紙はいつも明石の雲竜寺からだされしょったので、まずは其処に行こうと釜山から下関へ渡り、瀬戸内を汽船に乗って兵庫の明石へ向かうことに決めました」

 しかしながらである。この明石行きの旅程でも姉の姉の瀧子はその人物的魔力ともいうべき力で幾人かの男と連れ添う様に消えては、懐に幾分かの金を掴んで妹の前に現れたと言う。

「つまりねぇしゃんどうも生来男(おのこ)が好きだったんでっしゃろな。大陸から半島へ、半島から九州へと乗る船が変わる度、目をつける男が変わり、特に奉天からの船で知り合った銀造とうおのこは一番ねぇしゃんにたらしこまれました。可哀そうに陸に騰がると誰かに恨みでも買っていたのか、殴られて刺されて海に海に放り投げ、溺死でっしゃった。ほんにねぇしゃんは寺を売って有り余るほどの金銭があったにも関わらず、その一切を使うのを嫌がり、近寄るおのこから日々の銭を取ってなしゃっとです。私はそれを見てはずかしゅうございましたが、見ぬふりしていた…いや、ねぇしゃんはほんに恐ろしいほどの念の聞いた声音で言う事があり、心底こわっかったものですから、私は何もいえませんでした」 

 成程、と私は頷く。恐らく瀧子はそうしたところ、つまり恫喝というか人の心を震わすよな銅鑼の響きを放つ刹那と言うのを心得ていたのであり、従来生家が真言密教寺という事もあれば、そうした念の籠る強さというもの自然自得していたのかもしれない。

 そんな戸川瀧子龍巳二人の兄妹だが、その明石迄の旅程で事故が起きた。その事故というのは龍巳老婦に起きたのだ。

「…ええ、あれは呉から香川へ渡る船の中でしゃった。私は突然、得も言われぬ腹痛に襲われ、それは後で分りしゃたんですが、赤痢でしゃった。激しい激痛と下痢で動けなくなった私は香川の湊から動けなくなりましたが、ねぇしゃんはそんな私を香川に残すと何も言わず人足先に明石へ向かう汽船に乗りなしゃったのです。ええ、私は一人香川に残され、私とねぇしゃんは離れ離れになりました。でも私は幸か不幸か、香川でこの家の旦那の介抱を受け、やがて病院へ行き、そこで身体が回復すると、行く当てもない身ですから、旦那に誘われるままそのままこの家に来て色んなことを手伝ううちに、こん田中家の旦那に嫁入りすることになりやした」

 奇妙な運命と縁(えにし)としか言いようがないと私は思った。それは横にいて静かに聞いていた刑事もそう思ったに違いない。ここは山深い奥地である。ひょっとするとこの家は平家の落人の流れを汲む一族の末流かもしれず、それが遥か大陸から海路遥々やって来た行倒れの娘を助け上げたと言うのは、お伽噺の様である。

 しかしながら、話はお伽噺のようにならなかったのである。

 龍巳老婦が二十歳の頃、突如、明石へと向かった姉が姿を現したのである。


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