幕間
「あなた」
「アーシェラ」
フォーゲルは身を横たえる妻の上に覆いかぶさる。もちろん、鍛えた腕で体を支えていた。長く貪りあった口づけに続き、そろそろとフォーゲルの顔がアーシェラの胸元に移動する。
***
その同時刻。某所では心温まる会話が繰り広げられていた。
「約束した者はまだ来ぬのか?」
苛立ちも露わにピシピシと指し棒をひじ掛けに打ち付ける。豊かなダールウッドから封土を移されたシランジ子爵だった。
灯火に照らされたその顔は不機嫌そのもの。それに相対するハンスは無駄と知りつつ忠言する。
「子爵様。本当によろしいので?」
「良いに決まっておる」
「しかし、あのジョゼフという男を排除したところで、返り咲けるとは限りませぬが」
「そんなことはどうでも良いのじゃ。わしが愛でるはずだった女たちをあの若造が自由にしていると思うと夜も眠れぬ」
「しかし、だからと言って眠らせるというのもどうかと思います。こう申してはさわりがありますが、当家とカーマイン家がまともに張り合うというのも難しいかと」
ハンスは主人が赫怒するのを覚悟する。しかし、それに反して、シランジは気味の悪い笑みを浮かべただけだった。
「ワシとてそのようなことは分かっておる。だからこそ、直接手を下さず依頼しようというのではないか。おお、どうやら来たようじゃな」
控えめなノックの音にハンスは部屋の扉を開ける。そこにはスコット百人長に先導された男が居た。男は帽子を目深にかぶり、しかもご丁寧に布で口元を覆っていた。
男は頭を下げるとすぐに用件を切り出す。
「私への依頼のターゲットを窺いましょう」
「ジョゼフ・カーマイン」
その名を聞いても男は何も感情を表さない。
「では、依頼料は帝国大金貨で10枚。3枚は先払いで頂きましょう。残りは依頼の完遂時に」
「もちろん、疑われぬように実行するのだろうな」
「お任せください。少し励みすぎて心の臓に負担がかかったとしか思われないでしょう」
シランジが頷くとハンスは袋を男に手渡す。
「それで、執行者は連れてきておらんのか? 大層美貌だと聞くが」
男はうっすらと笑う。
「閣下もご興味がありますか? しかし、お会いさせるわけにはいきませんな」
「もちろん、別料金は払うぞ」
「いえ。そういうことではないのです。あの者がなぜ黒の未亡人と呼ばれているかご存じないのですな。仕事かどうかに関わらず、寝た相手は必ず殺します。ある種の雌蜘蛛が交尾した相手を貪り食うようにね。今まで一度たりとも例外はないのですよ」
決して冗談を言っているようには見えなかった。男の発言にシランジ子爵はごくりと唾を飲み込む。
「う、うむ。そうか。残念ではあるが」
「吉報をお待ち下さい。残金の準備をお忘れなきよう」
男はもう一度頭を下げると部屋を出ていく。それをスコットが見送っていった。シランジ子爵は浮かない顔のハンスを見て歯茎をむき出す。
「そのような顔をするな。もう動き出したのだ。あの者たちに任せておけば失敗はない。そうじゃな、お前を安心させてやろう」
「と言いますと?」
「先ほどの話じゃ。確かに我が家とカーマイン家では格が違う。しかしな、あの家は有力ではあるが、それだけに忌々しく思っている家も多いのじゃよ。今回の件もワシ一人の考えではない。とある高貴なお方の承認もある。密かに資金も援助してもらっておるのだ」
ハンスは心底驚いた。そのような策を立てる頭がある主人ではない。自分のあずかり知らぬところでそのような動きがあることに僅かな不満も抱く。いつの間に一体だれがこのような策を主人に授けたのだろう? いぶかるハンスを見てシランジ子爵は満足そうに笑った。そこへ部屋の扉がノックされる。
返事をする間もなく、扉が開いて男が入ってくる。
「兄上。表で会いましたよ。動き出しましたな」
シランジ子爵に似た容貌の若い男。しかし似ているのは顔つきだけだった。逞しい体つきをしており、目には野心が垣間見える。
「おお。ナダルか。うむ。これであの若造に目にもの見せてくれるわ」
「そうですとも。いくらカーマインの一族とはいえ、四男坊。兄上に恥をかかせた償いはさせましょうぞ」
「頼りにしてるぞ」
無邪気に喜ぶ主人とその弟を交互に見てハンスは頭の中で急いで計算を巡らす。ナダル・シランジ。兄と違って切れ者として知られている。そして、それ以上に留意すべきなのが、節操もなく油断のならない男でもあった。この男が兄弟の情だけで動いているとはとても思えない。この間、ハンスが除け者になっていたことも考える必要がある。
もう賽は投げられた以上は如何ともしがたいが、ジョゼフが不慮の死を遂げた後のことも考えておかなければならない。暗殺の成否に関わらず、実行者が口を割った場合、この帝国にシランジ子爵の居場所は無くなる。ナダルの後ろに誰がいるかによって、自分の身の振り方を考えなければならないなと、ハンスは表情を引き締めた。
***
同時刻。ダールウッドの宿屋を接収した宿舎の一室で、シューラ・ラルトが体の汗を拭っている。すぐ近くに愛用の剣を置いてあるものの、体には一糸もまとっていない。肩が張っており逞しく見えるものの、形の良い双丘が女性であることを雄弁に語っていた。
「なかなか面白い坊やだわ。四男というのが難点だけれども、高名なカーマイン家だし、まあ贅沢は言えないわね。それだからこそ、正夫人の座を狙えるものですものね」
自分の体を見下ろしつつ、ラルトは自信ありげにほほ笑む。
すぐ近くの金羊亭では、マルルーが忙しく働いていた。店の扉が開くたびに、元気の良い声であいさつをする。密かに、入ってきた客が常連となったとぼけた顔の男ではないことに軽い苛立ちを覚え、そのことに自分で腹を立てていた。
***
地上で様々なことが繰り広げられている。その人々が想像もできない遠く離れた場所で、ちょっとした事故があった。ほんの1か所数字の入力ミスがあっただけだが、誰もそれに気づかないまま、それは進路を突き進む。その結果が多くの人々の運命を変えるのだが、今は誰もその存在にすら気づいていなかった。
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