第20話 雨模様
翌日も和志は辞退届を出せずにいた。
こんなに悩んだことは久しく記憶に無い。普段自分さえ心を決めれば済むことは時間をかけて考えたりしないからだ。悩むよりも、とりあえずやってみることで事態が動きだすことを、和志は分かっていた。
しかし今回は、意思疎通の難しい敵や味方や第三者やらを抱えたような、不思議な状況となっている。
そうだ。
どうも自分以外の人間の思惑が絡みすぎているし、それを考慮しようとし過ぎている。
和志は『自分がどうしたいか』に集中しようとした。
会長をやりたいか?
いいや。やりたくない。
武田にさせたいか。
いいや。それもさせたくない。
中島の思う壺でいいのか。
いやだ。
美希の言い分をどう思う?
俺が目立つポジションに就こうが就くまいが、美希には全く関係が無い。無視していい。放っておいて欲しい。
考える。
自分がどうしたいか、は見つからない。
何が嫌か、ばかりが頭に浮かぶ。
この状況は、良くない。
…。
ああ、まただ。
嫌だ嫌だしか、出てこない。
放課後になり、大石が教室に居なかったので和志は一人で部室に向かった。
部室にも、誰も居ない。
はぁ。
ため息とも深呼吸ともつかない。
ロッカーを開けて、道着を出す。
辞退届。
昨日も同じように保留にしていて、今日もそうしてしまった。
けれども、今日の帰りは選管へ行こう。多分この時期は部活が終わっても開いているはずだ。
ふぅ。
道着に着替え終わった和志は、改めて辞退届を眺めた。
いや、今行くか。
今から辞退届を提出しに行こうか。
それとも…。
俺、会長やろうか?
このまま辞退せずに。
このまま進んでみようか。
どうしたいか、分からないんだ。
自分がどうしたいか、それが見つからない。
この下らない小さな騒ぎに巻き込まれてから、自分の気持ちがどんどん見えなくなっていく。
嫌だ嫌だばかりが目について嫌になる。
何が嫌で抵抗してるか分からなくなっていく。
もしかして、これは逆張りのタイミングなのか。
逆を張って進めという合図じゃないのか。
このまま進めという合図では。
このまま…。
思ってみて、和志は自分らしくないなと苦笑した。
何を血迷っているんだ。
嫌だと思うなら全力で逃げなくちゃダメじゃないか。
目立つのは苦手だ。努力の結果によって目立ってしまうのは仕方が無いが、目立った結果努力を必要とされるのは嫌だ。
誰かに何かを強いられるのが嫌だ。
誰かの期待に応えるのも嫌だ。
ペースを乱されるのが嫌だ。
そういうタイプの人とは距離を置きたい。それができないのなら、それは自分の弱さだ。
…と、思っていたのだ。
しかし今回の件で和志は知った。
誰かに何かを強いられても、黙ってやり遂げようとする人間がいる。
意思が弱い訳では無く。
目立ちたい訳でも無く。
何か利がある訳でも無く。
いや、それとも彼には何か利があるのだろうか。自分には分からないプラスが。
「何なんだろうな」
和志は一人ぼっちの部室で呟いた。
利益で人が動くと思っている自分は、冷たいのだろうか。
いや、人の気持ちなんて、人の行動原理なんて、他人に分かるわけが無い。
武田が一年で副会長になった気持ちも、今、会長をやりたくない気持ちも、和志に会いに剣道部に現れた気持ちも、自分の代わりに会長になろうとしている気持ちも。
分からない。
全然分からない。
自分がどうしたいのか。
分からない。
竹刀を持って道場へ行くか。
辞退届を持って選管へ行くか。
……。
………。
心を決め、和志は部室を出た。
少し曇っていて、雨が降りそうで、和志は何気なく空を見上げた。空を見上げて、建物からの視線に気が付いた。
目が合った。
え…?
「何、武田と見つめ合ってんの」
大石が、いきなり現れて和志の肩に手を回した。
武田が窓辺から離れた。
「あ」
目で追う。すぐに見えなくなる。
「辞退届出した?」
大石が話しかけてくる。
「いや…帰りに出そうかと思って」
和志は左手に持った竹刀を軽く持ち上げて見せた。
「そっか」
大石が和志から離れた。
「俺も着替えてくる」
「うん」
和志は頷いた。
「部室、誰か居た?」
「俺が着替えている時は誰も居なかった」
そう返事をした。
「うちのクラス終わるの早過ぎるんだよ」
大石がそう言いながら部室へ向かっていった。
もう一度見上げた。
窓辺に武田の姿は無かった。
見上げた和志の頬に、雨粒が落ちてきた。
降ってきた。
和志は足早に道場に向かった。
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