第16話 許可
直人の頭に、坂本の手が置かれた。
距離が近い。ドキドキする。
「俺はお前のことはよく知らない」
坂本は直人をじっと見上げている。
「でも、俺とお前が味方になれないとしても」
坂本がそこで言葉を切った。乾いた唇を舐めるような動作をして、その間もじっと直人を見つめたままだ。
引き込まれそうと直人は思う。
坂本は、そんな直人の気持ちも全く知らずに、そうやって一呼吸置いて、続けた。
「お前が嫌なことは、やらなくて良いってことだけはアドバイスしておく」
頭に置かれた手に、少し力が入った気がする。何かの誓いのようだと直人は思った。
無意識に小さく頷く。
手が、離れた。
坂本の手が離れて、それから身体も離れていった。
「俺への遠慮はいらない」
坂本が、直人に向かって念を押すように言う。
「先生とか先輩とかに従う必要も全くない」
その言葉を聞くまで、直人は人に従っている意識はなかった。自分は割と自由に生きているという自負もあるほどだった。
でも、そうか、違うな。
中島に、水原に、自分は圧をかけられて、結局は従っているのか。
先生だから、先輩だから。
常識と思っているものに、がんじがらめになっているのかも知れない。
こうあるべき、みたいなものに。
それが責任感なのか何なのか、分からないものに。
少なくとも坂本は自分にそういうアドバイスをしている。
直人が、本当の意味で坂本を好きになったのは、この瞬間かも知れなかった。
「坂本さん」
思わずそう呼んで、でも次に何を言ったら良いのか直人には分からなくなってしまった。
「ん?」
聞き返したその表情が好きだと思った。
好きです。
好きです。
好きです。
直人の頭の中が『好き』でいっぱいになって、眩暈さえする。
でも、それは伝えるべきではない。
「あの」
直人は言葉を絞り出した。
「とにかく、坂本さんは気にせず、辞退してください」
直人がそう言った時、坂本の表情が少し歪んだように見えた。歪んで、俯いて、次に顔をあげた時には、いつもの涼しげな表情に戻っていたが。
「武田は真面目だね」
「いえ」
なんとなく、坂本に真面目と思われていることが心外に思えてきた。
「真面目じゃないです」
強く否定すると、坂本は空気だけ笑った。
「武田、立候補する?」
見上げる目。
直人は首を横に振った。そして、小さく呟いた。
「分からない」
本当に、迷いは生じていた。
自分の決心って大したことないな。
そりゃあ坂本さんには叶わないよな。
ここ数日の会話から、そして今日の先生にも臆さず攻撃方法を考えている様子から、直人は坂本の底知れない何かを感じて自分の足りなさを思い知った。
それに伴って自分がつまらない人間で、小さくて、情けないという気持ちが内側から溢れてきた。
遠くから眺めている方がやはり幸せだった。
いや、でも。
こうして『よく分からない』自分に、芯を捉えた忠告をしてくれる、そんな坂本を知れて良かった。
うん。
良かった。
姿だけでなく、尊敬できる。
遠くから眺めながら。
こうして時々近付けたら良いのに。
やがて坂本が、直人に竹刀を持ち上げてみせた。
『部活に行ってくる』という合図だった。
「呼び止めて、すみませんでした」
直人は謝った。
「いや、なんかちょっとだけ武田のこと分かってホッとした」
坂本はそう言うと、もう一度直人の頭に手を置いた。
「僕の…ことですか?」
どういうことだろうと思って直人がそう尋ねると、坂本は直人の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「自己犠牲心高め。もうちょっと緩めた方が楽になると思う。けど、まあそれもお前の選択だから何とも言えないけど」
そんなことは初めて言われた気がするが、とにかく髪をクシャクシャにされているのが心地良いと直人は思い、その手が離れるまで身を委ねていた。
「もし何か言いたいことがあったら」
道場に向かう最後の時に坂本は直人に言った。
「またここに来れば会える」
またここに来れば会える
その言葉は、直人には『いつでも会いに来い』という坂本からの許可のように聞こえた。
感極まって胸が詰まり、小さく『はい』とだけ返事をする。
しかしそんな直人の気持ちは全く表に出ることがなく、淡々とした印象を相手に与えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます