第10話 誤解
道場入口近くに、坂本がいた。
呼吸が止まりそうだと直人は思った。
どうしてだろう。妹の真由には普通に接することができるのに、この人にはとても緊張してしまう。さっき、兄妹で似ているところもある気がしたけど、やっぱり全然似ていない。
佇まいが違う。
腰から頭まで一直線に伸びた背筋。
紺色の道着。
白い首筋。
妹に気付いたのだろう。顔を上げた。
こちらを見る目が『あれ?』という表情をしていて、口元は少し緩んで開いている。
ドキドキする。
近付くのが怖いほどだ。
近付けば、自分の気持ちが全て筒抜けになってしまう気がする。
目が合った。
これだけ離れていれば、気持ちは気付かれないだろうか。
気持ち悪いと思われるだろうか。
気持ち悪い…でしょうね。
ごめんなさい。
でも…。
気持ちを押し殺して、黙って頭を下げる。
一歩ごとに坂本に近付いていく。
近付いてしまう。
「お兄ちゃん、武田くんに道場に来て良いって言った?」
真由が兄を見上げた。
「…言った」
その唇から言葉が漏れた。
「そうなんだ。でも、武田くんが道場にいきなり居たら変だよ」
「まあ、確かに」
「でね、道場の奥の、勝手口の近くだったら見えるし、誰か居ても悪くないと思うけど」
兄妹の会話が続く。
直人は目が離せない。
坂本は道着は来ているものの防具を着けていない。紺色の道着の胸元の白い地肌が眩しい。
ああ、本当に綺麗だ。
この気持ちは、絶対に隠し通さなければ。
「見たいの?」
坂本が直人を見上げた。
一瞬、直人は何のことか分からなかった。
見たいって?
え?
何?
今も、見てます。見たいものは。
「本当に見たいの?」
もう一度、坂本が訊いていた。直人は我に返った。
あ、ああ、部活のことか…。
うん。…見たいです。
小さく頷いた。
「真由、連れてってやってよ」
坂本がそう言ってその場を離れようとする。
待って!
「いえ、坂本さんが」
いや、どっちも『坂本さん』だ。
「…お兄さんが」
ああ、言葉のチョイス間違った?
「連れて行ってください。見に来て良いって言ったの、お兄さんでしょ」
なんか、上からっぽい言い方になってしまった。
道場の裏手を二人で歩く。
近付きすぎると心臓が口から飛び出すので、少し離れて後ろを歩く。
坂本が、袴の裾を少し持ち上げて草むらを進む。
白いアキレス腱を凝視した。
辞退届、出せたかな。
直人のところに、それらの情報はまだ入ってきていない。
声をかけようとして、なんて呼べばいいのか迷った。
坂本さん?
真由と坂本が同時に並んだ瞬間から、直人の中で迷いの生じたところだった。
「お兄さん」
思い切ってそう呼んだら、即座に『お兄さんじゃ、ない』と返された。
坂本が振り返った。
「僕にとっては妹さんもお兄さんも『坂本さん』なので…」
「いいよ、どっちも坂本さん、で」
違うんです。直人は思った。
僕にとっては、違うから。
「ええっと、和志さん」
言ってみたかった言葉を言ってみる。
「そんなに親しくない」
坂本が慌てて手を横に振って拒否する。
「お前さ、真由と仲良くなりたいんだろ。あっちを真由って呼ぶ努力しろ」
え?
あ。
そうか、そういうふうに思われるのか。
そうか、それが『普通』か。
泣きたくなる気持ちを抑え、直人は肩をすくめた。
僕は、あなたが好きだけど、それは秘密だ。
だって、多分世間ではそれは『変』だから。
時々、気持ちの遣り場に困るのだ。
じっと黙っていると、坂本が少し心配そうな表情で直人を見上げた。
「お前さ…会長、やりたくないの?」
「……」
「うちの高校も色々伝統はあるけど、嫌だったら断ったらいいんだから」
「……」
中島が、坂本に伝えたのだろう。
どこまで自分の話をしたのだろうか。
でもきっと、芯の部分は触れていないはずだ。
「俺のことも…気にしてくれてるのかも知れないけど、大丈夫だから」
「気にしてません」
直人は気持ちを立て直して言った。
「中島先生に何を言われたのか知らないですけど、あなたは関係ないです」
きっぱりと言い切る。生徒会の件で、坂本には絶対に迷惑をかけたくない。
「だったら…いいけど…」
坂本がそう呟いて、また前を向いて歩き始めた。
「あの…それで…ちゃんと辞退届出せましたか?」
後ろからもう一度声をかける。
坂本が立ち止まった。
「お前に関係ないだろ」
坂本は、振り向きもしなかった。
さっき言った自分の言葉が、キツく受け取られていることに直人は気付いたが、もうどうしようもない。
きついと感じられてでも、生徒会の件と坂本とは切り離しておきたいのだ。
もう、何も言わないでおこう。
直人は思った。
中島にも言われたが、おそらく自分は今、緊張で様子が変なのだ。もう自分から喋らないほうが良さそうだ。
「あのさ、なんでお前って」
坂本が、そう言って振り返った。
「…なんでお前って…見に来たの、道場に」
じっと直人を見上げた。
「…スポーツ観戦が、好きで」
直人はそう答えた。
本当に好きなものは、人には言えない。
「剣道部、入る?」
坂本が言った。
「いえ、見ているだけで」
「…そう」
どうして兄妹揃って勧誘するんだろう。
二人とも、とても剣道が好きなんだろうな。
仲が良い。
道場の勝手口に着き、見て気が済んだら適当に帰るように言われた。
そこから道場に上がるのかと思ったら、坂本は元来た草むらを戻っていった。
「ありがとうございました」
直人が礼を言うと、坂本がチラッと振り返った。
少し笑っているように見えて嬉しかった。
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