第7話 呼び方

 道場の外側は雑草がまだ残っていて足を踏み入れるたびに何か虫が逃げ去る。

 和志は袴の裾をあげてゆっくりと進んだ。足音で、武田が後ろを付いてきているのが分かる。

「お兄さん」

 突然、武田に呼ばれてビクッとした。

「お兄さんじゃ、ない」

 振り返った。

「僕にとっては妹さんもお兄さんも『坂本さん』なので…」

 武田が和志にそう言った。

「いいよ、どっちも坂本さん、で」

「ええっと、和志さん」

 和志はぞわっとして手を横に振った。

「そんなに親しくない」

 なんでそんなに慣れ慣れしくされないといけないんだ。

「お前さ、真由と仲良くなりたいんだろ。あっちを真由って呼ぶ努力しろ」

 武田は黙って肩をすくめた。

 話すきっかけができたので、和志は思い切って訊いてみることにした。

「お前さ…会長、やりたくないの?」

 その言葉に、武田は固まって和志を見下ろした。

「うちの高校も色々伝統はあるけど、嫌だったら断ったらいいんだから」

 少し心配してそう言ってみたが、武田は無表情のままだった。

「俺のことも…気にしてくれてるのかも知れないけど、大丈夫だから」

「気にしてません」

 突如として武田が口を開いた。

「中島先生に何を言われたのか知らないですけど、あなたは関係ないです」

 強い口調で言われ、和志は少し怯んだ。

「だったら…いいけど…」

 感じ、悪い。

 こいつ、やっぱり感じが悪い、と思いながら前を向いてまた進みだす。後ろから、武田がもう一度和志に声をかけた。

「あの…それで…ちゃんと辞退届出せましたか?」

 さっき『お兄さん』と言って呼び止めたのは、これが訊きたかったのだろう。

 和志は立ち止まった。

 辞退届は、出せていない。

 でもそれを武田に言うのがなんだか嫌で、和志は振り向きもせずに答えた。


「お前に関係ないだろ」


 さっき言われたことを言い返しただけだったが、武田は黙った。

「あのさ、なんでお前って」

 俺にだけ態度悪いの?

 イライラして、そんなことを言いそうになった自分を抑える。


「…なんでお前って…見に来たの、道場に」

 和志はもう一度振り返って、武田を見上げた。武田が俯く。

「…スポーツ観戦が、好きで」

 答えが曖昧で、態度も落ち着かない。武田が嘘を言っているんだと和志は悟った。やはり真由に興味があるのだろう。そもそも剣道なんて、経験者でもなければ勝ち負けが分かりにくく、観戦に向かないスポーツだと思う。

「剣道部、入る?」

「いえ、見ているだけで」

「…そう」

 まあ、いいや。

 これ以上いじわるを言っても仕方が無い。



 そこから少し歩いて、道場の裏側に来た。

「暑いから、稽古中はここを開けっ放しにしているんだ。ここから見て、適当に帰って」

 真由のことを待ち伏せするなよ。

 心の中で忠告する。

 和志は勝手口から道場に上がることは好きではないので、草の道を歩いて戻ることにした。

「じゃあ」

 歩き始めた和志の背中に、武田が『ありがとうございました』と礼を言ってきた。


 ちゃんとしてるじゃないか。


 そう思って和志がチラッと振り返ると、武田が真剣な眼差しでこちらを見送っているのが見えた。


 それから、先ほどの会話を思い出した。

 関係ない、か。

 確かに、武田が会長になろうが断ろうが、自分には関係が無い。

 中島のせいで、なんとなく連動しているように感じさせられているが、それは中島の策略だ。自分も辞退届を出し、武田も立候補の届をこのまま出さないこともできる。中島という敵に立ち向かうには、学生同士、武田と結託するのが一番手っ取り早いのだ。

 しかし、自分と武田が組むことは無いだろう。武田は和志にとって謎が多過ぎた。信用していいかどうか分からない。表情が読めない。ある意味、中島と同じくらい信用できない。



 その日和志は、武田が見てるのかな、と思いながら稽古をした。時々勝手口の方を見たが、武田の姿を見ることは無かった。すぐに帰ったのか、うまく姿を隠す角度にいるのか、とにかく武田が稽古の邪魔をすることは無かった。

 剣道の稽古風景は、近付けは近付くほど音が大きくてうるさいと感じるものだと和志は思っている。慣れている者でないと鬱陶しいはずだ。


 …汗臭いし。


 今日で『見たい』なんて懲りるんじゃないかな。

 和志はそう思った。




 家に帰ると、和志は一人の部屋で机に辞退届を拡げた。

 ボールペンを取り出す。

 文面は決まっていて、サインをするだけになっていた。

 サラサラと名前を書いて、そして鞄にしまった。

 









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