EP03 月下香 - Perfume

『危険だとわかっていようとこの甘美な快楽には抗えない』



 ある日のお昼休み。

 とは言っても住み込みだし特に決まった休み時間も労働時間も無いのだけど。

 そんな話はどうでもよくて。お嬢様にお昼を食べましょうと声を掛けようと作業場に行く。

 コンコン、とノックをしドアを開ける。

「お嬢様、失礼しま――」

「――シオン!」

 子犬のような笑顔でこちらに向かってくるお嬢様。

 その手には一枚の紙。もしや。

「あれから考えてたデザインが浮かんできました、それでシオンにも見てもらって……感想を聞いてもっとブラッシュアップしていきたいんです」

 今日のお嬢様はやけにテンションが高いなぁ、と思いながら差し出されたデザインラフを見る。これは……。

「あの時のスイーツがモチーフですか?」

「ふふ、そうなんです。……どうでしょうか?」

 かわいくまとまってて僕は好きですよと返す。

「よかったです、みんなにも見てもらいましょう」

 お嬢様はデザインラフをコピーし、僕と一緒に食堂へと向かう。



 食堂にはちょうどいいタイミングでナズナとモモが昼食を取っていた。

「ん、ゆめちゃんたちもお昼?」

「えぇ。それとちょっと見てもらいたいものがあるんです」

 お嬢様は机の上にコピーしたデザインラフを置く。

「かわいい……」

 ポロッとナズナが零す。

「お姉ちゃんこう言うの絶対好きだと思った!もちろん私も好き!」

 二人は紙を手に取り、ラフの中で踊る文字やイラストを食いいるように見る。

「なんだかここまで言われるとその、照れますね……」

 お嬢様は顔を赤らめながら、とても嬉しそうに食事の準備に取り掛かった。




***




 ――数日後の夕食後、お嬢様の部屋にて。

「……スランプだわ、シオン」

「えっと、つい先日までいい感じでやってませんでしたっけ?」

 そうなんですけど。とお嬢様はため息をつきながら腰掛けてたベッドに寝転ぶ。

「お父様は時間をかけてもいいって言ってはくれますけど……それでもやっぱり私自身が時間をかけるのはあまり好きじゃなくて」

 と言いつつもそのままごろごろと、天井を見ながらだらしなく転がるお嬢様を見ていると、ノックの音がする。

「鍵は開いてますよ」

「お嬢様入りますよ」

 ガチャ、とドアが開かれる。

 入ってきたのは同僚であり上司でもあり。

 あとは、友人?のような関係でもあるカリン。

 腰まで届くロングヘア、そして少し背も高くご丁寧に毎日メイド服を着ている女性。

 この屋敷の中で一番最初に雇われた人間で、お嬢様とも付き合いは長い。


 カリンは僕とお嬢様を交互に見ると少しの間考え、言葉を発する。

「……これはお邪魔でしたか、ごゆっくり」

「カリン、思ってることと全然違うから要件をどうぞ」

 ですよね、シオン君にそれは無理ですよね、とにこりと笑う。

 続けてわざとらしく。あぁ、忘れてました。とカリンが持ってきたものを掲げる。

「……ワインですか?」

「シオン君にはワイン以外に見えてるのですか?ちょうど近くにいい眼科がありますので」

 赤にしか見えません、と何事もなかったかのようにカリンの言葉を遮る。

「旦那様が頂いた物ですが旦那様はワインはあまりお飲みになりませんので」

「そうですね。少しリフレッシュするため、今夜は飲みましょうか。……シオンはワインは飲めますか?」

 えぇ、ワインは赤派ですと答えた僕を見ながらお嬢様は勢いよくベッドから起き上がる。

 カリンは無言で頷くと部屋を出る。一足先に今宵の準備をするのだろう。

 お嬢様は服を整えると携帯とポーチを手にする。

「それじゃ今日は楽しく飲みましょう、シオン」

 はい、と頷き二人で部屋を出る。

「あ、僕も自室から取ってきていいですか?」

 部屋の鍵を閉めるお嬢様に問う。

「カリンを待たせちゃ悪いから私のじゃ……だめですか?」

「……そうですね。それでは早く向かいましょうか」

 お嬢様は微笑むと僕と共にカリンの元に向かう。

 この屋敷で一番お金がかかってるであろう場所、なぜか無駄に隠し扉で隠されているバーカウンターへ。


「毎度ながら思いますけどこれ、趣味にしては気合い入れすぎですよね旦那様」

 本物のバーなんじゃないかと思わせるレベルの量で様々なお酒が並んでいる。

 ここは旦那様の趣味で作られた部屋であり、唯一旦那様が贅沢をした場所でもある。

「適当にアテは見繕いましたので開けましょうか」

 慣れた手付きでコルクを抜くカリン。ほんのりとワインの香りが漂ってくる。

「ほらシオン君、グラスをちょっと貸してください」

「あ、はい」

 グラスに注がれた少量のワイン。所謂テイスティングと言うやつだろうか。

「凄いですね。なんて言えばいいかわかんないです」

 恐ろしいほど庶民的感想しか出せなかった自分に悔しいと思っているとカリンはこう付け足す。

「これが確か。まぁ六桁ちょっとくらいは行く物なのでそれだけで下手したら――」

「――それ以上言わないでください怖くなりますから!!」

 その表情を見たかったんですよと言わんばかりの笑顔で僕を見るカリン。

 僕とカリンを見ながらお嬢様は無邪気に付け加える。

「でもお父様に贈られるものならもうちょっと」

「お嬢様、追い打ちはやめてください。勘弁してください……」

 カリンが無言で注ぎ足すこのグラス一杯、少なくとも一番額面の高いお札が何枚か。

 事務作業でしか見たことのない桁数、普段からお嬢様も旦那様もとにかく贅沢をしないので……。

 とても苦い表情をしていると、カリンが少し呆れながらもフォローを入れてくれる。

「シオン君、大切なのは金額ではありません。味わうこと、楽しむことですよ」

 カリンの言葉で今までの雑念とでも言うべき物が全て消え、心が透き通っていく。

「ほら、シオン。楽しみましょう?」

「……えぇ、楽しみましょう!」




***




「え、なにこれは」

「お酒と煙草の匂いでぐっちゃぐちゃだね……」

 朧気な意識が少しずつ覚醒する中で、女子高生たちに醜態を晒す大人達。

 とりあえず、思い出せるだけ思い出しながら説明することにした。


 ……えっと、確か。

 まず例のワインを適当に飲みつつ、つまみを食べたり話したり。

 そのうちワインじゃ物足りないとカリンが奥からウイスキーを取り出してくる。

 シオン君も飲みますか?の言葉にロックで、と返す。

 ここまではまだ大丈夫だった。ここまでは。


 残ったワインをお嬢様が飲み干し、少しため息をこぼしながらポーチの中を探る。

 三人分の煙草を取り出し、三人一斉に火を点け、紫煙を燻らせる。

 お酒の匂い、紫煙の香り、複雑に絡み合い溶け込む。


 暢気に煙草を吸っていると手元にあったグラスが無い事に気が付く。

 横を見るとお嬢様が僕のグラスを奪い飲んでいた。

 ……しょうがないので自分でもう一個グラスを用意し氷を入れる。

 ゆっくりとこれまたお高いであろうウイスキーを飲みつつ、たまにはのんびりと葉巻でも吸うかと思いつく。

 バーカウンターの中にある自分の葉巻から適当に一本見繕って持って帰る。

 ……あれ、グラスがない。

 お嬢様、また飲みましたね?と問いただすと、シオンの飲むものは美味しいですから。と返されなんとも言えぬ表情をしながら……。

 しょうがないので再度空いたグラスを取り、またウイスキーを入れ葉巻を吸う。

 ここからお嬢様がついに暴走を始める。


「あっ、お嬢様?!それ僕の葉巻ですよ!?」

「えー?火が途切れちゃいそうでしたからぁ……」

 軽く説明すると葉巻は放置していると火が消えてしまい味も落ちてしまうのだ。

 いや、消えるのだ!じゃなくて。まだ消えないしそもそも灰も落ちてはないし。

「シオン君。これは――」

「いわないでください!」

 ニヤニヤし続けるカリンもわりかし酔いが回ってきているらしく……。

「……んで、シオン君?」

「一応聞くだけ聞きますけど、なんですか?」

 とてもとても嫌な予感しかしない。

 じわじわとこちらに近寄るカリン、そして正面から見つめられる。

「……なんですか?」

「膝枕、してほしいんですよ」

 ……?

 ……。

 あぁ!ここに平穏なんてなかった!むしろ求めていた僕がバカだった!

 お嬢様は絡み酒、カリンは甘え上戸。

 傍から見れば美人に美少女に、とてもとても天国のようにも見えるだろう。

 それが、普通ならまだしも。雇い主、上司。……同居人。

 普段はそもそも何も気にしてなかったけど……ここには女性が多いわけで。

 ……じゃなくて!

「こんなバーカウンターでどう膝枕するって言うんですか!」

「えー?こう」

 器用にカウンターチェアに身体を委ね本当に膝に寝転がるカリンを見て諦める。

 もう、考えたらめんどくさいからやめた。


 はずだったんだけど。

「なにシオン?私にはなにかないんですか?カリンだけずるいです!」

 泥酔お嬢様が絡んでくる、あぁ……。

 これはパワハラなのかセクハラなのかアルハラなのかモラハラなのか。

 こちとらハラハラしてるよ、違う意味でドキドキしてるよ……。

 本当にこの人達……普通に接してればご褒美なんだけど、やっぱ酒飲ませたら絶対だめだな!

「何かって……別に何かあるわけではないですよ」

 それを聞くとふてくされたお嬢様は相変わらず僕のとっておきだった葉巻を吸いながらウイスキーを煽る。



 そこから何時間たっただろうか。

 奥のソファーでだらしなく寝るカリン、もはやうめき声にしか聞こえないが絡み続けてくるお嬢様。

 そしてなんとか意識と理性を保ちながら炭酸水を飲む僕。

 ……そんな惨状を見てしまう双子。




***




「あと少しで通報する所だったよ」

「おにい……出所するまで待ってるからね!」

 先程まで甘美な地獄に居た身分としては投獄の方がいっそマシなのではと思えてくる。

「とりあえずブランケットとか持ってくるねー!」

 モモは元気に、そして素早くこの混沌とした空間から逃げ出す。

 ナズナがニコニコと近づき耳打ちをする。

「んで、どっちが美味しかった?」

 最後の銃弾をこめかみにぶち抜かれたように僕はうなだれる、負け。

「あはは、わかってるよそんな根性ない事くらい」

「ねぇ、僕の評価ってみんなそう思ってるの……?」

 そうじゃないの?と返してくるナズナにもはや何も答える気になれずグラスの炭酸水を飲み干す。


「んあ?……ナズナだぁ……!」

 あっ……。

「お嬢様、私急用が」

「逃さないですよ……えへへ」

 お嬢様にがっしりとホールドされるナズナ、もう逃れられまい。

「シオン」

 ナズナに名前を呼ばれた気がしたが気の所為だろう。

「ねぇ……?」

 こう言う時だけ上目遣いをするがとりあえず放置。

 段々お嬢様に飲み込まれていくナズナをしばし観察する。

 そして声も聞こえなくなった頃に仕方なく救済の手を差し伸べる。

「お嬢様、ナズナがその……埋まってますのでそろそろ解放してあげてください」

「ふふ、はぁい」

 ナズナが解放されると同時に僕に対し蹴撃を繰り出す。

「危険予知ッ!」

 ナズナの事だ、埋められた恨みである程度なにか来るだろうとは思ってたのでギリギリで避ける。

 するとお嬢様はまたナズナに絡みつく。

「だめでしょう、ナズナぁ……大切な家族なのにぃ」

「シオンッ!!」

 行ってらっしゃいと手を振る。またもやナズナはお嬢様に飲み込まれていった。

 先程と同じ要領で沈んでいくナズナ。どのタイミングで声を掛けようかと思っていると首根っこを掴まれれる。

「……シオン君、寂しいです」

 うわあ、一番大変な上司が起きてきた。やっぱり全部諦めよう。

 最後に、ブランケットを取りに行くふりして見てたモモをひと睨みだけして。

 僕は再び逃れられない上司からの濁流に飲み込まれていく。




***




 ……頭が痛い。

 と言うか足腰全部痛い。

 なぜならそれは僕が床で寝ているからだ。と言う事まで把握するのに少し時間を要した。

「よいしょ……っと」

 痛む身体をどうにか起こしながら恐る恐る辺りを見渡す。

「大惨事だ」

 女の子と女の子がこう、積み重なってる。

 一部の人にとっては眼福かもしれないが……僕にとっては家族も当然なので。

 しょうがなく一つ一つ処理していく事にした。

「おーい、ナズナ。生きてるか?」

 うぅ、とうめき声をあげながらゆっくりと起き上がるナズナ。

「よくも見捨ててくれたな……」

 起き上がった瞬間肩を掴みかかるナズナを適当に処理しながら考える。

「とりあえずみんな起こそうか」

 まずは義妹、その後に泥酔上司を起こすことにしよう。


 ソファでブランケットを抱え眠るモモに声をかける。

「モモ、起きて。そろそろちゃんと布団で寝よう」

「ん、おにい……か。一緒に寝るの……?」

 寝ぼけてるのか素なのか、からかっているのか。まったくわからないけど、とりあえずモモを起こすことには成功した。

 背伸びをする義妹からブランケットを回収し適当な所に置く。

「私、コーヒー淹れてくるねぇ……」

 一枚だけ手に持ったブランケットを背中に羽織り台所に向かうモモ。

 次はじゃあ……上司。


「カリンさーん、起きましょう。お酒抜けてるでしょう?風邪ひきますから」

 カリンに声をかけると、意外にもすんなりと起きる。

「あぁ、シオン君。おはようございます」

 おはようございます、と返し水を差し出す。

「気が効きますねー。さっきまで私の腕の中に居たと言うのに」

「……あれ自分からやってたんですか?」

 流石に酔いですよ、と笑いながら水を飲み干すカリンになんとも言えない表情を返しながら僕も水を飲む。

「でもシオン君、かわいかったですね」

 グッと水を吹き出しそうになるのを堪えながら少し赤くなる頬を必死に隠そうと頑張る。

 いや、赤くなんてなっていない、いない。

「照れてますね、やはりキミはからかいがいがあります」

 もうこの人に真面目に接するのはやめとこう、少なくとも仕事じゃない時は。

 ……さて、お嬢様。


 ――毎朝、僕はお嬢様を起こしに行ってる。

 だから、慣れてると思ってた。

「お嬢様――」

 ――あぁ、眠り姫はこれ程までに美しいのか。

 普段とは違う角度から見るお嬢様は宝石と言っても過言ではない程に、僕には眩かった。

 眩さ、それはつまり美しさ。そして可憐で、儚く散ってしまいそうな花。

「……シオン?」

「あっ、おはようございます。……お嬢様」

 思いっきり思考がフリーズしてしまった。

「シオン君はお嬢様に惚れてるんですよ」

 後ろからカリンの声が聞こえる。いつもなら思いっきりツッコミを返している所だが……。

 正直な所、本当に惚れてしまったんじゃないかと思うくらいに心を揺さぶられた。

 兎にも角にも、この甘美で抜け出そうにも抜け出せない地獄から解放されたのであった。




***




 数日後。

 お嬢様の元に業者からサンプルが届いた。

「結局あのラフで最終通したんですねお嬢様」

 手元に届いたサンプルと例のラフを手に取り見比べながらお嬢様とお茶をする。

「えぇ、やっぱり考えた結果これが一番だと思いまして」

「とても――素敵ですよ」

 ありがとう、とお嬢様は笑顔で返事を返すとサンプルを丁寧にしまい会社へと電話を掛ける。

 ここに居てもしょうがないのでとりあえず外に出ると。

「おや、シオン君じゃないですか」

「どうしたんですか……って、それは」

 ワインに見えますか?と尋ねられるので、日本酒にしか見えませんと返す。

「わかってるじゃないですか。なので今晩」

「しばらくお酒は飲まないことにしてるので!」

 とりあえず逃げることにした。



 結果は――言わずもがな。

 さけは のんでも のまれるな。

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