第46話

「この人を、見かけませんでしたか?」


 もう何十軒を、いやいくつの村を訪ねただろう。

 声を枯らして村人に話しかけ、家々の扉を叩いた。

 足は棒のように疲れ切り、ずっと外に出ているせいで顔も日に焼けて赤くなってしまい、ヒリヒリする。


 今日も何の収穫もなく、私たちは宿に戻った。


 宿の一部屋に集まり、麗質リージィと話していると梓然ズレンも捜索から戻ってきた。

 外は雨が降り出していたので、彼は濡れた外套を脱いで椅子の上に掛けた。


「参ったよ。途中でかなり雨が激しくなってね」


 梓然は椅子に腰掛けると、麗質が出した茶を一気に飲み干した。

 私たちは互いに目が合うと、ゆっくりと首を左右にふり、それぞれが収穫なしだったことを、知る。

 そうして卓に広げた地図を皆で覗き込み、それぞれが訪問した村を墨で塗り潰していき、地図を埋めていく。

 毎晩の作業が終わると、梓然は言った。


「今日は川で溺れていた兵士を介抱している、という家を訪ねたんだ」

「どうでしたか?」

「確かに、兵士がいた。肋骨と足の骨を折って、村長の家で横たわっていた。だが、禁軍の兵士ではなく、平雲州の兵士だった」


 渓谷の衝突では、州軍の兵たちにも多くの犠牲者が出たのだ。

 麗質が羊皮紙に描かれた一枚の似顔絵を広げ、蝋燭の灯りの下で見入った。


「ねぇ、珠蘭。この絵って蔡侍従に似ていると思う?」


 それは皇帝が宮廷絵師に描かせた似顔絵だった。

 俊熙ジュンシーを描いたものだったが、雰囲気が少し似ている程度で、正直それほど似ていない。だが高価でも耐久性の高い羊皮紙にわざわざ描かせたところに、皇帝の気持ちがこもっている。


「あまり似ていると思えないです。どこがと言われると困るんですが」


 すると、梓然ズレンが言った。


「あのような美貌の持ち主を、筆で描こうとすることに、無理がある」

「戸部侍郎様も、お綺麗ですよ」


 麗質リージィが大真面目にそう言うと、梓然は意外そうに目を見開いた後で、苦笑した。


「とにかく、明日も粘ろう。最後まで諦めずに」


 皇帝から梓然が貰った休みは、二週間だった。

 明日で終わりにしなければ休暇が終わってしまう。

 花琳ファリンは一足先に、取得できた休暇が終わってしまい、宮城に戻っていた。

 隣の部屋に戻ろうと私たちの部屋を出ていく梓然を、麗質が見送る。

 廊下に出た後も、しばらく二人の話し声が扉の向こうから、聞こえている。

 この捜索の旅の間に、二人の距離は随分近くなったようだった。

 私は腰帯にはめた瑪瑙の玉環を手に取った。


「俊熙。明日こそ、かならず見つけるからね」








 翌日、私は湖のそばの村を訪ねた。

 私が絵を見せて、この人物を知らないか、と聞いて回ると大抵は、「こんな豪華に髪を結い、立派なほうを纏った男なんざ、この辺りにはいない」というのだった。

 どうも皆、顔より衣装に注目してしまうらしい。

 聞き方を変えるべきだろうか。

 地図を片手に湖沿いの村を歩き、ついになだらかな山の麓にやってきた。

 そのうち、一番大きな家の前にいた女性に声をかける。


「こんにちは。人を捜しているんですが、この辺りで似た人を見かけませんでしたか?」

 

 俊熙の似顔絵を広げてみせる。

 家の前の地面に屈み込み、地べたに敷いたまな板の上で魚を切っていた高齢の女性は、その細い目を瞬かせ、小首を傾げた。


「目のあたりが似てる人を知ってるよ。少し前に湖で保護された若い男に似ているね」


 湖。

 川ではないので、俊熙の可能性は低いかもしれない。

 それでも、しらみつぶしに当たるべきだろう。


「その人は、今どちらに?」

「この村の一番奥の家にいるよ。親切にも若い娘がこのところ、ずっと介抱してあげているんだよ。――最近はだいぶ動けるようになって、漁にも出ていたよ」


 女性は山の麓の方向を顎で指した。

 湖からすこし離れると雑木林が広がり、その入り口付近まで村の家並みは続いている。

 一番向こうに建つのは、小さな小屋だった。そしてその隣にあるのが、木造の家屋だ。

 私は女性に礼を言うと、奥の家に急いだ。


 一番奥の家に辿り着くと、そこの住人と思しき女が家の前の切り株に座り、何やら作業をしていた。

 大きな網を膝上に広げ、その端の方に白い綱を通しているようだ。湖で使う網を繕っているのだろうか。

 足元には小さな焚き火があり、作業で出た綱の切れ端や屑らしきものが、燃やされている。

 私が近づくと女はちらりとだけ目線を上げ、また手元に戻した。

 はっきりとした綺麗な顔立ちをしていて、意志の強そうな濃い眉が印象的だった。同い年くらいだろうか。


「お仕事中のところ、すみません。ちょっとお尋ねしたいことがありまして」


 そう声を掛けると、女はゆっくりと目を上げた。


「こちらのお宅に、湖で保護された男性がいると聞きまして」

「あんた、誰?」


 ややぶっきらぼうな話し方に、少し戸惑う。


「身内を探しております。……川に流されて、行方不明になってしまったんです」

「だから、あんたはその人のなんなの?」


 それは問われてみれば非常に答えにくい質問だった。私は俊熙の何だろう?

 それを彼自身から聞きたい。

 私は無難そうな答えを選んだ。


「いとこです」

「いとこ? ……そう」

「その人は、この人でしたか?」


 皇帝が描かせた似顔絵を見せると、彼女は小さな溜め息をついてから頷いた。


「そうね。似ているかもしれない」

「今、会えますか!?」

「無理よ。もう出て行ったもの」

「出て行った? ここにもういないんですか?」

「――そうよ。記憶をなくしていたんだけど、思い出したみたいで、急に出て行ったのよ」


 女は顎で奥にある小屋を指した。

 小屋は扉が開き、中にだれかがいる様子はない。

 パチパチと火が爆ぜる音がして、灰色の煙が風に乗って鼻腔を掠める。落ち葉に火が移り、葉がくるりと形を変えながら燃えていく。小さな焚き火の中には、円型の焦げた木の環らしきものも見える。すぐにそれも火に飲まれ見えなくなる。


「それは、いつですか」

「もうとっくの前に出て行ったわよ。一か月も前にね」


 そんなに、前に?

 近所の人の話と随分違うようだ。

 もしそんなに前に出て行ったなら、俊熙ではないのだろうか。一月もあれば、とっくに帝都に着いている。


(また空振りだった……?)


 期待が萎んでいき、しばし立ち尽くしていると女は呟いた。


「いいわね。綺麗な襦裙じゅくんを着て」

「えっ?」


 女は手元の綱を畳みながら、吐き捨てた。


「あなたには、私の気持ちは絶対に分からないわよ」


 狼狽していると女は眉をひそめ、語気を強めた。


「さあ、もう行って! 作業の邪魔なのよ」

「すみません。――ありがとうございました」


 似顔絵を巻き戻し、速足でその場を去る。

 思わず自分の着ている襦裙を見下ろす。

 刺繍のない、地味なものを選んだつもりだ。街中には同じようなものを着ている娘たちもたくさんいる。それでも漁村には不向きで、彼女の癇に障ったようだ。


 ――一月も前に出て行った?


 でも同じ村の人は、若い娘がずっと介抱していると言っていた。

 言いようのないもやもやが胸中に渦巻く。

 どこかに、すれ違いが、いや嘘が紛れ込んでいる。

 更に隣の村に足を伸ばそうとした時、不意に閃いた。


 ――最近なんだ。きっと、その人がこの村を出て行ったのはつい最近だ。


 歩いていた足が、びくりと止まる。

 何かとても引っかかる光景を見た気がするのだ。

 小屋?

 違う、焚き火だ。

 もう一度見たものを頭の中で整理する。

 その瞬間、私は叫び出しそうになった。


「あれは……!」


 後にした村を、身体ごと振り返る。

 燃やされていた木の環は、宮城で俊熙に私が手渡した腰帯飾りだ。

 互いに交換したものだ。

 私は急いで宿に走った。

 間違いない。俊熙はあの家にいた。

 そして俊熙は出て行ったばかりなのだ。




 私たちが宿泊している宿には、まだ誰も戻っていなかった。

 梓然も麗質も、昼まで外に出ているのだろう。待っている間が惜しい。

 今を逃したら、きっとまた遠ざかる。

 梓然ズレンたちに書き残しを置いていく。

 俊熙はお金を持っていない。徒歩で北に――帝都の方角に向かったのだろう。


 私は一番足の速い馬を宿の厩舎から連れ出すと、焦る気持ちのまま、飛び乗った。

 そうして村から北上する道をひた走った。

 まだそう遠くは行っていないはずだ。

 街道を歩く人々の顔を、追い越しざまに確認していく。

 この二ヶ月ほどで、痩せたかもしれない。体格だけでは判断できない。


 昼近くになると、少し大きな街に出た。

 安そうな食堂を片端から探し、覗いていく。舐めるように人々の顔を見て、目が異常に疲れたが、あまりの興奮に、お腹はまったく空かない。

 ふと甘い香りが漂ってくる。

 顔をそちらに向けると、広場の屋台が並ぶ場所から、干果物ドライフルーツの香りがする。

 橙色や赤色、緑色の色とりどりな干果物を大小様々な形に切ったものを、量り売りにしているのだ。


(俊熙の好物だ……)


 足が自然とそちらに向かった。列に並び、思わず買ってしまう。

 店主は林檎と蜜柑みかんを輪切りにしたものを、笹の葉の袋に入れてくれた。

 列から離れ、人でごった返す市場を歩く。

 馬を引いて、人捜しをしながら歩いていると、馬が鼻面を笹の袋に突っ込もうとしてくる。馬は林檎が大好きなのだ。

 仕方なく、数粒を取り出して、馬にやる。

 馬は口を左右に動かし、嬉しそうに食べた。


「美味しい? 良かった」


 鼻の上を軽く撫でてやり、視線を雑踏に戻すと、少し先の井戸のそばに座り込む男に目が吸い寄せられた。

 男は通りの先の方を向いているので、顔は見えない。だがその手には食べかけの瑞々しい林檎が握られており、その指先には包帯が巻かれている。

 あれでは林檎が食べにくかろう。

 もっと干林檎を寄越せとばかりに私の肩を鼻先でつつく馬をよけながら、私は男の方に歩いていった。

 手が痛々しい。

 だが、その手になぜだか見覚えがある気がした。

 粗末な生地の袍を纏い、裾が擦り切れた袴を穿いている。だが男は髪の毛を非常に几帳面にまとめ上げていた。その落差が、妙に目を引いた。

 近寄るにつれ、その白い頰が見えた。

 石英の彫像のように綺麗な鼻筋が。

 少し荒れてしまっている薄い唇が。

 ――どくどくと心臓が早鐘を打つ。

 震える足で一歩ずつ、彼に近づく。

 後ろにいた馬が私の手の中の袋を鼻で突き、それが地面に落ちる。ひっくり返った干果物ドライフルーツが、一斉に男の足もとに散らばる。

 黒曜石のような輝きを持つ、美しい瞳が私を見上げる。

 私は今、どこにいるのだろう?

 何を見ているのだろう?

 一瞬、頭の中の全てが弾け、真っ白になる。

 私たちはお互いに同じく、限界まで目を見開いて見つめ合っていた。

 ――――俊熙が、そこにいた。

 声を掛けようと口を開いたその刹那、私の目には涙があふれ、ほとんど何も見えなくなった。瞬きをしても溢れ出る涙が止まらない。

 喜びと驚き、そして安堵が渾然一体となって胸に押し寄せ、喉元まで熱いものがせり上がり、言葉にならない。

 数回どうにか浅い呼吸を繰り返すと、私は倒れこみながら抱きついた。


「俊熙……っ!!」


 捜した。

 どうしてここにいるのか、どこにいて、どんな状況だったのか。

 何があの時起きたのか。

 聞きたいことが多すぎて、頭の中がごちゃごちゃになる。

 だが今はただ、彼を離したくなかった。

 頰を俊熙の頰に押し付け、その温もりを感じようと擦り付ける。涙で頰が滑り、離れまいと両腕に一層力を込めてしがみつく。

 俊熙の首にひしと縋り付いていると、彼は驚きに掠れた声で呟いた。


「詩……月様?」

「そう、そうよ。どうして……」


 言いたいことは山ほどあった。

 だが今、一番彼に言いたいのは、ただ一つだった。


「もう二度と、私を置いていかないで……!」


 死んだのだと、もう私のもとには戻らないのだと思った。

 こんな思いは二度としたくない。

 俊熙を離したくなくて、彼から離れたくなくて私はそうして随分長い時間、彼に抱きついていた。

 その間俊熙はずっと私の背に手を回し、そっと抱きしめてくれていた。

 やがて私はようやく彼から離れ、膝を地面についたまま、互いに見つめ合った。


「ご心配をおかけしてしまいました」

「州軍との戦いで、川に落ちたんでしょう?」

「はい。記憶喪失になり、しばらく自分が誰かも分かりませんでした。ようやく全てを思い出しまして、これから帝都に戻るところでした」

「捜しにきて、本当によかった」

「詩月様は、私を捜しに……?」

「……私、全部皇帝陛下から聞いたの。俊熙がなぜ宦官を演じていたのかも」


 俊熙は目を伏せ、そうですかと小さく呟いた。

 少し悲しげに微笑み、彼はゆっくりとその漆黒の瞳を上げ、私を見た。


「本当はちゃんと自分で、詩月様にお伝えしたかったのです」


 私は彼を真正面から見つめた。


「俊熙。ずっと聞きたかったの。――その……、あなたの気持ちを。――私をどうして華王国まで迎えに来てくれたの?」

「約束したではありませんか。十三歳の時に。貴女の縁談が破談になった、あの旅の帰りに。――詩月様、貴女が欲しくて仕方がなくて、私は育った国を捨てたのです」


 俊熙は右手を伸ばして私の頰に触れ、至近距離から私を覗き込んだ。


「詩月様はなぜ私を捜しに?」

「決まってるでしょう。約束を守らせるためよ」


 私たちは互いの頰を愛しげに触れながら、小さく笑った。


「詩月様、私とこの先もずっと一緒にいて下さいますか?」


 真剣に見つめてくる俊熙の前で、思わずおかしくなってくすくすと笑ってしまう。

 俊熙は少し不服そうに表情を曇らせた。


「何かおかしいですか?」

「足りないわ。昔、私を子どもだと笑ったくせに。――それじゃ、十三歳の時の私より、全然足りない」

「つまり?」


 私はいつか、俊熙の前で語ったことをもう一度切り出した。


「――同じ所に住んで、」


 その後は俊熙が引き継いだ。


「死ぬまでそばにいる――」


 涙がぽろぽろと転がり落ち、私はそれを袖で拭った。

 俊熙は手で私の涙を拭いながら、言った。


「いつの間にか、泣き虫に戻られたのですか」

「貴方が帰ってこないから、華王国に戻っていたのよ、私」


 蕩けるように甘かった俊熙の顔が、一瞬にして険しくなる。


「詩月様、どういうことでしょうか」

「後で話すわね。物凄く長くなるから」


 視線を彷徨さまよわせると、俊熙の左手にあったはずの林檎は地面に落ち、私の馬が美味しく平らげていた。

 苦笑しつつ、俊熙の手を取る。


「一旦宿に戻りましょう。麗質と梓然も来てくれてるのよ。それに、陛下にお伝えしないと」


 そうして私たちは立ち上がると、道端の干果物も食べ終えた馬に乗り、宿へと駆け出した。






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