第47話

 宿までの帰り道。

 私たちは馬に二人乗りし、街道を戻った。

 いくつもの小さな湖を通り過ぎ、やがて川沿いを走った。

 平雲州を流れる川は透明度が高く、川底すら見える澄んだ碧色をしていた。

 川岸に植えられた柳の木が風に揺れ、簾のように下に垂れる枝と葉達が、さらさらと音を立てる。


「平雲州は綺麗なところね。川や湖がたくさんあって」

「ええ、そうですね。――記憶を失っている間、湖のそばにおりました」


 俊熙はそこで一旦言葉を切った。

 続きを待っていると、彼は少しの沈黙の後で話し始めた。


「ですが、不思議なことに美しいと感じることはありませんでした。景色を味わう心のゆとりがなかったのかもしれません」


 俊熙は手綱を握っていない方の腕を後ろから回し、私を抱きすくめた。

 身体が俊熙と密着し、胸が痛いほど心臓が騒ぐ。


「俊熙……。今は、美しいと感じる?」

「はい。不思議なほど、景色が心に刺さります」


 俊熙は馬の速度を緩めると、私の頰に触れ後ろを振り向かせた。

 その後の展開を予想できた私は、すぐに目を閉じて背中を伸ばし、俊熙の唇を唇で受け止める。

 唇が離れると、私は痛いほどの早鐘を打つ胸を押さえながら、俊熙に寄りかかるように身を寄せた。


「詩月様がおそばにいらっしゃると、どんな景色でも価値あるものに思えます」

「本当に? 嬉しい。……もう一回言って」

「お可愛らしいおねだりですね」


 俊熙は私に熱い口づけを降らせた。






 やがて宿までの道のりを半分ほど遡ったころ。


「珠蘭! 珠蘭っ!!」


 絶叫のような声が道の先から聞こえたと思うと、一台の馬車が私と俊熙の前で止まった。

 黒塗りの地味なその馬車は、私たちや麗質リージィが帝都から乗ってきたものだ。  

 私が馬を滑り降りたのと、麗質が馬車から飛び降りたのはほぼ同時だった。

 続けて梓然ズレンが顔を覗かせ、その薄茶の目を見張る。


「宿の書き置きを見て、急いで追いかけてきたの…っ」


 私の前まで駆けつけ、視線を上げた麗質はそこで言葉を切った。彼女の目は驚きに大きく見開かれ、馬上の俊熙に釘付けになっていた。

 その大きな目にあっという間に涙があふれ、頰を転がり落ちていく。


「蔡侍従……っ! 生きてらしたんですね!!」


 そのまま口元を押さえ、良かったと連呼する。

 振り返ると俊熙が馬から降り、麗質と梓然の前まで歩いてきていた。

 彼は深々と頭を下げた。


「お二人にはご迷惑をお掛けしました。本当に申し訳ございません。いらしてくださったお陰で、こうして無事帝都に戻ることができます。ありがとうございます」


 梓然は何度も頷きながら、言った。


「友よ、顔を上げておくれ」


 顔を上げた俊熙は若干狼狽していた。

 梓然は笑った。


「あの弾劾文が書かれた竹簡を受け取った時から、私たちは一蓮托生ではないか」

「こんな私を、友と呼んでくださるのですか?」

「君を友と呼べて、これほど光栄なことはない」


 梓然は俊熙の肩を何度も叩き、その後で苦笑しつつ麗質の頭をぽんぽんと撫でた。

 麗質は涙腺が壊れたように、泣きじゃくり続けていた。





 平雲州から帝都に帰着すると、私達はまっすぐに宮城に向かった。

 前泊した宿で俊熙は身綺麗にし、着ていた粗末な衣服から、梓然が持ってきていた暗い色の袍を纏った。

 私も彼の着るものを持ってきてはいたのだが、宮城に着て上がるには、色が明かる過ぎると言って俊熙は選ばなかった。

 俊熙は主張した。


「宦官の官服は、紺色なのだから」

「だからって、こんな時まで紺色を着なくても……」


 入浴をすませると俊熙は見違えるようになったが、やはり少し痩せたのか、以前より頰が細くなっていた。






 宮城に着くと、報せを受けていた禁軍の兵たちが城門に集まり、私達を出迎えてくれた。

 俊熙の手を握り、感謝を示したのは禁軍の右軍を率いていた中尉だった。

 集まっているのは禁軍だけではなかった。

 かつての同僚の宦官たちも多く駆けつけ、私たちは皇帝が待つ太極殿までの道のりを、多くの禁中の人々に囲まれて進んだ。


 宮城の中でも一際大きい、白い基壇を持つ太極殿に近づくと、正面の入り口に皇帝が立っていた。

 俊熙の姿を見とめるなり、階段をまっすぐに降りてくると、皇帝が早足で私たちの前までやってくる。

 梓然ズレン麗質リージィ、それに私は足を止め、俊熙だけが皇帝の正面まで進み、その場で腕を胸の前に組み、膝を地面についた。

 皇帝は数回、大きく呼吸をした後で胸を押さえ、少し震える声で言った。


「俊熙。――よく、戻ってくれた」

「不甲斐なくも、記憶喪失に陥っておりました。職責を全うできず、大変申し訳ございません」

「そんなことはない。平雲州で神策軍が全滅を免れたのは、そなたが谷で右軍の先頭まで駆けたからに他ならない」


 少し離れて皇帝の後ろに控えていた右軍中尉が、大きく首を縦に振る。

 皇帝は続けた。


「この度の皇太后一派という、逆賊討伐の功績はひとえにそなたにある。褒美を取らせよう。何でも望みのものを、言うがいい」


 俊熙は静まり返った太極殿の前で顔を上げ、はっきりとした口調で言った。


「私の望みはただ一つにございます。宦官という身分を捨て、男に戻りたく存じます」


 誰もが言葉を失った。

 麗質は動揺した表情で辺りの様子を伺っていた。 梓然はひたと俊熙を見つめている。

 皇帝は一瞬驚いたように目を瞬いたあと、豪快に笑った。そしてよく響き渡る王者然とした大きな声で言った。


「吏部尚書をここへ呼べ」


 数分後、状況が読めず明らかに困惑した様子の吏部尚書がその場に駆けつけた。

 吏部尚書は文官の人事を掌握する組織の長たる官吏である。


「陛下、お呼びでございましょうか」


 皇帝は吏部尚書に語りかけた。


「急に呼び出してすまないな。だが、教えてほしいことがある」


 吏部尚書は「なんなりと」と言いながら、頭を少し下げる。


「三年前の科挙の金榜には、第一甲の先頭にくるべき首席合格者の氏名が掲載されていなかったが、これはなぜかそなたは知っているか?」


 第一甲とは、成績順で一番良い合格者群のことだ。


「――はい。皇帝陛下の命により、首席たる当該合格者氏名は公表されず、また唱名されませんでした」


 周囲にいた官吏が騒つく。

 梓然と私の目が合う。三年前の科挙の最終試験である殿試において、首席合格者がいなかったことは、彼から聞いていた。

 そしてその殿試を俊熙も受けていたはずだということも。

 梓然は大層、怪訝な表情を浮かべていた。

 皇帝は続けた。


「余はその命令を今、撤回する。この場においてその名を発表せよ」


 吏部尚書は皇帝の命令に驚き、一瞬目を見開いた。だが事態を飲み込んだのか、もしくは長年の間官僚機構の中枢にいた経験がそうさせたのか、すぐに冷静沈着な表情に戻った。

 そうして太極殿の前に集った人々の方にゆっくりと身体を向けると、朗々とした声で言った。


「第一甲第一名、蔡 俊熙。蔡 俊熙」


 吏部尚書が唱える自分の名を、俊熙は微動だにせず聞いている。唱名は三度行われる。

 蔡 俊熙、と最後にひときわ大きく吏部尚書が唱え終わると、皇帝は口を開いた。


「首席合格者である蔡 俊熙には、宦官として身分を詐称さしょうし、後宮の綱紀粛正を図るよう、内侍省勤務を命じていた」


 詐称……?

 と皆が口々につぶやく。それはどういう意味なのか、と。

 騒然としていたその場も、皇帝の声で一瞬にして静寂にもどる。


「俊熙は宦官ではない。余の命を受け、皇太后の膝元に忍び込ませていた懐刀ふところがたなである」


 皇帝は俊熙の正面に向き直った。

 誰もがその二人を見ていた。


「宦官としての任を解く。以後、官吏として仕えよ」


 皆がいまや俊熙の一挙手一投足に注目していた。

 俊熙は皇帝を見上げて問うた。


「ですが大家ターチャ、私の答案用紙はあの時、破かれたのではありませんでしたか?」

「たしかに、破いた。だが破り捨てるには惜しかった。だから後で台紙に貼り直しておいたのだ。この手で」


 皇帝と俊熙の間にしばしの沈黙が続いた。その後で、二人は互いに緊張の糸が解けたように小さく笑った。

 俊熙は皇帝の前で、深々と頭を下げた。





 その日、ようやく家に帰れたのは、日付が変わった頃だった。

 寝静まった無音の街中に、邸の門扉を開ける音が響く。

 蝶番が軋む音を聞きながら扉を閉めた瞬間、満足感で胸が熱くなった。

 平雲州目指して邸を出た時は一人だったが、今こうして邸の門をくぐる時、すぐ近くに俊熙がいるのだ。

 家の中に入ると、俊熙は居間で立ち止まり、内部を見渡した。


「しばらく来ない内に、随分変わりましたね。詩月様が掃除をしてくださったのですか?」

「そうよ。綺麗になったでしょう。新築みたいに」

「ありがとうございます」


 そういいながら振り向いた俊熙の微笑がとても綺麗で、それでいて胸が締め付けられるほど懐かしくて愛しい。

 微笑み返すと、どちらからともなく私たちは抱き合った。

 俊熙のぬくもりを感じながら抱きついて目を閉じると、胸が満たされて何も他のことは考えられなくなる。


「やっと、帰って来られました」


 俊熙が絞り出すように呟く。

 それを受けて、私も彼に言う。


「長かった……。この二ヶ月弱が、まるで一年みたいに感じられたくらい」


 離れている間、俊熙は記憶がなかったから、私が恋しくなったりはしなかったのだろう。そう思うと少し悔しい。

 もし、市場で干果物ドライフルーツを買わなければ、見つけられなかったかもしれない。

 俊熙は一層強く腕に力を込めると、言った。


「もう二度と、お一人にさせません」

「俊熙は……、ずっと湖のそばの家にいたのよね?」

「ええ。そうです」

「そこの女の人が、俊熙のことを教えてくれたのよ」

「……彼女たちに、お礼を持っていかなければ」

「そうね。命の恩人だものね」

 

 きっとあの女性は、俊熙に出ていって欲しくなかったのだ。なんとなく私にもわかった。

 ふと思い出したように、俊熙が言った。


「詩月様と交換をした木の腰帯飾りを、川でなくしてしまいました」

「いいのよ。だってその約束はもう、私たちには必要ないもの。これからはずっと一緒にいるでしょう?」

「詩月様が嫌だと仰っても、おります」


 女性が俊熙の木の腰帯飾りを燃やしていたことを思い出したが、敢えて言わなかった。

 ゆっくりと離れると、彼は私を見下ろした。


「お疲れでしょう。今、お茶をお淹れしますね」

「疲れているのは、俊熙でしょう」


 思わず笑ってしまう。


「すぐに朝になっちゃうから、もう休まないと」

「そうですね。荷解きは私が適当にやっておきますので、詩月様はもう二階に上がられて下さい」


 俊熙は和かにそう言って、床に置いた荷物の前に屈む。

 苦笑が止まらない。

 俊熙の横に膝をつく。


「ねぇ、朝には出仕しないといけないのは俊熙でしょう。早いのは私じゃなくて、俊熙なんだから」

「……では荷解きは明日に致しましょう」


 私は声を立てて笑った。


「俊熙、貴方はいつまでそんな話し方を続けるつもりなの? ――私はもう、王女じゃないし貴方は下男じゃないのよ」

「……そうですね。ですが対等な立場になってしまうと、もう貴女に自分が何をしでかすか、分かりませんので」


 大真面目に言われたその台詞に、面食らってしまう。

 恐る恐る、確認してみる。


「た、たとえばどんなことをしでかすの?」

「そうですね。たとえば……詩月様の気がおかしくなってしまうほど、抱き潰してしまうかもしれません」


 私が絶句していると、俊熙はまばゆいほどに美しい笑顔を披露しながら、おやすみなさいと言い残して二階へ上がって行ってしまった。


(なに、今の!? 冗談? それともまさか本気……?)


 熱くなって仕方がない頰を両手で押さえ、立ち尽くしてしまう。


 彼の足音が途絶え、休んだことが分かると、私は居間の椅子の上に腰かけた。

 ぼんやりと呆けたように、邸の中を見渡す。

 ――俊熙が、帰ってきた。

 深く息を吸い、吐き出す。

 邸の中は沈まり返っていた。

 私も骨の髄まで疲れ切っていた。朝から休みなく動き、それこそ殆ど腰を落ち着ける暇もなかった。

 だが今はもうすこし起きていて、彼を探し出すことができた事実を、噛み締めたかった。

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