第45話 湖の村の男②
足が快復すると、
慣れない船にのり、船酔いしつつも漁の網を引き上げ、魚を乗せた引き車を市場まで運ぶ。
世話になっている
少し小銭を貯めると、彼は古びた弓矢を村の市場で買った。
秋華には嫌がられると思ったが、村の裏の雑木林には、小さな獣たちもたくさんいたので、狩りをすれば食費の助けになるはずだからだ。
中古の弓矢は長いこと市場の店先で放置されていたのか、木が乾ききっていた。
矢は上手く飛んでくれず、なかなか獲物を捕まえることができなかった。
だが弓矢を手に入れてから数日後、ついに睿は仕留めるのに成功した。
野うさぎだ。
このまま秋華たちの家に持って帰るわけにはいかない。
一旦市場に持って行くと、毛皮を扱う商人に捌いてもらい、肉だけを引き取る交渉をした。
毛皮をなめす工程など、秋華たちにはする術がないのだから、どうせなら分けたほうが無駄もない。
調理場は
野晒しの地面に煉瓦が組まれた小さな台があり、その前に座って火を起こす。
地べたに座っての野外での料理は、睿には少し難しいように感じられた。
まず、砂埃舞う地面に食材が入った籠を置かなければならない。
材料を切るのも地面の上だ。木のまな板も汚れが染み付いており、敷いても敷かなくても大差ないように思える。
(以前の私は、料理をやらなかったんだろうか? それとも、住宅事情が全然違う所にいたんだろうか……)
あまりのやりにくさに、睿は首をひねる。
油を入れた鍋にうさぎ肉を投入し、炒め始める。
ジュージューと焼ける音と共に、肉の旨そうな香りが広がる。
市場で買った少しの野菜と炒め合わせ、塩で味付けをする。
「睿ったら、そのお肉どうしたの?」
背後で声がすると、秋華が目を丸くして立っていた。
「市場の毛皮屋を少し手伝ったんだよ。そうしたらお礼に肉を少し分けてくれた」
秋華を怒らせまいと、少し事実を曲げて説明をする。
秋華は睿の隣に膝をついた。
「睿、あなた働き過ぎよ」
そう言いながら、鍋の柄を握る睿の左腕にそっと触れる。
睿が菜箸で動かす肉を見つめて、秋華は言う。
「これって何の肉?」
「なんだと思う?」
睿が聞き返すと、秋華はくすりと笑った。
悪戯っぽく輝く睿の瞳と微笑みが、自分に向けられてたまらなく嬉しい。
「食べたら当ててみるわね!」
「秋華が食べたことがあれば、良いけど」
「まあっ、失礼ね!」
秋華は笑いながら両手を睿に回し、横から彼に抱きついた。
既によく火が通ってそうな小さな肉片を菜箸で取ると、睿は秋華に向けた。
「食べてごらん」
秋華は両手を睿から離すと、指先で肉に触れ、火でも触れたように手を引っ込める。
「熱い!」
甘えるような上目遣いで睿を見つめる。
睿が肉の熱をさまそうと息を吹きかけると、その様子を秋華はうっとりと見上げた。
頃合いを見計らい、菜箸の肉に手を伸ばす。
そのまま口に入れると、ゆっくりと咀嚼し味わう。
秋華は意思の強そうな大きな瞳を、くるりと回した。
「
睿は残りの肉を炒めながら、小さく首を左右に振った。
「残念。――うさぎだよ」
「うさぎ? 本当に? でもこの味、蛙にそっくりよ」
「淡白なところが、似ているかもしれないね」
「食感もそっくりよ。うさぎなんて、初めて食べたわ」
ほら言った通りだ、と言いたげに睿が小さく笑って鍋に視線を戻すと、秋華は悔しそうに言った。
「あっ、今私を馬鹿にしたでしょう〜、もう!」
「してないよ。していない」
「絶対、したわ!」
出来上がった料理を皿に分けながら、睿は苦笑する。
「そんなこと言わず、食べて。肉は力がつくから身体に良い」
「馬鹿にされたから、食べないわ」
本気で怒っているわけではない。その証拠に秋華は甘えるような視線を睿に向けている。
「そう拗ねないで」
「……食べて欲しい?」
「世話になっている秋華と親父さんの為に、作ったんだよ」
秋華は火の前に膝をついている睿の太腿の上に、そっと手を載せた。
そうして睿をひたと見つめたまま、囁く。
「おでこにしてくれたら、許してあげてもいいわよ?」
「秋華…」
やや呆れたように溜め息をつきながら、睿は漆黒の双眸を横へと逸らす。
「してくれたら、父さんにも持って行くよ?」
駄々をこねる秋華に、漆黒の瞳が戻される。秋華の意識はその黒曜石のように美しい瞳に、吸い込まれそうになる。
「ねぇ、睿。お願い」
睿は仕方なく唇を寄せ、秋華の額にそっと押しつけた。
その瞬間、秋華は花咲くように微笑み、ぎゅっと睿に抱きついた。
これ以上幸福なことは世の中に存在しない、というような満面の笑みの秋華に抱きつかれた睿は、ぎこちなく微笑んだ。
だがその笑みもすぐに消える。
胸の奥底に、ざらざらとした負の感情が渦巻く。
その正体が分からず、睿は苛立った。
(不思議だ。弓矢を持つと、心が落ち着く)
翌日も漁の手伝いが終わると、
以前の自分は、きっと弓矢を頻繁に使っていたのだ。
この日の睿は何羽かのうさぎを見つけられたのに、捕まえることはできなかった。
「不甲斐ないな……」
思わず己に苦笑した時、ぽつりと頰に雨が降った。
もう帰ろうかと思ったが、時折雨粒が当たる程度の小雨だ。帰路を急ぐほどの雨ではない。まだ弓を試したい。
――いや、本音を言えば、あの家にあまり早く帰りたくなかった。
戻れば必ず秋華が訪ねてくる。
睿がこの湖の村に来て、二ヶ月弱になる。とても親身に看病をしてくれた秋華だったが、ここ数週間ほどの彼女の振る舞いに、睿は少し困惑していた。
最近の秋華は、頻繁に彼の頰や額に唇を押しつけてくるのだ。
彼女には大恩があるが、それでも睿には抵抗があった。
秋華は心配するかもしれないが、もう少しここにいたい。
睿は弓矢を構え、雑木林を進んだ。
雨は止まなかった。
やがて雨足が強くなり、睿の顔にぱたぱたと当たり始める。
頭上に茂る木々の葉が雨に打たれ、楽器のように鳴り始める。
(流石に狩りは諦めるしかないな……)
ようやく小屋に引き返そうと、来た道を戻り始めた睿だったが、雨はまもなく土砂降りに変わった。
近くにあった大きな木の下に、慌てて避難する。
木の下にいれば雨には当たらなかったが、既に服は雨に濡れ、氷のように冷たい。
空を見上げれば雲は分厚く黒く、雨はすぐにはとても止みそうにない。
(ここで動かずにいるのは、かえってまずいな)
睿は思い切って木の下から飛び出し、駆け出した。その時、上空を稲妻が走り、轟音が響きわたる。
睿の身体がびくりと震えた。
滝のような雨に打たれながら、硬直する。
地を揺するような轟音に、聞き覚えがあった。
その瞬間、脳裏をある映像がよぎる。
大きく左に傾き、凄まじい音を立てつつ倒れていく大きな船。
甲板を転げ落ち、川面にゴミのように散らばる男たち。纏う甲冑の重みで、なす術なく次々に水中へと沈んでいく。
睿は目を見開き、木々の間で立ち尽くした。
(これは、なんだ!?)
頭上からは大量の雨が叩きつけ、息を吸おうと開いた彼の口の中に、容赦なく入りこむ。それに咳き込み、もがき、視界に入った自身の手を見て、妙な映像が閃く。
身体が押し潰されそうなほどの勢いで流れる水の中、彼は手を伸ばし、岩にしがみつこうとしたのだ。爪は割れ、あっという間に濁流が彼を押し流し、粗い岸壁が眼前に迫る。
その瞬間、彼は激しい水流の中であるものを探り、手首に通した。
彼女との繋がりを示す木の腰帯飾りだ。
避けようもなく向かってくる岩壁に衝突する瞬間、彼は頭の中で叫んだ。
「詩月様……っ!」
岩壁に叩きつけられ、彼は気を失った。
睿は爪のかけた己の指を見た。
そうして天を仰ぎ、大量の雨粒を全身に受ける。
むせるような水の匂いと冷たさが、次々と彼に記憶として降り注ぐ。
翠華をはためかせ、共に進んだ兵士たち。
後宮の華やかな美女たちが、彼に微笑む。
常にそばにいて、彼の考えを尋ねては穏やかに笑う皇帝。
夜遅くまで起きて勉学に励む彼に、蝋燭と茶を持ってきてくれる叔母の優しさ。
睿は両手を伸ばし、降り注ぐ雨を掴んだ。
身を拘束し、死へと足を引っ張る金銀財宝を纏い、森の中に転がっていた彼女。
泥だらけの顔で虚ろに目を泳がせ、「死にたくない」と呟いた彼女。
その名を口にすると、途方もない愛しさで心の中が満たされる。
「詩月様……」
王宮の中で一番柔らかな光を浴び、箒を片手に彼についてきた小さな王女。
自分は彼女を妻にするために、ここまで走ってきたはずたった。
記憶が洪水のごとく押し寄せると、胸中は彼女への想いで溢れ、苦しさと喜びで満たされる。
彼は土砂降りの中、繰り返し呟いた。
「睿じゃない。私は、蔡 俊熙だ……」
俊熙は力強い足取りで、麓の小屋へと走りだした。
「
小屋に戻るなり、秋華が睿に駆け寄る。
濡れた彼の身体を拭いてやりながら、火をおこした囲炉裏へと導く。
「寒かったでしょう。身体をあたためて」
彼の冷たい手を両手で包んでやると、そっと振り払われる。
訝しげに見上げると、その表情は随分とぎこちないものだった。
これまでの睿は、もっと初々しかった。
なにかが――睿の内面に変化が起きている、と秋華は悟った。
嫌な予感がする。
「秋華……。思い出したんだ」
「睿、」
「私は、睿じゃない。蔡家の者だ」
秋華は無意識のうちに首を小さく左右に振っていた。
「蔡……?」
「そう。私は帝都からこの平雲州の州刺史である、劉
秋華の全身から力が抜け、膝が笑う。
やはりこの男は兵士だったのだ、と秋華は崩れるようにその場に座り込んだ。
俊熙は彼女の前に膝をつき、優しく語りかけた。
「私を助けてくれて、ありがとう。秋華」
「睿…」
「私は、睿としてこの村で生きていくことはできない。待ってくれている人がいるから」
「いや、そんなのいやよ……」
秋華は俊熙に縋り付いた。
彼の濡れた頭に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「だめよ。ここにいて。貴方は私が助けたのよ。ここにいるべきよ!」
「秋華、本当にすまない」
「私を捨てないで」
俊熙はかつて自分が捨てた国のことを思った。
そこに置いていった孤独な王女のことも。
彼女と森で再び出会った時、彼は敢えて王女である詩月に全てを捨てさせた。
指輪の一つや二つくらい、と詩月は後々も不平を漏らした。だが彼はそれを認めなかった。
自分と釣り合う位置まで、卑怯にも詩月を引きずり下ろしたかったのだ。
逃げ道を奪い、自分だけを頼らせるよう仕向けたようなものだ。
自分が詩月王女と釣り合うところに到達出来ないのなら、彼女を落とすしかない。
二人がかつて願った幸せの為には、それしかなかった。
だが改めて思えば、自分はとても汚いことをしたのだと俊熙は痛感した。己を嘲るような苦い笑いが、こみ上げる。
今も、詩月は自分を待っているはずだ。
俊熙はそっと秋華を押しのけた。
「秋華。君の幸せを祈っている。だからどうか、私を捨ててくれ」
るい、るい、と秋華は泣いた。
涙にくれるうち、失くした夫を思い出した。
そうして気がついた。
睿は夫を失った代わりに胸の隙間を埋める欠片などではない、ということに。
睿は秋華の夫ではない。
彼女はいつの間にか、夫の名を連呼していた。
泣きじゃくる彼女に、俊熙は言った。
「秋華、ありがとう」
秋華は顔を上げられなかった。
そのまま俊熙は小屋を出ていくと、隣の家に向かった。秋華の父親に挨拶に行くのだ。
そうして礼を言い、深々と頭を下げると彼は背を向けて村を出ていった。
帝都に帰るために。
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