第28話 愛憎何事ぞ陰晴を別つ

「あおよー……」

「ぁ……はい、おはよう、ございます……」


 朝の6時で新羅邸に戻り、そこから一時間だけ睡眠してなかなかにダルいとは思いつつも起き上がった辰馬。とりあえずトイレにでも、と部屋を出て階下に下りると、いつも通りにてきぱきと働く晦日美咲つごもり・みさきの姿があった。なのでまあ、越をかけるか、と普段通り、声をかけた途端、美咲は面白いほど狼狽えて危うく朝食の大皿をひっくり返しかける。万事において完璧、乳の大きさ以外、一切の死角がない美咲としては考えられないミスだった。


 ……新羅さん……たつま、さま……。


 ぽーっと。辰馬の顔を見る。明らかに赤い。辰馬も魔族血統に特有の赤い瞳でそれを見返し、あー……とようやく思い至る。というかここまで気づかなかったのがアホなのだが、昨夜確かに美咲と事に及んだ。しかも相性なのか美咲の身体なのか、とんでもなく、よかった。


 いかん、思い出すとおれまでおかしくなんな……。


「今日の天気は?」

「あ、はい。昼から雨だそうです。傘のご用意をお忘れなく!」

「お、おう……」


 いきなり天気の話なんか振った辰馬もトンチキなら、やたらかぶせ気味に応じた美咲もやはりおかしい。だいたい新羅邸において朝に天気がどうとか、そんなこと普段言わない。


「も、もうすぐ朝ご飯ができますから、お待ち下さいね、辰馬さま!」

「うん……うん?」


 違和感。たぶん美咲は無意識で間違えたのだが、これまで「新羅さん」と呼んで一線引いていたのを、昨日のことでその壁が取り払われてしまった。しかし美咲が辰馬に恋情を抱いたとして、問題は辰馬は美咲の主君である小日向ゆかの正式な夫である、ということだ。その問題は忠義の少女である美咲にとってあまりにも深く長い、カロンの守る冥府の川、ステュクスの如き大河として横たわる。いみじくもステュクスという言葉が意味するところ、すなわち憎悪と考えると、まさかまずありえないことながら、ゆかに憎まれるかも知れないと考えると美咲の目の前は真っ暗になる。それでも辰馬をあきらめることが、もはや美咲にはできそうもない。


 新羅辰馬という少年は実に天然無双のたらしであり、本人にそのつもりがなくてもごくごくナチュラルに女の子の心を射止める行動を取る……それは神楽坂瑞穗を救いヒノミヤの悪政を打破した英雄性であったり、生後まもなくからずっと雫の母性本能を刺激し続ける弟気質であったり、行き倒れの銭なしプリンセス・エーリカを助けて学食で素うどんを食わせた人を放っておけない性格であったりするが、美咲もやっぱりというかその伝でやられた。とにかく初体験で優しくされただけでめろめろになってしまうほど自分がチョロい女だとは思ってもみなかったが、むしろそのあと、自分に必死になって腰を打ち付けてくる辰馬のひたむきさにこそ惹かれたのかも知れない。なんにせよ、ヒノミヤの完璧怜悧な侍従長は、怜悧なままでいられないのだった。


 なので。


 その朝の食事は辰馬だけ異様なほどの大盛り。辰馬だけ鰆の塩焼きが二尾。味噌汁に入っているなすの大きさも辰馬のだけなにやら大きい。そして器を受け渡すときの美咲の目がもう、どうしようもなくどうしようもない状態を物語っている。ハート目になっているといっても差し支えないレベルであり、瑞穗も雫もエーリカもサティアも文も、「あー…」と納得げに肯き、みのりはわたしには関係ないと無理した感じにそっぽを向き、そしてゆかはいつもなら自分最優先で構ってくれるはずの侍従長で姉的存在・美咲の、いつもと違う雰囲気に「?」と首を傾げた。


「美咲ちゃん、ハマっちゃったか~……」

「わたしにも料理が出来れば、負けないんですが……」

「やめときなさいよ、あんた足もとに落ちてるジュースの王冠、気づけないで踏み抜いちゃうくらいどんくさいんだから」


 エーリカの言葉は瑞穗がどんくさいというよりかその破格すぎる弩乳・121㎝の巨砲ゆえに足下がほぼ見えないということなのだが、まあ実際どんくさい瑞穗に料理させてみたいと思うばかたれはこの屋敷にはいない。一応、全員その程度の思慮はある。


「仲がいいのは結構ですが、あまり一人だけをひいきするのも如何なものかと」


 と、嫌味を言うのは穣。昨日一人だけ……正しくはゆかもだが、そりゃゆかがラブホに同行していたら流石に辰馬が淫行で捕まる……お留守番だった穣は、辰馬への恋情とそれを認めたくない苛立ちの二律背反にりつはいはんで気が荒くなり、目つきが悪くなっている。


 もっとも、哀れなのは文なのかも知れず。昨日美咲と同様の経験をしたにもかかわらず、辰馬が夢中になったのは美咲といつもの3人娘+サティア。文は三大公家の末席を継承することを約束された少女であり、当然のごとくプライドが高く、それゆえにかつては男子排斥を狙い辰馬を潰そうともしたわけだが。今そのプライドがまた違った意味でたたきつぶされて悲嘆に暮れる彼女は少々哀れだった。


「とにかく! 今日も帰ったら特訓ですから。晦日さんといちゃいちゃなんて時間は、ありません!」

「いや、それぁいーけど……なんか言い方が怖いんだけどな……」

「なんですか、わたしかキレてるとでも? キレてないですよ!」

「キレてんじゃん……プロレスラーじゃねぇんだから……」

「だから、キレてません! そもそもなんてわたしか怒る必要があるんですか? 必要ないじゃないですか!?」

「わかったから落ち着いてくれ。ホント対応困る……」

「むうー……」


 穣が押せ押せで辰馬を攻撃し、辰馬はなんとかなだめてすかす。それでもなおなっとくいかない顔の穣だったが、あまりしつこくすると辰馬のことが好きみたいじゃないか、と思い直して素っ気ない態度に(いまさら)戻る。


「んー、今日も新羅家はみんな仲良しだねー♪」

「まあ、ある意味そーなんだけどね……まぁ、そっち方面に聡い辰馬とか気持ち悪いだけだし……」

「辰馬さまは今のままが一番素敵ですよぅ!」


 三人娘はそんなことを言い合いながら、マイペースに授業の準備。とくに雫は体育教諭とは言え教師であるから、荷物が多い。そしてこういうときの荷物持ちに、だいたい辰馬がかり出される。


・・・


「たぁくんさー?」

「ん?」


 体育倉庫というある種蠱惑的な密閉空間で。雫が辰馬に声をかける。


「そんなにハマっちゃうほど、美咲ちゃんよかった?」

「ブフゥ!?」


 思わず噴く。いきなりなにを言うか、と振り向いたが、案外に雫がまじめな顔をしているのでどうにも、二の句がつげなくなる。


「うーん、美咲ちゃんをオススメしたのはまずかったかなぁ~……」

「……なにいってんだばかたれ。おれが本当に好きなのは……」


 ぼそぼそ、ごにょごにょと。ものっすごく小さな声で、いつもの雫の妖精耳でも聞き取れないような小声で、「しず姉たちだよ、そんなん決まってんだろーが」と呟く。あまりに小声だったのでさすがの雫もやはり聞き取れず、「なに? もー一回、もー一回言って!」とねだるが、言えたもんでもない。いろいろ吹っ切って好きなもんは好きと言えるようになったはずの辰馬ながら、どうにも恥ずかしがりの本質は抜けないのだ。


・・・


 四限の授業は退屈だった。魔術概論とか、そもそも辰馬は理論で魔法というものを使ってないというかごく自然に頭の中に神讃が浮かんで神とのバイパスをつなぐことの出来る天才だし、魔王化してしまえば自分が神あるいはそれ以上の存在になるので神讃とかなんとかの技術的技法はそもそも必要なくなる。というわけで、初老の学者先生のお言葉は退屈でしようがない。せめてクズノハだったなら「あれ、ウチの姉貴なんだよなー……」とか思って時間もつぶせるしクズノハのレベルだと辰馬と同等で話が出来るから非常に、退屈しないのだが一般レベルだとホント、泣くほど退屈。


 そうして話を聞かずにぼけーっとしているときに限って、老教師はめざとくこちらを見ていたりする。ある意味鷹の目だ。鷹の目というなら傭兵隊長ジョン・鷹森…洋名はジョン・ホークウッド……の眼光に勝るものはないが、こういう状況でねちっこく辰馬をイジめてくる技量において、蒼月館古参教師たちの手厳しさは凄まじい。まず辰馬が「混ざりもの」というだけで、彼らにとっては非常な憎悪の対象なのである。実のところ「魔王戦役」において魔族から手ひどい暴行陵虐を受けた人間はアカツキにも多く、勇者・新羅狼牙がそのすべてを救えたわけでもないから、辰馬は非常に、魔族代表として憎まれていたりする。


「新羅ぃ、ワシの授業は退屈か?」

「ん……あー……うん、まあ」

「っ!? ではこの設問を解いて貰おうか。空前の天才どの、なら簡単じゃろう?」


 と、黒板をさして見せるのは高等魔術理論。とはいえ、高等だかなんだか知らんが人理魔術のレベルにおける高等。地・水・火・風の四元素、その通常のそれにおける事象の説明に過ぎない。辰馬にとっては簡単すぎてあくびが出るほどの設問だが、ただ天才というのは説明が苦手なところがあり、理解は完璧にできているのだが言葉にするのが難しく「んー……」と唸ってしまう。これに対して老教諭は勝利確信に瞳をギラつかせた。


「まあ、こんな感じで」


 辰馬は口で説明することをやめた。軽く地・水・火・風と、あとやや上位ながら神霊エーテルの精霊を召喚、適当に舞わせ踊らせ遊ばせて、消した後は「こんくらいできれば問題ないと思うんだけど?」と平然、言ってのける。辰馬が盈力持ちで人理魔術が初等魔術のレベルに過ぎないとは言え、あまりに凄絶な実演を見せられて老教諭はアゴが大きく外れるほどに愕然とする。絶対的に違いすぎるレベル差に、教諭の側が泣きそう。


「へへ、クソ教師が、いーザマっスね!」

「いやまぁ、凹ませるつもりもなっかたんだが……まぁ、しゃーないか……」


 本年度もやはり後ろの席にいるシンタが北鼠笑むのを軽く窘めて、そうこうしている間に四限終了。辰馬たちはすぐさま学食に合流する。


 いつもなら辰馬の隣は瑞穗、雫、エーリカが、当然のこととばかりに独占するのだが。今日はちょっと勝手が違う。


 瑞穗を押し退けて……実際押し退けたというか、瑞穗が来る前に辰馬の隣の席に座った、というだけだがそれでも驚くべき事……美咲が座った。そして辰馬にB定エビフライ定食をかいがいしく食べさせる。


「いや、自分で食えるし……」

「そう言わずに。お世話させて下さい、辰馬さま」


 かなり感情に歯止めのきかなくなっている美咲は、これまでの脈のなさは何だったのかと思うほど積極的。そして瑞穗は完璧になんでもこなす侍従長様相手の敗北感にうちひしがれ、そして「辰馬さま」という呼び方が被っていることにも切なく心の中で泣いた。もう一度「ご主人さま」に戻そうかなとか思ってしまう。


 それを見る男子連中がまた、「新羅がまたか……」「晦日さん、おれが目ぇつけてたのに……」「あいつどんだけ女に手ぇ出せば気が済むんだよ」「つーか、姫は! 姫を泣かせやがってよぉ!」「殺すぞ!」と、はっきり聞こえる程度には大きな声で、こちらに分かるようにわざと言い立ててくる。うんざりするが、半分がた事実も含まれるので仕方がない。


 それはまあ、いいとしよう。半ば身から出た錆でもある。

そんなことより。


「楽しそうで、なによりね」

「……姉貴。これ、楽しそうか?」

「ええ。まあ、辰馬が楽しいかどうかはどーでもいいとして。今日、これからクエストでしょ? わたしも行くわ」

「あ゛?」

「人間というものがモンスターや魔族を刈るに際してどうした情動を感じるのか、そこを確かめたいのよ。というわけで、よろしく」


 などと勝手に宣言して、妖狐の魔皇女・クズノハは今日のクエストに同道を決めた。

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