72、走り出す

「お父様!! 何をなさりたいの?!」


その質問には答えず、お父様は部屋の奥に消えた。バタン、と続き部屋の扉が閉まる音がする。

私はポケットの中の守り石をぎゅっと握りしめた。王笏は国王陛下に預けてきたが、これは肌身離さず身に付けていたのだ。

みんなを巻き込まないように。私はお父様を追いかけようとした。しかし。


——ガシッ!


誰かが強い力で私の肩を掴んだ。

振り向くと、ルシーンが今までにない真剣な顔で私を見つめていた。


「クリスティナ様、外へ逃げましょう」

「でもお父様が」

「旦那様のお考えはわかりませんが、火のある部屋にクリスティナ様を行かせるわけには行きません! 何かあったらイリル様に顔向けできませんもの」

「……イリル」


イリルの名前に目が覚めたような気になる。ルシーンは力強く頷く。


「クリスティナ様を無事に避難させないと、イリル様に私が怒られますわ」

「そうね……そうだわ」


ルシーンがほっとしたように表情を和らげる。と、ダニエラ様の叫び声が響いた。


「ドレスに! 火が! 火が!」


先ほどお酒をかけられた部分が燃えていた。いつの間にか引火していたのだろう。


「消します!」


トーマスが駆け寄って、ダニエラ様のドレスの炎を叩く。ところどころ穴が空いたが、ドレスの火はすぐ消えた。ダニエラ様は、いち早く階段を駆け降りていった。

トーマスは私に頭を下げる。


「クリスティナ様、申し訳ございません。旦那様は、最近はワインではなく度数の高い蒸留酒を好んで買い集めていました……まさかこんなことに使うとは。お止めするべきでした」


私は首を振る。


「自分を責めないで、トーマス。まずはみんなを外に誘導しましょう。騎士の方たちは水を汲んで、消火活動をお願いします」

「はい」


気付けば、うっすらと白い煙が天井近くに溜まってきていた。お父様の部屋から漏れてきているのだ。水を持った騎士たちがその部屋に入っていく。これで大丈夫。きっと消し止められるだろう。

私は声を張った。


「火事よ! みんなとにかく逃げて! 煙を吸わないように気をつけて! 押さないで」


あちこちから驚きの声が上がる。


「火事だって?」

「一体どうして」

「逃げろ!」

「口元を押さえるんだ」


だが、騎士たちが消そうとしているはずなのに、焦げ臭い匂いがだんだんと強くなる。


「うわあ!」

「なんだこれ!」


騎士たちの戸惑いの声が聞こえる。


「クリスティナ様、消えません!」

「水をかけたら余計に広がります!」


私は咄嗟に叫ぶ。


「あなたたちも逃げて!」

「しかし、公爵様が」

「きっともうそこにはいないわ。火が消えないなら尚更、あなたたちは安全な場所に」


図書室に『秘密の通路』がある屋敷だ。当主の部屋には当然逃げ道が作られているだろう。私を誘き寄せるのが目的だったのかもしれない。戸惑いながらも騎士たちは動き出した。


「クリスティナ様も!」


カールの言葉に私は頷く。


「今行くわ」


煙を吸わないように体を低くして、私はルシーンとともに玄関に向かった。

あと少し。


「出れたわ…」


屋敷から脱出した私は大きく息を吸った。振り返って屋敷を見る勇気はまだなかった。震える手を押さえて地面を見つめる。


「クリスティナ様、お怪我は?」


ルシーンが心配そうに聞いてくれる。


「大丈夫」


やっと顔を上げて私は答えた。周りでも似たような会話が繰り返される。気持ちを切り替えた私は声を張った。


「点呼を取って! 逃げ遅れた人はいない?」


やがて息を切らせたトーマスが報告する。


「今日、屋敷に来ていた使用人たちは無事に外に出れたそうです」

「よかった……」


焦げ臭さはまだ続く。十分距離を取ってから、火の手を上げる屋敷を正面から見つめた。炎は範囲を広げ、屋根から黒い煙が上がっていた。だけど、人さえ無事なら。


——前回のようなことにはならない。


「クリスティナ様!」


と、マリーが焦った様子で駆けてきた。


「ああ、マリー、あなたも無事だったのね、よかった」

「クリスティナ様! ミュリエル様が! ミュリエル様が」

「ミュリエルがどうしたの?!」

「止めたんですが、どうしても必要なものがあるとお部屋に戻ってしまいました!」

「何してるのよ! ミュリエルは!」


私はもう一度屋敷を見上げた。

炎はさらに面積を増やしていた。


          ‡


逃げろというマリーの手を振り解いてミュリエルが部屋に戻ったのは、ウタツグミを助けるためだった。マリーはきちんと世話をしていてくれた。ミュリエルが宮廷から戻ってきたとき、ウタツグミは可愛らしく鳴いて出迎えてくれた。そんな存在は初めてだった。


——あの子は私が助けなきゃ。


それと、歴史の本と数学の本。ブレスレットも持ち出したい。全部が無理なら、ウタツグミだけでも。


火はまだそこまで燃えていなかった。ミュリエルの部屋は火元からは遠かったのだ。だから大丈夫とミュリエルは、マリーが止めるのも聞かず走って自分の部屋に行った。確かにまだ大丈夫だった。

オーウィンが現れるまでは。


「お父様? どこからここに?」


ミュリエルがウタツグミの籠を持って逃げようとしていたら、いつの間にかオーウィンが部屋にいた。


「ミュリエル、お前はよくやっているよ」

「は?」

「私と行こう」

「どちらへ?」

「どこでもいいだろう、私と行くんだ。さあ」


オーウィンが手を伸ばす。


          ‡


「クリスティナ様! クリスティナ様、お待ちください」

「ルシーンはそこで待ってて!!」


言いながら私はもう走り出していた。

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