59、天鵞絨の小袋
「私の婚約者に何をするつもりですか」
イリルの声は恐ろしいほど冷えきっていた。
「私の娘だ! 離せ!」
「それは手を上げていい理由にはなりません」
「うるさい!」
父はじたばたと暴れていたが、イリルはびくともしなかった。
「はっきり言っておきますが、クリスティナに手を出したら公爵でもただでは置きませんよ」
「私は父親だぞ!」
「私の中では子供に害なす者をそうは呼びません」
ヒートアップする父をどうやって宥めようか私が考えていると、
「何よ、何よ、何よ、お姉様ばっかり!」
突然ミュリエルが叫んだ。
「いつもそう! お姉様ばっかり大事にされてる!」
「何を言ってるの、ミュリエル」
「お姉様なんて大嫌い!」
陛下がついに立ち上がった。
「これでは話にならん。公爵、場を騒がせた責任は追及させてもらう」
父は慌てたように陛下に向き直った。イリルもようやくその手を離す。
「しかし陛下、私は国のために」
その声には純粋な疑問が滲み出ており、父は本当にこれが国のためだと思っているのだと私は感じた。だとしても、なぜ。
どんな崇高な意図があるにせよ、もっと適切なやり方があったはずだ。案の定、会場のざわめきは収まらない。お兄様が苛立ったように眉をひそめているのが見えた。公爵家としてどのように後始末をするか考えているのだろう。肩書きはともかく、私にはお兄様とお父様の立場はすでに逆転しているように思えた。陛下がため息混じりに父に告げる。
「本当に国を思うなら、娘を他国に嫁がせるなど言わないはずでは?」
「あれは例え話ですよ」
「とにかく話は後で聞かせてもらう」
陛下は目で側近たちに合図した。父はすがるように叫ぶ。
「待ってください!」
陛下はそれを無視し、父ではなく卒業生たちに向かって声を張った。
「パーティはここでお開きだが、君たちの将来を」
そこで突然、陛下の顔が苦しそうに歪んだ。
「——ぐっ!」
胸を押さえて前のめりになる。
「あなた?!」
「父上?」
ルイザ様が支えようとしたが間に合わず、陛下はそのままゆっくりと床に倒れていった。
「大変だ!」
「なんてこと!」
「誰か!! 医者を!」
あちこちから叫び声が上がる。レイナン殿下とイリルがすぐさま駆け寄った。
「……イリ……ルラ……」
陛下が何かおっしゃったのをイリルが口元に耳をつけるようにして聞き取っていたのが目に入った。イリルがはっとしたように目を見開く。
「医者を! 医者を早く!」
レイナン殿下の声に、何人かが走って外に出て行った。私もフレイア様の元に寄ろうとしたそのとき。
「ふふふふ……」
耳を疑って振り返った。父が嬉しそうに笑っているのだ。
「お父様?」
この場にそぐわないその表情に、ミュリエルでさえ怯えた様子だった。周りの目を気にもせず、父は本当に嬉しそうに懐に手を入れる。緊張が走ったが、父が取り出したのは何の変哲もない、天鵞絨の小袋だった。
「陛下、そんなときこそこれです! 私は心が広いので出し惜しみしません!」
妙に浮かれた口調の父は、袋の口を逆さにした。ころん、とツヤのある黒い石のようなものが父の手のひらに転がる。
「ほら、役に立つ日が来たぞ。行ってお前の役割を果たしなさい。ミュリエル、早くここに」
父は猫なで声で呼んだが、ミュリエルは動かなかった。するとーー。
「ひっ!」
「あれは?!」
石の方から動き出した。父の手のひらからゆっくりと浮かび上がった黒い石は、弱々しく空中を浮遊し始めた。
「なんだ……あれは?」
ありえないその光景に、その場にいた誰もが何も出来なかった。もちろん私も。しかし信じられないことに、石は急にスピードを上げ一直線に私に向かって飛んできた。
「え?」
驚く私の目の前で石が止まる。あちこちで悲鳴が上がった。石は私を見つめるかのように、目の高さでじっとしていた。
「クリスティナ!!」
傍に来たイリルがその石をぱっと掴んだ。
「何をする?! それはミュリエルのだ!」
父の言葉をイリルは無視した。
「走ろう! 逃げるんだ。多分公爵は正気じゃない」
わけもわからず私は頷き、イリルの手を取った。
「兄上、父上を頼みます!」
イリルは最後にそう叫び、私たちは会場を出た。何が起こっているのかわからないせいか、誰も私たちを止めなかった。
学内に繋がれていた馬にイリルと二人で乗った。馬を走らせながらイリルは言う。
「急いで支度を整えて、ペルラに向かおう」
「ペルラ? 修道院ですか?」
「ああ、さっき父上……陛下が倒れながら私に呟いたんだ。ペルラに行け、と。おそらく、そこなら君を本物だと証明できる」
「本物?」
イリルは頷いた。
‡
「おやおや、大変なことになりましたね」
バルコニー席にこっそり忍び込んでいたドゥリスコル伯爵は、階下の喧騒を眺めてそう呟いた。
「オーウィンの御子息の卒業を祝おうと、こっそり入り込んだのにそれどころではなくなりましたね」
生意気な公爵令嬢をもっと追い詰めたかったが逃げられてしまった。
——わかっていたが、使えない男だ。
「陛下は大丈夫かしら」
ギャラハー伯爵夫人が隣で呟く。ドゥリスコル伯爵は心配そうに頷いた。
「ケイトリン、そうですね、陛下の力にならなくては」
「これからどうなるんでしょう?」
ギャラハー伯爵夫人の細い腕を取ったドゥリスコル伯爵は、赤い目を細めた。
「大丈夫、すべて私に任せてください」
「よかった」
ギャラハー伯爵夫人は安心したように微笑んだ。
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