48、口元だけの笑み

          ‡


「シェイマス坊っちゃん! またいらっしゃったんですか?」


オフラハーティ家の領地のひとつ、マートル地方に、今日もシェイマスは足を運んでいた。管理人のトマシュが呆れたような、いたわるような声を出す。シェイマスは、目の前の養殖池を覗き込んだ。


「トマシュ、どうだい、鯉は元気を取り戻したか?」


帽子を取りながら近づいたトマシュは、うなだれる。


「水温は言うことないはずなんですが、餌を食べません。このまま弱っちまうんじゃないかと気が気でないです」


トマシュの心配はもっともだった。

夏に向かうこの時期に大きく育てなければ、真冬の生誕祭に間に合わないのだ。


「旦那様はなんとおっしゃってますか」


探るような視線を向けるトマシュに、シェイマスはわざと明るく答えた。


「まだ時間はあるから様子を見ようって」

「そうですか」


トマシュはほっとしたように帽子をかぶり直した。シェイマスが安心させるように付け足す。


「やっぱり水質だと思うんだ。一見綺麗な水だけど、魚にとっては住み心地が悪いんだよ。そこさえなんとかすれば間に合うはずだ」


トマシュは黙って眉を下げている。シェイマスは根気よく続ける。


「病気ならもっとたくさん死んでいる。水を汚さずに魚に栄養を与えればいいんだ」


トマシュは乾いた笑いを漏らした。


「それが出来たら苦労しませんよ」

「そう言うなって」


シェイマスは養殖池を見回して言った。


「以前の挑戦で、藻を減らしても効果なかったことはわかったんだ。しばらく藻を増やして、さらに餌の甲殻類も増やす。トマシュ、馬車に積んである餌を下ろしてくれないか」

「……へい」


疑心暗鬼な様子のトマシュだったが、指示には素直に従った。トマシュが馬車に走るのを見届けたシェイマスは、広々とした養殖池をあらためて眺める。

美しい、と思う。

だがそれも、領民があってこそだ。

シェイマスはついこの間のオーウィンの言葉を思い出す。

シェイマスが必死になって対策を講じているのを聞いたオーウィンは、面白くなさそうにこう言ったのだ。


ーー出荷量が見込めないようなら、領民からの税収を上げればいいじゃないか。


シェイマスは自分の耳を疑った。


ーー不漁なのに払えるわけないでしょう?


しかし、オーウィンは軽く言い放った。


ーー知るもんか。


ーー領民が苦しみます。


ーーそれがどうした?


話にならない、とシェイマスは唇を噛んだ。


ーーいいか、小賢しい真似をしているようだが、領主は俺なんだ。お前は今はただの代理だ。覚えておけ。


その通りだった。確かに領主はオーウィンだ。

だから、今しかない。オーウィンが謹慎している今なら、シェイマスは領民のために動ける。


シェイマスは目の前に広がる、大きな水面を見渡した。アルバニーナは、ここの自然が大好きで、シェイマスとクリスティナを連れてときどき静養に来ていた。都会の喧騒が好きなオーウィンはそれすら馬鹿にしていた。


物静かで落ち着きを好むアルバニーナを、派手で刺激を好むオーウィンはいつもつまらない女だと言っていた。

しかしアルバニーナは動じなかった。そうですか、と一言呟くだけだ。


母は父を憎んでいただろう、とシェイマスは思う。

自分も、もちろん父が嫌いだ。

立場の弱い領民をひたすら怒鳴りつけたり、気分で指示を変えたりするオーウィンが、シェイマスは子供の頃から吐き気がするほど嫌いだった。


だけど、父を嫌えば嫌うほど、シェイマスの絶望は深まった。

アルバニーナはオーウィンとは他人だが、シェイマスにとってオーウィンは肉親だ。どこに影響が出るかわからない。オーウィンを嫌えば嫌うほどシェイマスの恐怖は増した。

そこから逃れるためにひたすら勉強し、ひたすら本を読んだ。そうすればとりあえず、それ以上不毛な考えに浸ることは止められたからだ。


だけどアカデミーに進学し、イリルたちと出会ったことで、シェイマスの意識は大きく変わった。王族という立場は、自分以上に血と向き合うものだ。なのに彼らは逃げない。

シェイマスはそこでやっと、逃げようとすればするほど、父に囚われることに気付いた。


「だから」


シェイマスはもう一度目の前の風景を眺めて呟いた。


「この場所は僕が絶対に守る……やってみせる」


そう呟くシェイマスの左手首には、クリスティナから贈られた淡い紫のブレスレットが通されていた。ブレスレットは、励ますように小さく揺れた。


          ‡


「お母様? 私の」


新しくミュリエルの侍女になったブリギッタは、ミュリエルの金髪を櫛で整えながら頷いた。


「ええ。こんなに可愛いミュリエル様ですもの。お母様もさぞかしお美しかったのでしょう?」

「そうね……」


ミュリエルはにっこりと鏡越しに微笑んだ。思い出の中のエヴァはいつも顔がないのだが、もちろんそんなことを言うつもりない。


「当たり前じゃない! とっても優しくてとっても綺麗な人だったわ。私と同じ金色の髪をしていたの」

「そうですか」


ブリギッタは優しく微笑む。

エヴァが生きていればもしかしてブリギッタくらいの年齢だっただろうか、とミュリエルは思う。

ブリギッタは手を止めずに続ける。


「お母様と同じ金髪ということは、ミュリエル様のお祖母様も金髪だったのですか」

「知らないわ」


ミュリエルはあっさり答える。


「お母様がまだ小さい頃、流行り病でおじいちゃんもおばあちゃんも死んじゃったんだって」

「まあ、失礼しました」

「いいのよ」

「それではどこで奥様は公爵様と出会ったのでしょう?」

「奥様?」

「ええ。ミュリエル様のお母様なら奥様でしょう」


エヴァを奥様と呼ばれることが嬉しくて、ミュリエルはつい饒舌になった。


「お母様は、アルバニーナ様のご実家に奉公に行ってたの。それでこっちに着いてきたのよ」

「もともと顔見知りだったんですね」

「そうよ」


髪はとっくに整えられているのに、ブリギッタは話をやめなかった。


「ではシェイマス様やクリスティナ様のお小さい頃を、奥様はご存知だったのでしょうか? 例えば生まれるときにそばにいたとか」

「さあ。生まれる前のことなんて知らないわ」


ミュリエルは小さな欠伸をひとつした。もう夜も遅い。


「そうですか。残念です」


ミュリエルはブリギッタがなぜそんなことを聞くのか、なにが残念なのかは疑問に思わず、


「髪はもういいでしょう。寝るわ」


と、立ち上がった。


「また、聞かせてください」


そう言ったブリギッタは、口元だけで笑みを作った。


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