41、とっておきのワイン

その夜、ローレンツ様はグレーテ様に謝ったそうだ。

今までわがままを言って困らせてすまない、と。


翌朝、二人で正門に向かっているとき、グレーテ様がこっそり教えてくれた。


「よかったですね」


そう言うと、グレーテ様は特に心を動かされた様子もなく答えた。


「どんな心境の変化があったのかわかりませんけど、幼馴染としてこれからも応援する気持ちに変わりはないと伝えました。今も昔も私ができることはそれだけです」


あっさりとした喋り方は、本当にローレンツ様のことが眼中にないことを感じさせた。同情するが、こればかりは仕方ない。


「グレーテ様の応援、きっとローレンツ様の励みになりますよ」


グレーテ様は苦笑する。


「どうでしょうか。そのうちたくさんの女の人と浮名を流して私のことなど忘れる気がします。今でもちらほら聞きますし」


私は曖昧に微笑んで何も答えなかった。

アカデミーに朝早く戻ったお兄様とグレーテ様が昨夜どのような話をしたのかも気になったのだが、さすがに下世話な気がして聞き出すことはしなかった。


——いい話ならいずれ耳に入るでしょうしね。


「あ、今のはローレンツには内緒にしていてくださいね」


正門でローレンツ様の姿を見て、グレーテ様は囁いた。もちろん、と私は頷く。女同士の会話は内緒話が原則だ。特に私のような立場では。


「お気を付けて」

「またぜひ」


いろんな方がローレンツ様との別れを惜しんでいた。お忙しいローレンツ様は、もうこの国を発つのだ。


フレイア様やレイナン殿下と挨拶を交わしていたローレンツ様だが、最後にわざわざ私とグレーテ様のところに来てくださった。


「帝国に来ることがあれば、またピアノを聞かせてやるよ」


てっきりグレーテ様におっしゃっているのかと思えば、


「おい、聞いているのか」


私に念を押したので慌てて答えた。


「光栄です。ぜひ」


ローレンツ様はつまらなさそうに言った。


「社交辞令だなあ」

「とんでもないことですわ。ねえ、グレーテ様」


グレーテ様は何も言わずに曖昧に微笑んでいた。なんとなく気まずい気がして、慌てて無難な話題を探す。


「そういえば帝都には、大きな劇場が出来たんですよね。皇帝陛下はそこでオペラを楽しんでいらっしゃるとか」


ドゥリスコル伯爵が言っていたことの完全な真似だが、ひねる間がなかったのだ。許してほしい。


——帝都に大きな劇場が出来たんですよ。そこに音楽家や声楽家を呼んで、皇帝は毎日オペラ三昧です。


確かにそんなふうに言っていた。

けれど、ローレンツ様は考え込むように眉を寄せた。


「新しい劇場? ここ百年ほどはできていないけどな。第一、今の皇帝はオペラは好まないぞ」

「え?」


ドゥリスコル伯爵の妖艶な赤い瞳が頭をよぎる。しかし、そこに御者が来た。


「ローレンツ様、支度が出来ました」


私とグレーテ様は口々にお別れを告げた。


「お元気で、ローレンツ様」

「ローレンツ、元気でね」

「ああ。グレーテ、お袋さんによろしく」

「伝えておくわ」


歩き出したローレンツ様は、片手を高々と掲げて私に言った。


「これ、大事にするよ!」


ブレスレットは遠目からでもキラキラと光り、今日の空と同じように青く輝いた。


「まあ、あれは何かしら」


その場にいたご婦人たちの何人かが目敏く見つけて囁いた。


          ‡


王都が演奏会で盛り上がっていた同じ夜。


「やあやあ、ようこそ、いらっしゃいました」


オーウィンは公爵邸に客人を迎えてご機嫌だった。


「急な訪問をお許しくださりありがとうございます」

「いえいえ、ギャラハー伯爵夫人ならいつでも歓迎ですよ」


社交界の華であるギャラハー伯爵夫人が、演奏会ではなく自分のところを訪れたのだ。オーウィンの自尊心はくすぐられた。


「こちらへ」


突然の来客にも対応できるだけの準備は常にしている。

応接間に案内したオーウィンは、トーマスにいいワインを持ってくるように指示を出した。

頷いたトーマスを見送ってから、軽やかに喋り続ける。


「しかし、ギャラハー伯爵夫人は演奏会に行かれると思ってましたよ」


柔らかなソファに腰掛けたギャラハー伯爵夫人は、オーウィンが満足する答えを差し出した。


「あんなの子供騙しですわ。私は大人の会話を楽しむ方が好みですの」

「やはり、夫人は物をわかっている」

「ありがとうございます。あと、少しでも早く公爵様にご紹介したかったのもありますわ。早く喜んでいただきたくて」

「それではそちらが」


オーウィンはギャラハー伯爵夫人と一緒に今夜公爵邸を訪れた、二人の女性に視線を移した。

二人とも微笑みを浮かべて、ギャラハー伯爵夫人の隣の席に座っている。ギャラハー伯爵夫人はあらためて紹介した。


「ええ。こちらサーシャ・マクゴナー子爵令嬢と、ブリギッタ・ドムス子爵夫人ですわ。どちらの方も公爵家の役に立つならと喜んできてくださいましたの」

「これはこれは、ありがたいことです」

「サーシャ様はとても優秀でして、ミュリエル様の家庭教師ガヴァネスにぴったりだと思いますわ。ドムス子爵夫人は礼儀作法など、生活全般の面倒を見てくださるそうです」


オーウィンは部屋で待っているミュリエルを思い浮かべて頷いた。


「それは素晴らしい……なんとお礼を言っていいのか」


ギャラハー伯爵夫人は優雅な仕草で首を振った。


「いいえ。私たち、公爵様のお役に立てれば十分ですの。お二人ともミュリエル様の味方になってくださること間違いありませんわ」


それは頼もしい、とオーウィンはしみじみと自分の運の良さを噛み締めた。

やはり俺だ。困っていれば誰かがこうして助けてくれる。

何も心配しなくていい。

タイミングよく、トーマスがグラスとワインを運んできた。


「それでは乾杯といきましょうか」


それぞれのグラスに、とっておきのワインが注がれる。ギャラハー伯爵夫人が微笑みを深めた。


「素敵な出会いと、公爵家の未来に」


皆、一斉にワインを掲げた。

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