26、ミュリエルの家庭教師

          ‡


「お嬢様、落ち着いてください」


メイドに呼ばれて慌てて部屋に飛び込んだトーマスは、通算何千回目になるかわからない言葉をミュリエルに投げかけた。目の前には、ずぶ濡れの家庭教師ガヴァネス、リーバン・シアー嬢と、顔を赤くして怒っているミュリエルが勉強机を挟んで立っている。

床には粉々に割れたティカップが散らばっていた。


「落ち着いているわよ! 放っといて!」


収まる様子のないミュリエルをひとまず放置し、トーマスはリーバンに声をかけた。


「リーバン様、大変失礼しました。お怪我はありませんか」


状況から見て、激昂したミュリエルがお茶の入ったカップを投げつけたのだろう。子爵令嬢であるリーバンは呆然としている。そんなことされたのはきっと初めてなのだ。

しかし、トーマスたちは悲しいことに、こういう状況に慣れてしまっている。あらかじめ、ミュリエルの勉強の時間に出すお茶はぬるめを心がけるくらいに。だから、火傷までには至っていないはずだった。なんの救いにもならないが。


「怪我は……ありませんが、もうここに来るのは今日で終わりにさせていただきます」


何とか冷静を保つ口調でそう言ったリーバンに、トーマスは頭を下げる。


「はい。大変申し訳ありません。謝罪は改めましてまた主人から……まずはお着替えを、ノラ!」

「は、はい! こちらへ!」


ノラに案内されたリーバンは呆れたように首を振って、別室に移動した。


「ミュリエルお嬢様」

「知らない!」


トーマスが何か言う前に、ミュリエルはぷいっと膨れて、自分の部屋に戻った。

後片付けを別のメイドに命じたトーマスは、新しい家庭教師の手配をしなくてはならないと段取りを考える。だが、まともな貴族からはもう来てもらえないだろうと内心諦めていた。

今回のリーバンもかなり頼み込んで来てもらったのだ。なのに、一週間もしない間にこれだ。

何が気に入らないのか、ミュリエルはすぐに癇癪を起こして、家庭教師をどんどん辞めさせていった。

ミュリエルが辞めさせなければ、向こうから辞めたいと言い出す始末だ。

公爵家で破格の給金と待遇でも、そろそろ限界だった。


——クリスティナ様がいる頃はまだ、クリスティナ様への対抗心がいい方向に出て、ミュリエル様も勉強に励まれたものだが。


ため息をついたトーマスはすぐに、いや、そうではないな、と思い直す。


——今までは、クリスティナ様が上手にミュリエル様を誘導していたのだ。


……まあ、ミュリエル、すごいじゃない。私がミュリエルくらいの年齢だと、そこまで覚えられなかったわ。


……だからお姉様はダメなのよ。


周りから聞いていたら冷や汗をかくような会話だったが、クリスティナは苦笑しながらミュリエルをその気にさせていた。

家庭教師たちも、困ったときはクリスティナに口添えを頼み、結果、何とかミュリエルは大人しく授業を聞いていた。


——ご自分の王子妃教育もお忙しかっただろうに。


クリスティナがいなくなってから、オフラハーティ家の空気が変わったとトーマスは思う。

クリスティナがさりげなく気遣っていたことで、屋敷が潤滑に回っていたのだと今更ながら思い知らされる。

最近は控え目な性質も変化して来て、未来の女主人らしい風格が出始めていた。


——クリスティナ様は大丈夫だろう、どこでも本領を発揮していらっしゃるに違いない。


現状なんとかしなくてはいけないのは、こちらの方だ。

クリスティナがいなくなって以来、オーウィンはさらに気分屋に、ミュリエルはもっとわがままになってしまった。

どれほどトーマスが懸念を訴えても、所詮は仕える身。うるさいと一蹴されて終わるだけだった。


ただ、ミュリエルも癇癪さえ起こさなければ、呑み込み自体悪いわけではなかった。


……ここぞというときには、こちらがハッとするような集中力を発揮します。


そう言って辞めていったのは、何人目の家庭教師だったか。

すべて優秀な成績で学んでいったクリスティナとは違って、興味のあることには熱意を発揮するようだった。


だがミュリエルは、そこを伸ばそうとしてくれる家庭教師でもすぐに辞めさせてしまう。

父であるオーウィンも、それを何とも思っていない様子だったのが、トーマスの最近の懸念事項だった。

やはりこのままではいけない。


——何とかもう一度、旦那様とお話しなくては。


うるさい、と怒鳴られるのを覚悟して。

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