舟は流れて
トウイチはその日を柄になく楽しみにしていたが、朝の目覚めはひどくだるいものだった。どんな夢を見たのかはおぼろげだったが、後味のわるい内容だったのはわかる。
すっきりしない気分のまま日中はネットサーフィンをしたりしてすごし、舟祭りが行われる夕方には家を出た。今日は自転車ではなく地下鉄を使う。ウイルスの影響を恐れて客は少なくなると思っているが、万が一駐輪所が満車になっている事態も考慮しないといけない。
大社最寄りの駅から地上に出てみれば体感温度が上がるのがわかった。五月なのに今日は暑い。トウイチは薄着をして来て正解だったと溜息をついた。
大社前の商店街はいつもより少し人通りが多かった。祭のまえにアーケードの下で涼みたいというのが多くの人に共通した希望らしい。同じ理由で、クスノキやカシの茂りが覆っている大社周りの歩道にも人が多い。
「祭りなのに、辛気臭いかおしてるなよ」
商店街を散策しているときに会ったのはサクマだった。なんでも商店街組合の手伝いらしい。見た目は明らかな不良なのに、こういう人の好さは各方面へ向いているらしい。
「いつか、ここでライブやりたいんだ」
そう言うサクマはこの暑さの中、組合の赤い法被の下にいつものスカジャンを着ていて、マスクは紅白柄の派手な物をしている。
「罰当たりにならないのか、それ?」
トウイチは苦笑するが、サクマはいたって真面目な表情だ。心なしか瞳の輝きがいつも以上のような気がする。
「カミサマだってファンにしてやる。世の中、したいことしたもんが勝ちだ」
「……それは自由だけど、やりすぎには注意しろよ」
手伝いに戻って行くサクマの背に、トウイチは静かに言葉をかけた。世の中、純粋な希望に代価を払わなければならない人も存在するのだからと。
サクマと会ったあと大社で参拝して来ようかと思ったが、鳥居の前には正装したひとびとが集まっていた。社殿で神事がはじまるのか、もしくは最中なのだろう。
出鼻をくじかれた感じとなり、なんとなしに鳥居横の駐輪場で涼むことにした。低い石垣に寄りかかって空を仰げば、クスノキの茂りがまえと同じように傘になっている。
清涼な空気を楽しんでいると、鳥居前の人だかりの中からトウイチに向かって歩いて来る人影を見つけた。なにか怒られたりするのではと身構えたが、その人影はシズヤだとわかった。
シズヤは紺の道衣と黒の袴を着て、手には袋に入れた刀らしき物を持っている。武道教室の師範が演武を奉納するため、それに同行しているのだそうだ。
「まさか朝早くから参拝することになるとは思わんかったよ。袴で自転車漕ぐの大変だったしな」
「にしてはめっちゃ楽しんでません?」
「青春の取り戻し中なんだよ」
シズヤは苦笑いするものの、まったく苦とは思っていないような雰囲気だった。まえに仕事の話をしておたときとは別人のようだ。どうやら舟に載せるべきものは決まったらしい。
大社周りを散歩して適当に時間を潰したあと、トウイチは大社近くの河川に向かった。橋の上に立ってみれば、対岸の船着場に折り紙の大きな舟を持ったひとびとが集まってとても賑やかになっているのが見えた。
ひとびとは間隔の広い列を作り、ゆっくりと先頭を入れ替えながら舟を河川へ流していく。折り紙の舟団はやがて渡船場跡の前を通り、海へ流れていくのだそうだ。
舟が流れる河川は、沈もうとしている陽で橙色に優しく輝いている。トウイチは色とりどりの舟団が輝きの中を流れていく光景は美しかった。あらゆる人の願いを舟に載せて異界への道筋をたどる様は、なによりも素朴で神聖なものに見えた。
河川の流れに乗って行く舟団をただ眺めていると、時間の流れもゆっくりになっていくような気がした。橋の上にはそれなりに人が集まり、目の前の光景を見て語り合ったり写真を撮ったりしている。
トウイチはなにをするでもなく、ここ一か月で体験したことを思い返していた。舟に積載量があるように、誰もがなにがしかの制限を受けている。それでもときには流れに任せて、ときには自分でオールを漕いで前へ進んで行く。『君は舟なり―——』という中国の格言があるが、『人は舟なり』とも言っていいのかもしれない。
自分も将来なにか大切なものを載せて、そしてなにかを降ろさないといけないのかもしれない。けれどいまは、自分自身が持っているものを素直に受け入れていいのかもしれない。そうしていれば、たとえ履歴書だって軽やかな気持ちで書けるだろう。
トウイチはそんなことを考えながら、ズボンの前ポケットからスマホを取り出した。東雲色の空、橙色の川面、色とりどりの舟団。トウイチはいま感じた思いのまま、その光景をスマホで撮った。
舟は流れて 紀乃 @19110
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