第33話 当直コール 南綾乃


今日の当直は落ち着かない。

担当患者の状態が不安定でICUに張り付いている。

患者の状態に応じて看護師に指示を伝えていく。

絵理子はオペがのびていてまだ患者を病棟に戻せないと聞いた。

そんな時に救急外来から以前手術で入院していた患者が来ていると連絡がきた。

ICUの患者は少し安定してきたので後輩の医師に任せ、私は研修医をつれ救急外来へ向かった。

後輩の医師は当直ではない。

早く返してあげたい。

診察と一通りの検査をオーダーし、研修医に血液培養をとらせる。

術部の感染が疑われた。

血液培養はなかなか上手くいかず少し苛つく。

しかしこういった技術は場数を踏んでこそだと自分の気を鎮めようとする。

永遠にとれる気がしないので代わりに血液培養を採取する。

少しコツは必要だが一回の穿刺で採取できた。

別々の血管でもう二セット採取する。

その後はCTへ患者を送り込み、操作室から ICUを任せている医師に状況確認の電話を入れる。

比較的落ち着いていて安堵する。

CTの結果を確認し、状況が思ったより軽くとどまっていてさらに安堵する。

抗生剤で叩くことができるか。

しかし油断ならない。

創の開放と洗浄が必要になるか。

リオペ(再手術)も視野に入れる。

それにしても、最近、気が短くなっている。

三月までは落ち着いていた。

でもここ最近苛々する。

理由は分かっている。

こういう時こそ、彼女の顔が見たい。

その前に声だけでも聞きたい。

患者に緊急入院の必要性を説明し了承を得た。

診察室から一度退室してもらい病棟へ電話をかける。

あの声で私は落ち着くことができる。

数回のコールの後に聞こえてきたのは目当ての人の声ではなかった。

ベッドは確保できるが病棟に上げるのを待って欲しいと言う。

「リーダー誰なの」

「青木さんです」

「青木さんに代わって」

「はい」

隣では先ほど血液培養を取れなかったためか研修医が縮こまっている。

しばらくすると保留のメロディが途切れる。

「お待たせしました青木です」

その声に胸の奥がつかまれる。

けれど、自分の気持ちとは全く逆の言葉が出てくる。

「三〇分以上待たせるってどういうことか説明してくれない?」

電話の相手は臆することなく穏やかな口調で状況を説明する。

愛おしさがつのる。

気にかかっていた絵理子の進捗にも安堵する。

オペ戻りの患者はしばらく十五分おきに状態観察をしなければないのは分かっている。

そんななか、こんな時間に緊急入院をを受けるのは病棟ナースにとって大きなストレスとなることも分かっている。

電話越しの彼女に譲歩案を伝えた。

彼女は了承し、電話が切られた。

救急外来のナースに輸液ポンプを病棟に貸し出しするように無理な要求をした。

案の定少し嫌な顔をされた。

それでも圧で押し通した。

最低だなと思った。

研修医を ICUにヘルプで向かわせ、救急外来のナースと共にストレッチャーに乗せた患者を病棟へ連れて行く。

病棟の自動扉が開くとすぐに白衣姿の彼女が駆け寄る。

大袈裟ではなく天使に見える。

彼女が私と当直が重なる時だけ夜勤で白衣を着ているのは知っている。

私のために白衣を着ている。

彼女は一度もそのことを口にしない。

そこがたまらない。

だからこそ、あの時白衣を着ていなかった彼女を見て焦った。

その日のために色々と段取りを組んでいたがもう時間はないと相当焦って心の中が乱れた。

そして今、あの時とは違った心の不安定さを感じている私は、どうにかして彼女に触れたかった。

指示入力や書類の記載などを終えてナースステーションを見回すと彼女の姿が見えなかった。

そばにいたナースに声をかける。

「青木さんは?」

「オペ患の巡視です。何かありますか?」

「オペ患の様子聞こうと思って」

私が確認しなくても、もう少ししたら絵理子がオペ患の様子をみに来るのは分かっている。

呼んできますとステーションを飛び出して行こうとするナースを自分で探すと言って制した。

薄暗い静かな病棟の廊下を歩く。

病棟の奥の角を曲がると彼女がいた。

ここはナースステーションから死角だ。

無言で近づき思わず強く抱きしめる。

美穂、愛してる。

心の中でそう言った。

「ちょっと! 何するの?!」

「だって、美穂ちゃんどっか行っちゃうんだもん」

美穂の匂いがする。

首筋に顔を寄せもっと美穂の匂いを感じたかったがを引き剥がされた。

「私、さっきオムツ交換とかしたから!」

「私だってさっき血培とったし」

怒った顔が可愛らしい。

「美穂ちゃんと会えると思って急患はやく病棟に上げたかったのに、美穂ちゃんちょっと待ってっていうしさ。ちょっとへこんだ」

「業務に私情を挟まないで」

本当はもっと彼女に対する愛の言葉をこの場で伝えたい。

でも思い止まる。

それはきっと彼女に重くのしかかってしまうから。

だから代わりにふざけて軽く伝える。

「それにさ。病棟来てみたら、いつもスクラブなのに白衣着てるじゃん。美穂ちゃんの白衣姿超かわいいからすっごいテンション上がったのにすぐどっか行っちゃうしさ」

「患者さんの巡視の時間だから。仕事だから 」

やはり、彼女は私のために白衣を選んでいることを言わない。

それがいじらしく愛おしさはさらに増す。

「もう一回ぎゅーってしたい」

もっと抱きしめさせて。

「いいよ。少しだけだよ」

彼女も抱きしめられたい想いがにじみ出ている。

たまらず抱きしめる。

美穂と付き合って二年ちょっと。

どうしようもなく幸せで楽しくて、でも彼女を思い切り苦しめることをして。

それでも二人で乗り越えてきた。

今、私に降りかかってきたこの難題をどうやって乗り越えていけばいいのか。

美穂にどうやって伝えればいいのか。

全然思い浮かばない。

愛おしさと不安で思わず彼女の額にキスをする。

「汗かいたから汚いよ!」

怒っているけど顔が真っ赤だ。

本当に可愛いくて仕方ない。

「汚いなんて思ったことない。ありがとう。元気出た。お互い頑張ろ」

名残惜しくて仕方ないが気持ちを切り替えるために無理矢理背を向けて元来た廊下を歩く。

白衣姿の彼女を脳裏に焼き付ける。

肩の少し下まである綺麗な黒髪を後ろで綺麗にまとめていて清潔感がある。

ぱっちりとして少したれた目元が柔らかい印象を与える。

低めの声で、話し方は穏やか。

芯はしっかりしていて、冷静で真面目。

仕事は速くて抜かりない。

私の前でだけ強気な態度。

けれど、私を包み込む包容力は何よりも安心させられる。

彼女にだけは抱かれたいと思わせられる。

こんなことは初めてだ。

どれをとっても青木美穂という存在は私の中で何よりも大切で大好きで愛おしくて仕方ない。

外勤の後、自分の部屋で早く彼女をちゃんと強く抱きしめたい。

おかしくなりそうなほどに愛おしさと切なさが心の中を占拠している。


落ち着かなかった当直を乗り越え、外勤先へ向かう。

何時間起きているのだろう。

体力の問題は体が四十八時間サイクルに知らないうちに順応したことでなんとかなっている気がする。

今夜は美穂が家で待っている。

だから乗り越えられる。

外勤の後病院にもどり、気になっていた患者の様子を見に行く。

絵理子が完璧に管理していてくれた。

仕事面では絵理子の存在に助かっている。

仕事面以外では迷惑かけっぱなしだ。

「もどってこなくてもいいのに」

絵理子に言われた。

「当直の時不安定だったから気になったのよ」

「こんな時間だし、家帰ればいいじゃない。当直明けの外勤で明日もあるんだから。相変わらず綾は何でも一人で背負う」

絵理子は六月末で名古屋にもどる。

本当はこのまま残ってほしい。

「美穂ちゃん。待たせてるんでしょ?」

「絵理子こそ、弥生ちゃん待たせてるわよね?」

絵理子と二人の時はお互いの彼女を名前で呼ぶ。

「弥生、今日夜勤なの。私達は一緒に住んでるからいいけど、あなた達は会える日少ないんでしょ? ここは大丈夫だし、私もそろそろ帰るわよ。当直に引き継いだし」

「それなら家まで送る」

「ありがとう。頼むわ」

絵理子を車で送ってから自宅にもどる。

玄関の扉を開け、美穂の姿を見ると途端に力が抜ける。

美穂に抱きつき、甘える。

「ねー、美穂ちゃん。開業しちゃう? そうすればずーっと一緒にいられるじゃん?」

伝える言葉にさりげなく本心を含ませる。

時間が許すかぎり美穂と一緒に本当は過ごしたい。

今はそうやって相手が気づかないように、冗談で聞かせるようにしか本心を伝えられない。

けれど、私の希望が叶うことはこれからあるのだろうか。

敢えて話すことを避けてきた様々な問題を、美穂はどう考えているのだろうか。

そういった問題に折り合いをつけて、数年後もその先も、美穂は私を愛し続けてくれているだろうか。

信じていないわけではない。

美穂が私を愛してくれているのは伝わる。

でも、いまだに怖くて確かめられない。

そういったことを悟られないように、幻滅されないように、美穂の前では大人でいたり、馬鹿なふりをしたりする。

なるべく美穂を私のことで縛らないようにしてきた。

会う日も敢えて多くしなかった。

でも、とうとうネックレスをプレゼントしてしまった。

いつも身につけてほしいと言った。

直前まで渡すか悩んだ。

でも、それくらいは許してほしい。


ベッドの上で愛し合った後、いつものように美穂を抱きしめ背中を撫でる。

美穂の身体の柔らかい感触が心地よい。

「美穂ちゃんごめんね」

「え? 何が」

「昨日、緊急入院の電話、キツくて」

「ああ、近くに他の先生いたんでしょ?」

あの時研修医がそばにいた。

「うん」

「分かってるから大丈夫だよ」

美穂は私を見上げて可愛い笑顔を見せる。

そして唇を重ねてきた。

胸が締め付けられる。

多分、情けない顔をしている。

「先生、安心してゆっくり休んで。疲れてるでしょ?」

美穂は何度も唇を重ねてきた。

私の不安を感じ取っているかのように。

少しだけ微笑むと、やっと笑ったと美穂が嬉しそうにした。

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