第32話 ダイヤとチョコレート
先生が帰国した翌日は日勤リーダーだった。
朝のカンファレンスの後、ナースステーションの隅にある柱の影の席で処方箋確認や指示確認などパソコンを使う業務に取り掛かる。
そして時々鳴るリーダーPHSの対応をする。
ここの席は大体いつもリーダーが使う。
ナースコールの干渉はあまり受けないものの、心電図モニターからは割と近く、モニターのアラームに対応しやすいからだ。
病棟が落ち着いている時に出来る限り片付けてしまおうと業務に集中している時だった。
「隣、使わせて」
隣の椅子に大きな袋を持った南先生が座る。
何も話さず電子カルテにログインし業務をし始めた。
他にも空いているパソコンはたくさんあるのに、わざわざこんな隅に来て。
でも、ちょっと嬉しかったりもする。
しばらく、無言でそれぞれの業務に取り掛かる。
「青木さん」
いきなり声をかけられる。
「はい」
南先生の方へ顔を向ける。
南先生はパソコンの画面を見ながら口を開く。
「処方切れる人今教えてくれる? 午後オペだから今出す」
いつもの病棟での素っ気ない態度。
「分かりました」
あらかじめ朝リストアップしておいた患者と処方内容を、別の紙に書き写して南先生に渡した。
「先生、お願いします」
何も言わず、私の顔も見ずにメモ用紙を受け取ろうとする。
顔ぐらい見てよ。
と少し呆れたら、メモ用紙と一緒に私の指を掴んだ。
えっ! ちょっと。何?!
南先生は少し小さい声で言う。
「昔の。私もやってみた」
そしてパソコンから少しだけ顔をこちらに向けて目を細める。
「昨日さ、昔のこと思い出しながらしたの楽しかったよね」
その表情、本当に仕事中やめてほしい。
私も小さい声で返す。
「ちょっと、こんな所で。心臓に悪い」
「心臓に何かあったらすぐ診られるよ」
「その前に心負荷かけないでください。きっと検査結果に出ない症状ですよ」
「でも、私なら診断つけられるね」
「何て診断つけるんですか?」
「予測はつくけど、ちゃんと診察してからじゃないと確定診断できないよ。今夜も会える?」
不意打ちで、しかもさらりと聞いてくる。
「会いたいです」
思わず素直に答えてしまう。
そしていまだに顔が熱くなる。
やっぱりかっこいい南先生が一番好きかもしれない。
他の看護師が近づいてきた。
「あ、そうだ。私、学会にいってたんだけど。これ、ナースのみんなで食べてくれる?」
先生はあえて声を大きめにして言った。
「ありがとうございます」
看護師が離れていったことを確認し、小さい声で伝える。
「なんで増田にわたさないの?!」
「だってここでずっと待ってるのに増田さん全然通らないんだもん」
「あっちの方で待った方がナースたくさん通るよ?! どうせ私の隣に座りたかっただけでしょ?」
「バレた?」
また看護師が近く。
「休憩室に持っていきます。ありがとうございます」
チョコレートの箱がたくさん入った免税店の袋を受け取ろうとした時、今度は思い切り南先生の手を上から握った。
「こんなにたくさん。いいんですか?」
あえてにっこり微笑む。
「いつもお世話になってるから。たくさん食べて」
南先生も同じように微笑む。
他のスタッフにもそういう笑顔で対応したらいいのにと思った。
でも、そうなるときっと嫉妬してしまう。
なんだか悔しい。
南先生を握る手に力を込めた。
「美穂ちゃん大胆」
「人のこと言えないでしょ」
そう言って南先生から手を離し、袋を持ち替えて休憩室へ向かった。
仕事中、南先生の指に二回も触れた。
触れた右手を胸の上で握りしめる。
毎日触れ合えたらどんなにいいだろう。
会える時間が限られているこの状況から、一歩前進したい。
学会が終わったから切り出したい。
私から言っていいものなのだろうか。
こういうことって、仕事が忙しい南先生から言われるのを待つ方がいい気もする。
南先生は増田と棚橋先生が半同棲していることを知っているはずだ。
それなのに、一緒に住むことに関して一度も話題に出たことはない。
南先生にとって今の距離感が一番しっくりくるのかもしれない。
だとしたら私の希望は重く感じてしまうだろうか。
そう思われるのは嫌だ。
でも、そういえば。
そのまま胸元のネックレスに触る。
南先生が昨日、お土産というかプレゼントと言ってくれたものだ。
「お土産にしては重くなるけど、今まで何もプレゼントしたことなかったから、今までの分」
と言っていた。
渡された水色の包装は、その色だけでどこのブランドか分かった。
今までそんなブランド物を身につけたことがなかった。
仕事でもつけられるようにシンプルな物を選んだと言う。
でもそれが人気のあるデザインということはこういう物に疎い私でも知っていた。
ローズゴールドのチェーンにローズゴールドに縁取られたダイヤが一つついている。
今日、このネックレスを身につけて仕事に来るのが恥ずかしかった。
でも、ネックレスをつけた私を見た南先生の表情は今思い出しても私の顔を緩ませるほどだった。
南先生は私にこんなネックレスをくれた。
いつも身につけてほしいと言ってきた。
そういうことを言ってくるくらいだったら、切り出しても大丈夫な気もする。
途中で処置カートを押している増田を見かけた。
「増田、何してたの?」
「下肢処置だよ。15号の。なんで?」
「全然ステーション戻ってこなかったなって思って」
「一回戻ったよ。でも、美穂と南先生いちゃついてたから遠慮して近づかなかった」
「え、ええ?! ぜんっぜんいちゃついてないし!」
「私からするといちゃついて見えるんだよなあ」
増田はにやける。
これ以上は否定できなかった。
確かに仕事中なのに仲良くしすぎたかもしれない。
南先生からのお土産の袋を見せながら話す。
「あ、これ、南先生から学会のお土産。看護師のみんなにだって」
「へぇ、めずらしいね。美穂の入れ知恵?」
「そうそう」
「昼休憩の時いただくよ。ありがとう」
私は休憩室、増田はナースステーションへ向かう。
「あ、そうだ!」
増田の声が後ろから私に飛んでくる。
「どうしたの?」
振り返ると増田は笑顔で続ける。
「ネックレス似合ってるよ。良かったね!」
増田は人をよく見ている。
「ありがとう」
少し照れくさくてはにかんで答えた。
看護師は大概、人の小さな変化によく気づく。
だからきっと他の看護師も私の変化に気付いているはずだ。
数人から何か言われるに違いない。
言われた時の言い訳を考える。
でも今回は「恋人からもらった」と、平然と言ってみようか。
その後に続く質問にはどうやってはぐらかそうか。
そんなことを考えながら誰もいない休憩室の扉を開けた。
テーブルにチョコレートの入った袋を置く。
南先生の名誉のために「南先生から学会のお土産です」と付箋に書いて袋に貼る。
再びネックレスのダイヤに手を触れる。
何かきっかけがあったら一緒に住むことを切り出してみたい。
チョコレートを眺めながら思った。
南先生のチョコレートは看護師達に好評で、あんなにたくさんあったのに、あっという間になくなってしまった。
「いろんなナースからお土産のお礼で声かけられた。」
普段、仕事以外のことで話しかけられない南先生は嬉しそうだった。
こうして三月が過ぎていき、私は六年目となった。
今年、二十八歳になる。
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