第34話 同じ気持ちなのに

平日の日勤帯、午前十時半を過ぎた頃。

患者のケアや入退院の対応があり、一日の中で最も慌ただしい時間帯。

そんな時、突然ナースステーションに怒号が響き渡った。

「何で今すぐできないの?! 私昨日からこの時間に胸腔穿刺するって言ってたわよね? エコーはいいとしても、なにも準備できてないってどういうこと?!」

怒号の主は南先生だった。

久しぶりに聞いた。

いや、怒号までは初めてだ。

慌ただしかったナースステーションは一瞬で静まり返る。

心電図モニターのアラーム音だけが聞こえる。

ナースステーションにいるのナースや医師、コメディカルのスタッフ達全員の動きが止まる。

南先生の前で看護師の鈴木さんが今にも泣きそうに怯えている。

「すみません」

「私じゃなくてさ、患者に迷惑かけてるんだけど」

「すみません」

南先生の様子が明らかにおかしい。

いつもは不機嫌に叱るだけで、こんなに大きな声で怒鳴るなんてことしない。

どうしたんだろう。

南先生の怒号はさらに続く。

「自分のせいで時間変更するって患者に言って。準備できたら電話して。私、午後は手術だからあと三十分以内でなんとかして」

あんな風に看護師の失敗に追い討ちをかけるような仕打ちをするなんておかしい。

自分が悪くなくても患者には自分で説明しに行く。

いくらガミガミ言われても他の医師より信頼してしまうのはそういう所だ。

私の今日の役割はフリー。

患者は受け持たず、ケアや処置、検査出棟などその時の病棟の状況に応じて臨機応変に対応していく役割だ。

鈴木さんの受け持ち患者に胸腔穿刺の予定があるのは知っていた。

準備ができているか事前に声をかけた。

介助にあまりついたことがないから自分で準備すると言っていた。

時間がとれなかったら手伝うと伝えた。

鈴木さんの受け持ちに退院する患者がいたからその対応で抜けてしまったのかもしれない。

鈴木さんのスケジュール管理がうまくいってなかった。

鈴木さんのミス。

でも、それにしても、いつもの南先生らしくない。

「いい加減にしてよ」

南先生は周りに聞こえるようなため息をつき、ナースステーションを出て行った。

南先生が出て行くと同時にナースステーションはざわつき始める。

鈴木さんに駆け寄る。

「鈴木さん。胸腔穿刺は私がつくから。準備とか全部私がやる。だから鈴木さんはそれ以外で今やること、優先順位立て直してそれに集中して。大丈夫だから」

そう伝え、私は南先生を追いかけた。

南先生はいつもよりも大股で、白衣の裾をひるがえしながら病棟の奥の階段へ向かって早歩きで進んでいく。

小走りで追いかける。

「南先生!」

階段の扉の前で南先生に追いつき腕を掴む。

「先生、大丈夫? なんか、疲れてる? どうしたの? らしくない」

周りに人はいない。

いつもの口調で話しかける。

南先生は私の顔を見ずに平坦な口調で返す。

「大丈夫。いつもと変わらないから」

「大丈夫じゃないよ。おかしいよ」

やはり南先生は私を見ない。

「見てらんないよ今の先生。言ってよ。聞くから。私にしかできないでしょ?」

「ごめん。ひどいね。さっきの私」

ゆっくり私の方へ顔を向ける。

南先生の目は潤んでいた。

いったいどうしたの?

何があったの?

南先生は今、何に苦しんでるの?

「先生、看護師の目って誤魔化せないんだよ。看護師甘く見ないで。あ、あと、胸腔穿刺、十五分でなんとかする。介助は私がつくから。今日、私、フリー業務なの。鈴木さんのためにはならないけど、先生のためになるから私がつく。だから、青木コール待ってて」

ナーステーションから人が出てきたのが見えたので私は南先生から離れた。

南先生はそのまま階段へ消えていった。

南先生が苦しんでる理由は分からない。

思い返してみても見当たらない。

本当はその場で南先生を抱きしめたかった。


宣言よりもはやく、一〇分で胸腔穿刺物品を揃えた。

患者にも時間変更を説明し、うまく調整した。

南先生に青木コールをする。

「はい、南です」

「3A病棟、看護師青木です」

「美穂ちゃん。さっきごめん」

いつもの声だった。

少し落ち着いたのだろうか。

「胸腔穿刺の準備できてます。いつでもできます」

「ありがとう。今行く」

「病室で私が待ってますから」

南先生に念を押した。

胸腔穿刺は滞りなく終わった。

南先生の技術は医局一だと思う。

昔は南先生の介助につくと緊張で手が震えた。

でも、今介助をすると、南先生は落ち着いているし、一つ一つの手技を看護師に伝えながら確実に行なっている。

本当は鈴木さんにつかせてあげたかった。

もちろん私が隣でフォローする形で。

介助に入ってこんなに勉強になる医師はいないと思う。

でも今は棚橋先生がいるか。

「青木さん。針のチェック一緒にお願い」

「はい」

病室のカーテンの外に出て、処置カートの前に南先生と並ぶ。

南先生が針類を一つ一つ針捨てボックスに入れていく。

「確認しました。大丈夫です」

「青木さん。ありがとう。助かった」

滅菌手袋を外しながら南先生が言う。

今日、一緒にいてあげたい。

今日だけじゃなくていつも、これからもずっと一緒にいてあげたい。

それだけじゃない、私が南先生と一緒にいたい。

カーテンを隔てた病室の外。

処置カートの片付けをしながら声をかけた。

「先生、相談があるのでいい時連絡ください。手術終わった後でいいです。急ぎではないんですけど、今日中に伝えたいので」

カーテン越しとはいえ、患者の耳に届く範。遠回しに伝える。

南先生なら分かるはず。

「遅くならないと思うけど、手術終わったら連絡します。部屋で待ってて下さい」

「分かりました」

周りに誰もいないのを確認し、南先生の手をぎゅっと握った。

そして少し背伸びをし、南先生の肩に反対の手をかけ、耳元でささやいた。

「私がいるから。先生、大丈夫だよ」

そう伝えた後、処置カートを押しながら病室を出てナースステーションに向かった。

南先生、本当に大丈夫だろうか。

南先生のことが心配だった。



二十二時過ぎに先生はやっと帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり。お風呂沸かしてあるよ。入っちゃいなよ」

先生の顔はやはり冴えない。

「ありがとう。入ってくるね」

「私、もう入っちゃったから一緒に入れなくてごめんね」

先生の好きそうな冗談を言ってみる。

「それは残念」

少し目を細めて笑いかけてきた。

いつもの先生ならもっとデレついて残念そうにするはずなのに。

大人しすぎる。

浴室から出てきた先生に食事をすすめると、いつもありがとうと言って食べてくれた。

先生の向かいに座る。

「先生、大丈夫? どうしたの?」

「ごめん。ちょっと仕事うまく行ってなくて」

「あんな先生見るのはじめてだから心配だよ」

「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫。頭冷やしたから」

やっぱりいつもの元気がない。

私に話したくないこともそれはあるだろうけど。

このまま一人にさせたくない。

私がいることで元気が出るとも思わないけれど、少しは安心してもらえる。

今ならそう思える。

「あのさ、先生。先生さえ良ければなんだけど。私、ここに一緒にいてもいい?」

「え?」

先生の箸が止まる。

「あの、一緒に住めたらいいなって思って。先生が一人の時間欲しい人なら全然いいの。なんか、今日の先生見てたら、一緒にいてあげたいって思ったから。嫌ならいいから」

「嫌じゃないよ。本当にいいの?」

「うん。こういう時、そばにいたいし、私も先生ともっと一緒の時間過ごしたい」

先生は何も言わない。

「ダメかな?」

先生の顔を見ると今にも泣きそうな顔をしている。

「え?! ちょっと。どうしたの?!」

「すごく、嬉しくて。なんか。どうしよう。ありがとう。一緒に住んでもらえるなんて」

「先生はそういうこと考えてたの?」

「考えないわけないじゃない。ずっと考えてたよ」

「なんだ。もっとはやく言えばよかった。っていうか、先生こそ言ってよ」

「ごめん。そういうこと言うと重いかなって心配で。美穂ちゃんありがとう。元気出た。荷物運ぶの車出すから」

「明日、お願いしていい?」

「もちろん」

大好きな先生の笑顔。

細めた目から涙がこぼれた。

「でさ、先生。今日、癒してあげようと思うんだけど、どっちがいい?」

「どういうこと?」

「私に癒されるか、私で癒されるか」

先生の頬が少し赤くなる。

やっぱり先生は私の前だとかわいい。

そして恥ずかしそうに口を開いた。

「どっちも」

「欲張り」

笑顔で先生に返した。

この日から私と先生の半同棲生活が始まった。

5月中旬のことだった。

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