第5話偽りのヴィクターホリデイ

「G……」

かろうじて声を絞り出したショーンに、

「大丈夫か」

と、そういってGは手を差し伸べた。

ショーンは、その言葉がよく聞き取れず、聞き返すこともできないまま、目の前に突き出された、幅広い手の平を掴み返した。

「ショーン、済まなかった。もっと誠実に事情を説明するへきだった。ここまで酷く、君の記憶が改竄されているとは思わなかったんだ」

申し訳なさそうにいうと、ショーンを助け起こした。

「記憶の改竄?」

「そうだ、多分モルグの警察署の連中が、奴の差し金でやらかしたんだ」

と顎をヴィクターの方にしゃくって見せた。

「おいおい、色男」

ヴィクターは両手を広げ、

「つまらない濡れ衣は困るなあ。そもそもお前は一体何者なんだ?せっかくのお楽しみを邪魔するなんて、無粋もいいとこじゃないか」

ヘラヘラと薄笑いを口元に貼り付けたまま、

「ランドルフ、情けないなあ、お前も。なんだそのざまは。ほら、首をちゃんと直せよ。レディの前だぞ」

窘められ、ランドルフはよろよろと立ち上がると、不自然に折れ曲がった首を両手で抱え、

ゴキキッ

と音を立てて垂直に戻した。

「さあ、もう少しショーンと遊んでやれ。お前を深淵に叩き落した女を」

おぞましい光景に、ショーンは目を瞬いた。

「一体、どうなってるの?彼は、どうしてあんな風に……」

言いかけて、思わずえづいた。

一体どれだけの時間、胃が空っぽのままなのだろう。

苦い液体が食道を逆流してきた。

「ショーン、辛いだろうが、ここを突破する。ついてきてくれ」

「ここは、わたしの家なのよ」

泣きそうな声のショーンに、返したGの言葉は、

「ここは君の家じゃない。もう気づいてるはずだ、ショーン。あの女性も、君の母親じゃない」

Gの表情は悲痛に歪んでいた。

好きでこんなことをいってるんじゃないんだ、と。

「そして、ランドルフはもう人間じゃなくなった。彼を助けることは、もう無理だ」

その言葉が終わるか終わらないか、

「ぎぃーーーーーー」

奇声を発し、ランドルフが襲い掛かってきた。

Gに突き飛ばされてしな垂れていた内臓は、再び勢力を盛り返していた。

びゅるるるるるる

異臭を放ちながら、ショーンの胴を狙って放たれた。

意表を突かれたGは舌打ちし、ショーンを庇おうと彼女の前に立ち塞がった。

と、その巨躯の背中と肩をジャンプ台にし、

「ひゅっっ!」

しなやかに跳躍し、化鳥のように宙を舞ったショーンは、触手の上を飛び超えランドルフの頭を踏み台にし、見事に再び跳ねた。

直角に真横に飛んだかと思うと、その爪先の向こうに、

ガッ!

と凄まじい勢いで蹴りを叩き込んだ。

ヴィクターの顔面だ。

「うおう、やるねえ」

思わずGが吐息をついたほどだ。

ふわりと着地したショーンは、一瞬の間すらもおかず、低い位置からヴィクターの腹部を狙い、右前蹴り、左回し蹴り、そして右後ろ回し蹴りから膝への飛び蹴りと連続技を放った。

蹲ったヴィクターの顔面の鼻先に、思い切り爪先で蹴りこむと、鼻血が飛び散った。

ランドルフを床に叩きつけながら、その様子を見守っていたGは、

「ショーン!そいつから離れろ!」

と叫びながら、どこに隠し持っていたのか大振りの、光を反射しない真っ黒のナイフで、ランドルフの蠢く内腑を切り払った。

ヴィクターは、一切避けず、ショーンの攻撃を全て受けている。

「どうして?今しかこいつにとどめを刺すチャンスはないのよ」

尚も攻撃を続けようとするショーンと睨み合うヴィクターは、今や鮮血に染まった顔面だが、頬には薄笑いが浮かんだままだ。

間合いを測って飛びし去ったショーンは、距離を置いてヴィクターの双眸を睨み据えた。

はっ

と目を見張った。

最初に蹴りを入れた顔の皮膚に、頬骨の辺りに裂け目ができている。

だが、出血は見られず、細い隙間から、黒く、光沢のある何かが見えていた。

(あれは?何??)

と気が奪われた瞬間、

ぎゅん!

ヴィクターが肉薄していた。

「優しくしてりゃいい気になりやがって、小娘があっ!」

ばきぃぃっ!

予期せぬ角度から、庇った腕越しに胸に拳が飛んできて、

「ぐっ!」

ショーンは背後に叩きつけられた。その背をGが護った。

「ふたりともさあ随分、はあはあ、舐めた真似してくれるじゃないかあ。俺の大事なオモチャまでもぶっ壊しやがってさあ」

ランドルフのことを言っているのだった。

「おい、色男。その女を置いてさっさと失せろ。そしたら命だけは助けてやる。おとなしくエスカレーターの前でミルクを売ってりゃいいんだよ、デカブツ。心配するな、ショーンにはやってもらうことが山とあるからな。殺しはしないさ。その華奢なクセに大きなオッパイの可愛いねえちゃんは、俺が全力を挙げてかわいがって、俺のためのテロリストに仕立て上げてやるからよお」

その表情から、薄っぺらな笑みが消えうせ、憎々しげに歪んだ口元から、どす黒い液体が流れ出て、それを紫色の舌が舐め取った。

「それにしてもよお、まさか、小娘ごときに一撃を食らうとはなあ。いい蹴りだったぜえ。ぞくぞくするねえ、ショーン、お前のそのバネは。しかも跳ねっかえりときている。お前をセックスで苛めたら、どんないい声をこの俺に聞かせてくれるんだい?」

くっくっくっくっくっ

と笑うが、目は笑っていない。

と、

「ふん!」

勢いをつけ、Gはショーンの体躯を抱え、

ぶうん!

と放り投げた。

人を遥かに凌駕するパワーだ。

ショーンのしなやかな四肢が宙を舞い、ヴィクターの頭上を超えた。

「待ちやがれえええ!」

と追おうとするヴィクターの背後に迫ったGは、その背中に、

「食らえ!ポンコツチンピラ!」

渾身の力を込め、黒いボウイナイフを

グザリィィィッ!!

と突き立てた。

「があああっ!」

と喚いたヴィクターは、天を仰ぎ、その口から、どす黒い体液を噴水のように吹き上げた。

その細いがしなやかな体躯を床に思い切り蹴って突き転がしたGは、着地したショーンの腰の辺りにタックルを仕掛けるように担ぎ上げると、

「頭を抱えろ!」

と、命じ、そのまま玄関に体当たりして外に飛び出した。

ショーンは夢中で両手で顔と頭を護った。

瞬間!

ぱーーっ!

閃光が背後から襲ってきた。

ナイフの柄に仕込んだ小型ナパームが発火したのだ。

背後から遅い来る衝撃波を引き離し、Gは白い回廊を駆け抜けた。

ショーンを肩にがっしりと担いだまま。


轟音は一瞬のことで、たちまち室内は煤煙で埋め尽くされた。

その中から、

「おいおい、おいおい、げぼげげぼ、おえええ、げほげほ、おええ、げほげほ、やり過ぎだろうが、くそやろう」

全身に、ズタボロになった布切れを纏いつかせた人影が、激しく咳き込みながらも、飄々と歩み出てきた。

「口ん中がくせえ、げぼげぼ、嗚呼、灰くせえ。肺の奥まで消し炭くせえ。しかもスーツが一着、完全に消滅しちまったぜえ、ショーン。このヴィクター様に、ストリーキングさせるとは、まったく大した女だねえ、君も。もうこの世界には、テーラーが無くなって何百年経っているのか、知らないのか、小娘。もうあの上等なスーツは二度と作れないんだぜえ!」

裂けた顔面から覗いていた、黒い光沢のあるものは急速に復旧したピンク色の皮膚に覆われ、何事もなかったかのように、いや、若返ったかのような初々しい肌に戻り、血色のよい顔に戻っていった。

いつの間にか口元にも、例の薄笑いが戻っている。

人を蔑むことを日常にしている人間が、最も得意とする笑みだ。

「それにしても奴ら、どうしてこうも急に、慌しく俺に向かって来たんだ?まだちょっとした悪戯を仕掛け始めたばかりだろうに」

怪訝な表情で、半裸のまま立ち尽くしたヴィクターは、手をこまねいて二人が立ち去った回廊を見つめた。

立ち込めていた爆炎と黒灰色の煙が落ち着き、ヴィクターの背後から、人影がずるずると這い出してきた。

「ヴィクタああああああ」

いや、それは既に人としての原型を留めていない。

「お前ぇぇぇぇぇぇぇぇ、まさかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

それは体の中心がなくなって、バラバラに裂かれた姿で、ヨタヨタと煙の中から現れた。

「騙したのかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

粉砕された姿でもなお、死ぬことができず、正気に戻りかけたランドルフだ。

顔の半分以上と腹の辺りが吹っ飛んでいる。

Gの使った小型ナパームは、ヴィクターには大した衝撃を与えなかったようだが、元々人間だったランドルフの体躯には、思った以上の破壊を齎していた。

残った顔の半分、横から見ると、油まみれの脳漿が部分的に残っているのが不気味だ。

ひとつだけ残った目から、愧悔(ざんかい)の黒い涙を流し、

「ヴィクタあああああー、お前はあ、どこから来たんだあ!まさか、まさか、黒き深淵の、奴らの……」

と言いかけた瞬間。

ひゅるり

と振り向いたヴィクターは、

「お疲れさん、そしておやすみ、ランドルフ」

と呟いた。

瞬間。

ランドルフの肉体が

ぼふっ!

と音を立て、粉々に四散した。

たった今まで生体、人間だったはずの彼は、乾いた灰色の粉末と成り果て、一陣の風に吹き飛ばされて消え去った。

「もう少し使えると思ったのに。全く、人間という生物はすべからく役立たずだ。勿論、ランドルフという個体に何の期待も寄せてはいなかったけどねえ」

ふふふん

と笑って、

「だからこそ、滅亡させても毛ほどの痛みも感じない。俺もそうだが、上はもっとそう思ってるんだろうな」

突然、真顔になった。

「やれやれだ。まさかレジスタンスの連中、俺たちの正体に気づいたってこと、ないよな」

遠くから、サイレンの音が近づいてきた。

ハイプの警察隊が、爆音を感知したのだ。

「おお、賑やかな連中が集まってきたようだね。さっさと退散するか」

全裸に襤褸を纏わせた姿で、ヴィクターは、スラリとした長身をばねの様に撓わせ飛び跳ねると、いずこかへと姿を消した。

それを物陰に隠れ、遠目に観察していた者がいる。

「あれ、空間に裂け目を作らなかった。ということは、まだこの空間で何かやるつもりなのかな」

怪訝な表情で小首を傾げたのは、まだ十代前半のいたいけな少女だ。

彼女は黴と垢に塗れたボロ布を纏い、ハイプの片隅、排泄空間の方に逃げていった。

そこは彼女にとって、安全地帯なのだ。

何しろ、

『穢れ』

をハイプから排除するための空間で、それがどこに繋がっているのか、誰も知らないし、危険だから近づかないよう、厳重に上から指示されているのだから。

少女はハイプの人々が怯えるその空間の狭間に潜み、息を凝らした。

たった今、目の前で見た爆発と粉砕された人、そして素晴らしい速度で逃げ出した男女のことを思った。

遠くでサイレンが鳴り響き、少女は更に間隙の奥へと体を潜り込ませた。

「監視してきた甲斐があったっていうものね、やっぱり、思っていたとおりだったわ」

少女は、にっこりと笑った。

身なりは汚いが、天使を凌駕する美しい微笑み。

静かになったら、

「住処に戻らなきゃ」

と、少女は考えている。

少女の住処は、ハイプにはない。

冒険しに来ていただけだ。

彼女は、モルグの娘だった。

少女は無線機で、

「ヴィクターは、次元転移しなかったよ」

と何者かに伝えた。


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