第3話 幻影の家族

「この間はどうも。ショーン・ウエスギ」

相も変わらず、薄くニヤけた唇に、細い垂れ目。

いつの時代にか、こんな風貌の男が、

「甘い二枚目」

と呼ばれたことがあるのだが、ショーンは知らない。

「答えて。なんであんたがここにいるのよ」

底知れぬ怒りに、ショーンの目の周りが、青黒く染まる。

「なんで勝手にあたしの家に入り込むんだ、この野郎!」

無意識のうちに、ヒップホルスターを指が探っていた。

が、

(ない、銃がない!)

モルグの警察署に、拳銃を置いてきたか?

ハイプでは、銃の携帯は禁止されているが、今回彼女はそのルールを破って持ってきたはずだし、ミッドタウンで銃を抜き、Gに銃口を向けたはずだ。

「君の家かね、ショーン。本当にここは、君の家か?」

ミドルボイスだ。

テナーでもバスでもない。

恐らく、女性の耳に最も心地よい、ハイバリトンの抑え目な声。

それだけでも、ヴィクターが人を、取り分け女を虜にする要素となり得ている。

が、その音域の声が、今日だけはショーンの神経には不快感を齎した。

どんなに素敵な声も顔も匂いも景色も雰囲気も、何らかの原因で一度嫌いになると、二度と愛せなくなることもある。

「わたしの家じゃなかったら、誰の家だというのよ!」

激しい剣幕でまくし立てるショーンの目が充血している。

(ここは誰の家?)

心の中で、ショーンの中で、もうひとりショーンが、疑問の声を投げかけた。

すると、

(わたしに家はないわ)

と応える自分がいる。

と、また違うショーンが、

「わたしは、お友達と一緒に暮らしてた」

「兄弟、仲間が沢山いたわ」

「パパが死んで、わたしは、パパのお友達に……」

「鼻の大きなお祖母さま……」

ぐひぃ!

溺れかけて水面に上がったような息を吐いて、ショーンは両手で自分の喉を掴み締めた。

(今、心臓が止まりそうだった)

「ここは、わたしの家じゃない……」

自らに言い聞かせるように、そう呟いたショーンの双眸から、大粒の涙が零れ落ちた。

(じゃあ、ここはどこなのよ)

膝が崩れ落ち、蹲りかけて、

「ちっくしょう……」

とショーンは顔を上げた。

薄笑いを浮かべたヴィクターが、見下ろしている。

「かわいいねえ、オータムボーイの娘。ちなみのお前の銃は、弾丸エレベーターの中でこっそり私が盗んで捨てておいた」

その唇の歪みは、侮蔑の笑み。

「ヴィクター!わたしに何をした!いったい、今までなにをしてきた!」

怒りが、込み上げてきていた。

どう説明していいのか分からない、

『怒り』

は、何かを操作されたことに気がつきかけたことで、生まれた感情のような気がした。

(わたしは心を操作されているらしい。いつ?誰に?)

「ショーン、君は孤児だった。誰も頼ることができず、野垂れ死に寸前だったのだよ。そんな君に手を差し伸べたのは、誰あろう、この私だ」

(嘘だ!パパもママもいた!)

「ふざけたこと抜かしてんじゃないわよ!パパを殺したあんたが、あたしを助けるわけがない!」

ヴィクターはポカンと口を空け、ついで、

「ぎゃっはっはっはっはっ!」

耳障りな哄笑を響かせた。

「パパだけじゃないぞ、ショーン」

唇を戦慄かせながら、バカ笑いするヴィクターを、ショーンは睨み据えた。

「お前を産んだばかりで、体力を消耗し疲れ果てていた、お前の母親。抵抗する体力も残っていなかったが、なんということでしょう。新生児のお前を絞め殺そうとした私に食ってかかってきたのだよ」

フンと鼻を鳴らし、

「マナミ・ウエスギは、ああ、本当に美しい女だったが、残念ながら、私の敵であるオータムボーイの妻だった。彼女は私を憎んでいた。あんなに美しくて愛らしかったのに、私には、あの、素晴らしい微笑みを、一度も向けてくれなかったよ。しかもだ。将来必ず私と敵対する真珠のような女の赤子をねえ」

瞬きもせず、ショーンを睨み据え、唇の両端をきゅううっと吊り上げて、ニマアっと笑った。

「仕方ないだろう、ショーン?彼女の邪魔が入ったお陰で、君は助かった。つまりそれは、私が彼女を殺すのに手間を割いたお陰で、君は生きながらえ、成人することができたのだ。突き詰めれば、私が君の命の恩人だということになる。そうだろう?」

きぃひひひひひひ

すりガラスを引っ掻くような耳障りな笑い声は、ショーンの心に爪を立てているかのようだ。

「それがどれだけ私を侮辱する行為だったか!バカなショーンにでもわかるだろうううう!!」

ヴィクターホリディは、ぜいぜいと息を荒げた。

「お前の母親を殺すのは、とても楽しかった。やはり美しく気高く、心の清く強い、だが弱く脆い者を嬲り殺すのが、この世で最も楽しいのだよ。しかも、片思いの女をこの手の中で、そのあまりにも純粋な命の灯火が……」

ふっ……

ヴィクターは唇をすぼめ、空中に風を吹き起こした。

そこに、蝋燭の灯火があって、あっさりと吹き消すかのように。

「微かな煙と香りを残して消える、憐れにも小さな炎。その瞬間、命は消え、肉体は単なる物質に落ちぶれ、火葬場で原子に戻り、いずれ遠い未来、ディラックの海に還元されるのだ。その瞬間を与える時の胸の高鳴りは、これはねえ、ショーン。何モノにも替え難い快楽、快感なのだよ!股間の忌まわしい蛇がギンギンに勃起するほどにねえ!」

ショーンの唇が青褪め、わなわなと震えた。

「私も考え直したのだよ、あの時にね」

ヴィクターの目が、瞳孔が、まるで爬虫類のそれのように、縦長に細くなっている。

「この素晴らしい悲劇を演じた女の娘、しばらく生かしておきたいとね。成長し、何もかも理解できるようになって、全てを報せてから」

ききききききききき

ヴィクターは笑った。

今度は蝙蝠よりも甲高く耳障りに。

「父親をどうやって屠ったか、こと細かに教えてやろう」

ヴィクターの軋るような笑いは、ショーンの神経を逆撫でした。

「それからゆっくりと嬲り殺してやろう。その方が、お前の両親の苦しみも、きっとあの世で層倍になると思わないか?魂の行き着いた先で苦悶する様子、想像しただけで楽しくてたまらないじゃないか?」

両頬を憤怒に紅潮させたショーンは、疾風のごとくヴィクターの懐に肉薄し、

「人でなし!」

鳩尾めがけ、拳を叩き込んだ。

が、ショーンは愕然と体を泳がせた。

決して避けられる間合いではなかったはずなのに。

全く手応えがなかった。

ヴィクターは微妙な距離を確保していたのだ。

「そうだショーン、友達を紹介しよう。おい、出てきなさい」

扉を開けてのっそりと入ってきた、巨躯の男の顔を目の当たりにし、ショーンは思わず息を呑んだ。

「ランドルフ、ランドルフなのね?無事だったの?」

ヴィクターと一緒に、空間の亀裂に吸い込まれた相棒がいた。

しかし青年は何も応えない。

視線はどこか宙を泳いでいるかのように定まらず、ショーンの姿も確認しているのかどうか、判然としない。

「ランドルフ、一体どうしたっていうの?あんた、何かされたの?」

問いかけ、近づこうとしたショーンに、青年はいきなり飛び掛り、万力のごとく四肢を絡め取った。

「何するのよランドルフ!放しなさいよ!」

ヘラヘラと、楽しそうに笑うヴィクターは、

「ショーン、彼は君のせいで、私たちの世界を垣間見た。いや見ただけではない。彼はねえ、ふっふっふっ」

ヴィクターの言葉が終わらぬうちに、ショーンは背中に異変を感じた。

何かヌラヌラとしたもの、触手のようなものが、シャツをたくし上げ、ショーンの背中を襲おうとしている。


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