第三話
長い夏の陽は沈み、夜空に星が瞬き出して、少しずつ昼間の熱気が冷めていく時間になっても、カナタスは何も食べず、眠りもせず、部屋の中でじっとしていた。彼を自室まで連れてきたレオンとソフィスは、それぞれ自分の任務に当たりながら交代でカナタスの様子を見にやってきた。騎士団に所属しているレオンには警備の仕事があったし、文官として仕えているソフィスにも、有事の際の役割があったからだ。
日付も変わる頃になって、ソフィスが水差しを持って現れた。
「カナタス様。せめて何か召し上がってください。このままでは倒れてしまいます」
「……何も喉を通る気がしないんだ」
棚の上に水差しを置くために後ろを向いたソフィスに向けて、カナタスは問いかけた。
「父上は何か病を患っておられたのか?」
彼は振り返り、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。今のところそのような報告は何も上がっておりません。私も今までそのようなことは何も……」
「ではなぜ……。寿命というような歳じゃないだろう、父上は」
ソフィスは宥めるように声色を和らげて答えた。
「それは今、医師団と魔術師団が調査しています。明日にでも明らかになることでしょう。ですからカナタス様、今夜のところはお休みになってください」
カナタスは渋々頷いた。ここが学園の中だったなら、同室のリートが慰めてくれただろうに、と思う。彼は普段は軽口を叩きもするが、人の心の機微には聡く、的確な言葉を発するのに長けている。なんだか今は、聡明な親友の声が無性に聴きたかった。
ソフィスが退出しようとした時、急に廊下が騒がしくなった。
「お待ちください、いくら魔術師長といえど――!」
「黙れ! これは神聖なる調査であるぞ! 衛兵ごときが口を出すでない!」
複数の怒鳴り声を聞き、ソフィスが顔を顰める。様子を見てまいりますと扉の向こうに姿を消したソフィスは、廊下で問答をした後、なぜか魔術師たちに両腕を掴まれて戻ってきた。無遠慮にカナタスの私室に入り込んだ魔術師たちに驚いていると、その一団の間からひとりの女が姿を現した。黒い髪の女は深く被ったフードの下から真っ赤な瞳を覗かせて、カナタスにこう言った。
「お初にお目にかかります、殿下。わたくしは宮廷魔術師長、ラミューと申します。畏れながら申し上げます、カナタス殿下。殿下にはガントス国王陛下殺害の教唆の嫌疑がかかっております」
ソフィスが魔術師たちに支配された部屋の空気を引き裂くように声を上げた。
「デタラメです! 何かの罠に決まっています!」
「黙れ! 王殺しの大罪人が!」
魔術師の一人がソフィスを後ろから殴りつけた。眼鏡が飛んで、床にぶつかり軽い音を立てる。
「殿下、抵抗は無駄です。この国最高の魔術師たちから逃れられると思わないでいただきたい。我々もこれ以上無用な流血は見たくないのです」
カナタスは何が起こっているのか分からないまま、女魔術師の感情の乗らない赤い瞳を見つめていた。
カナタス王子が捕えられた、という一報を聞いたミナネスは、愕然として思わずよろめいた。傍らに控えていた女騎士が素早くその身体を支え、近くにあった椅子に王女を座らせた。ミナネスは頭を抱えて捲し立てた。
「嘘よ。嘘に決まってる。カナタスにそんなことができるはずないじゃない。あの子は優しい子よ。人を殺すなんて、それもお父様を殺すだなんて考えつくはずないわ、ねえそうでしょう、ルーナ!」
「落ち着いてください、ミナネス様」
「これが落ち着いていられるものですか!」
思わず力任せに振った手が、ルーナの長いプラチナブロンドの髪を二、三本引っ掛けた。ミナネスははっとして手を引っ込める。
「良いのです、私のことなど。お父上が崩御され、カナタス様に嫌疑がかけられたとあっては動揺して当然です」
ルーナは気遣わしげにミナネスの顔を覗き込み、しかしアイスブルーの瞳を強く煌めかせてきっぱりと言い切った。
「カナタス様が国王陛下を呪殺するなど、あり得ません。これは罠です。何者かが仕組んだことに違いありません。調査は明日以降も続くでしょうから、魔術師たちもいずれ真相に気付くはずです。だからミナネス様、どうかお気を落とされませんよう。今夜はもうお休みください」
そうね、と疲れた声で応じたミナネスは、立ち上がってからルーナを振り返り、彼女の月光色の髪の房をそっと引っ張った。それはミナネスがルーナと出会ってからの癖だった。最初は袖や服の裾だったのだが、ルーナが正式な騎士となり甲冑や鎖帷子を身につけるようになってからは髪になった。
「ねえルーナ。今夜は私の傍にいてくれない?」
ルーナは目を細め、彼女が絶対の忠誠を誓う主であり、畏敬の対象であり、友でもある王女を見つめた。
「ミナネス様が願われるなら、今夜と言わず、明日も明後日も、わたくしはお傍におりましょう」
*** *** *** ***
カナタスが連れて行かれたのは地下牢で、ソフィスとは別の個室だった。王族たちがこんなところに足を運ぶことは滅多にない。カナタスも、小さい頃『わがままを言う子はここに閉じ込める』とガントス王に叱られた時に連れてこられたきりだった。その晩カナタスは恐怖のあまり高熱を出し、ガントスはまだ存命だった王妃のエレインにひどく叱られたという。しかし、今はわがままを言ったどころではないし、ガントス王はもはやこの世におらず、カナタスを連行した者たちを不当だと怒れる人はいなかった。
がたん、と青銅製のテーブルに甲冑のぶつかる音が響き、カナタスは思わず肩を跳ね上げる。目の前に座った警備隊長は、大柄な身体から大声を浴びせかけた。
「殿下、はっきり仰ったらいかがです! 我々はあなたが国王陛下を呪殺させたという証拠を掴んでいるのですよ!」
カナタスは首を振り、やっていない、と容疑を否定した。怒声の猛攻に耐えると、今度は穏やかな雰囲気の魔術師が現れて語りかけた。
「よくあることですよ、殿下。王子殿下は陛下が次の後継者をミナネス王女殿下に指名しようとしているという噂を聞き、いても立ってもいられず呪いをかけるよう手配させたのでしょう? あなたは心の内では王になりたかったのですよ」
表面上だけは優しげな声が鼓膜を侵食し、カナタス自身さえも把握しきれていない胸の内を暴き立てようとしてくる。これなら怒鳴り声を浴び続けた方がましだった、と思いながら、カナタスは相手の言葉を否定し続けた。
「ソフィステスなら魔術の知識にも長けている。殿下と彼とは親しい間柄でしたでしょう? だから彼に頼んだのでしょう? 殿下、それではレオナルドの役割は何ですか?」
「ふたりは関係ない! あのふたりがそんなことするはずないだろう!」
ふむ、と魔術師は顎に手を当て、それでは殿下ご自身のことはお認めになるのですね、と言った。
「ふたりは、と、殿下は仰いました。ということは殿下は国王陛下を呪殺しようとし、他に実行犯がいるのでしょう」
「誰がそんな話をした! 俺はやっていないし、ソフィスもレオンも父上を殺したりしない! あのふたりは父上に見出された者たちだ! その恩を忘れるようなことは絶対にしない!」
魔術師が去っていくと、今度は先の警備隊長が現れた。陽が高くなるまでそんなことが繰り返され、精神と肉体双方の疲労から意識を失うことでようやくカナタスは解放された。意識を失ったあとしばらく放置されていたカナタスはまだましな方で、ソフィスへの尋問はそれを叩き起こしてまた続けられたという。
しかし、文官きっての切れ者であるソフィスは、ただ黙々と尋問に耐えたり、無意味に感情的になって体力を消費したりはしなかった。彼は言葉尻を捉えようとした尋問官たちの論理の穴を突き、逆に論破してしまったのだ。しまいには尋問する側も万策尽きて、被疑者の思考を鈍らせることしかできなくなってしまった。本格的に倒れる直前、ソフィスは濁った思考のまま、彼らにこう言い放った。
「私の経歴から国王陛下殺害の容疑をかけるなら、私が他に何の学問を修めたかもご存じでしょう。お気を悪くされたら申し訳ありませんが、私はあなたがたよりこの国の法に詳しいのです。それをよく覚悟した上でかかって来てくださいね」
絶句した尋問官たちの目の前で笑みを浮かべたソフィスはそのまま意識を失い、その後半日間何をしようと全く目を覚まさなかった。
カナタスの意識がはっきりしたのは、捕縛されてから丸一日経った後のことだった。一応王子であることに気を遣って用意されたパンと水とスープを食べ終えると、今度は警察長官直轄の部下だという男が現れた。彼は尋問官たちが伝えたカナタスの証言の裏を取り、最終的に裁判に持って行くかどうかを決める権限を有していた。そして、このような任務に当たるにふさわしく、大笑いしたことも涙を流したこともなさそうな、徹底的な無表情をその顔に貼り付けていた。
「殿下、一点だけ疑わしい点がございます」
彼はそう言って、手に持っていた羊皮紙を机の上に広げてみせた。それはガントス王が死んだ日の、カナタスの行動を図にしたものだった。
「殿下はなぜ、ご帰還後すぐに国王陛下に謁見されなかったのです?」
警察庁の男はそう言って、城に到着してから遺体を発見するまでの間の空白を指さした。
「俺は二階で叔父上に呼び止められて、父上は執務中だからと言われたんだ。それで、叔父上に招かれて叔父上の執務室に」
男は首を傾げ、それを見ていた者は、と訊ねた。カナタスは首を振る。
「そうですか……。殿下の証言について調べさせていただいたのです。モルガン様にもご協力いただきました。しかしモルガン様はこの時執務室にはいらっしゃいませんでしたし、カナタス様にも会われていないとのこと」
カナタスは唖然として目を見開き、目の前の男の鉄面皮を見つめた。
「何かの、間違いじゃないのか……? 俺は確かに叔父上に会ったんだ」
ようやく震える声でそう訴えたが、男はそれに関してカナタスになんら心を動かされた様子はなかった。
「お言葉ですが、間違われているのは殿下であるとしか考えられないのです。モルガン様はこの時刻に中庭で散策しているところを目撃されています。それも多くの召使いや近衛兵たちが証言しています」
直感的に、カナタスは悟った。自分は叔父に嵌められたのだ、と。
「殿下、残念ながら我々はあなたを起訴しなければならないようです」
男はとどめを刺すように、机の上に何枚かの紙切れを広げた。そこに書かれていたのは、カナタスの筆跡で書かれたソフィス宛ての暗殺指示書だった。
「嘘だ、俺はこんなもの書いてない!」
「カナタス王子殿下……、証拠は上がっているのです。少しでも刑が軽くなる言動をなさった方が御身の為です」
彼は無感動にそう言って、鉄の扉の向こうに消えていった。カナタスはもはや反論の言葉も失って、赤錆に侵蝕された鉄扉を眺めていた。
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