第二話
エメラルダから北へ、『安息の川』と呼ばれるフェンザムン随一の大河に沿って進むと、沿岸部独特の蒸し暑さは幾分和らいだ。馬車の窓から川を行き来する商人たちの船団を観察したり、通りがかる街の活況を眺めたりしているうちに一日目と二日目の旅程は終わり、最終日の三日目には王都フェンデントの手前の街で馬車を乗り換えた。帰郷の際、王子は遊学から帰ってきた、ということになっている。だからフェンデントには王家の馬車で入るよう定められていた。三日目は王族の慣いとして窓にカーテンを下ろして開けることは許されず、カナタスは退屈な馬車の中で従者を話し相手にしたり、うたた寝したりして過ごした。夏の長い日が西に傾く頃、二泊三日の旅を終え、カナタスは約四月ぶりに故郷の土を踏んだ。
馬車から降りて、王家に仕える人々が並んで作る道を通り抜ける。その、それほど大掛かりでないとはいえそこそこの人数の中に馴染みの顔を見つけ出し、カナタスはそちらへ駆け寄った。
「カナタス様。遠方よりのご無事の帰還をお喜び申し上げます」
橙色の髪の逞しい男と、その男が隣に立たずとも随分痩せて見える長い黒髪の眼鏡の男が深々と頭を下げた。
「レオン、ソフィス! 出迎えありがとう」
このふたりは、カナタスが王城で過ごす間の剣術と学問の師だった。七歳から、十一歳で学園に入学するまでの間は、主にふたりから必要なことを教わっていた。そして彼らは、カナタスがこの王城で心を許せる数少ない者たちでもあった。
「カナタス様、まずは国王陛下にご挨拶を。殿下が夕刻ご帰還になられると知って、食事を遅くされて待っておられます」
黒髪の方、ソフィスがそう言って恭しく頭を下げた。カナタスは頷き、踵を返して正面入り口へ向かった。衛兵たちが両脇に立つ鉄の扉の間を抜け、白い石の床に敷かれた荘厳な赤い絨毯を踏んで、奥の階段を上る。帰還の際、王に挨拶するのは、三階の謁見の間だった。二階まで上がったところで、カナタスは足を止めた。廊下の右側からひとりの男がやって来るのが見えたからだ。
「叔父上。お久しぶりです。カナタス、ただいま帰還致しました」
カナタスの叔父、そして現王ガントスの兄である、灰色の髪を後ろに撫で付けた中肉中背の男、モルガンは、厳しい表情を向けた。彼がカナタスを見る目はいつの頃からか常にこうだったが、カナタスの方はいつまで経ってもそれに慣れることができなかった。
「戻ったか。また一段と背が伸びた。これから陛下にご挨拶か?」
頷いて階段を上がろうとしたところで、モルガンはカナタスを引き留めた。怪訝な視線を向けると、モルガンは言った。
「陛下は急な執務が入っている。もう少しすれば終わるだろうから、それまで待っていなさい」
意外なことに、モルガンはカナタスを自分の部屋へ招いた。カナタスは思わず視線を廊下の両端に巡らしたが、そこには対処法もなければ上手いことカナタスを連れ去ってくれる何者も見出せはしなかった。帰還早々最も苦手な相手と、よりにもよって一対一で対峙しなければならなくなった不運に心中で悪態をつきつつ、カナタスはその好意を受け取った。
モルガンの執務室に最後に入ったのがいつだったかは覚えていないが、カナタスには彼の部屋になんら変わった部分がないように思えた。モルガンの部屋の調度品は当然どれも一流だったが、そこに個性というものが感じられなかったせいだ。自分の部屋や所持品に関して無関心というより、あえて個性を消しているような気がする。居心地の悪さを押し隠すように、カナタスは勧められた革張りの椅子に腰掛けた。
反対側に腰を下ろした叔父は、カナタスを正面から見据え、お前も来年で十八だな、と話を切り出した。
「フォートレスに卒業までいるとして、その後お前はどうするつもりだ。何か計画はあるのか?」
カナタスは慎重に言葉を選んだ。うっかり曖昧な表現を用いれば、どうなるか分かったものではない。
「父上は姉上を後継者に立てるおつもりでしょう。俺はそれに従います。ここで姉上を補佐したいと思っています」
「私が陛下を補佐するようにか」
カナタスは思わず言葉を詰まらせた。本来長男であるモルガンが手にするはずだった王位継承権がどのようにして弟であるガントスに渡ったかは、なんとなく知っている。
「……叔父上のようにはいかないかもしれません。俺は若輩者ですから。しかしいつかは立派に――」
モルガンが不意に、錐のような視線をカナタスに突き刺した。
「お前にはないのか。お前とてガントス王の子、王となる資格はあるのだぞ。それを手にしたいという欲望はないのか」
叔父の言葉には、いつにない熱が内包されていた。少なくともカナタスは、叔父がこれほど感情的に語るのを見たことがなかった。そしてその言葉の裏に隠された温度の意味に気付いてぞっとした。
「俺は……、俺は、父上の決められたことに従います。王とならずとも、できることはありますから」
そろそろいいでしょう、とカナタスは席を立ち、逃げようとしていることを悟られないようになるべく落ち着いて執務室を後にした。モルガンが追って来ていないことを確認し、柱の陰で詰めていた息を吐き出す。二、三度深呼吸してから、カナタスは階段を上って謁見の間の前で立ち止まった。
「父上。カナタスです」
いつもならすぐに返事が返って来るところだった。しかし、今日に限っては扉の向こうは静まり返り、何の物音も聞こえない。
「父上」
もう一度呼びかけた。それでも続く沈黙に、二度三度と呼びかけを重ね、ついに扉の取っ手に手をかけた。
「父上、失礼致します」
扉は、まるでカナタスを待っていたかのようにすんなり開いた。カナタスは謁見の間の緻密な柄の絨毯に視線を滑らせ、本来国王が座っている一番奥の玉座にまで視線を向けた。そして、そこで想像だにしなかった父の姿を見た。
「父上! だれか、父上が」
ガントス王は左胸を押さえたまま、不自然に床に横たわっていた。カナタスは父に駆け寄り言葉を失った。ガントスの、薄く開いた両の瞼から、光を失い濁った緑色の瞳が覗いていた。カナタスの声を聞きつけて駆け込んできた召使いたちが目にしたのは、呆然と父親の傍に座り込んでいるカナタスと、倒れたガントス王だった。
カナタスが我に返ったのは、駆け寄ってきたレオンとソフィスに声をかけられてからだった。ご無事ですか、と聞かれ、カナタスはようやく頷いた。目の前ではガントス王の主治医が呼ばれ、死亡が確認されているところだった。
「カナタス様、一度ここを離れましょう」
立たせようとするレオンを拒絶し、床に座り込んだまま首を振る。
「いやだ、父上のそばにいる」
「カナタス様、お気持ちは分かりますが――」
ソフィスが宥めようとした時、真後ろから影が差した。振り返るとそこには、氷のような視線を送るモルガンが立っていた。
「なんだその体たらくは。ミナネス王女を見てみなさい。こんな状況でも毅然となすべきことをなしている。お前のような腑抜けはいらぬ。さっさと自室にでも帰るがよい!」
「さすがにお言葉が過ぎるのではありませんか」
ソフィスの声には非難の色がはっきりと表れていた。しかし、モルガンはソフィスを睨み下ろすと、さっさとその役立たずを連れて行け、と吐き捨て、踵を返して従者たちに指示を出し始めた。
「行きましょう、カナタス様。現場の妨げになってはいけません」
その時、ミナネス王女がこちらを振り返った。彼女はこんな時でも優雅な足取りで、美しい金の髪もモスグリーンのドレスの裾も乱さず、カナタスの方に歩み寄った。
「カナタス。大丈夫よ。今はゆっくり休んで。長旅で疲れているうえにこんなことが重なるなんて、どうかしない方がおかしいわ。叔父上には私から言っておくから、あなたは気にせず休息を取りなさい。レオン、ソフィス、弟をお願いね」
鈴の鳴るような、凛とした声音は不思議とカナタスの心を落ち着かせていった。
「ミナネス様も、あまりご無理をなさいませんよう」
レオンが素早く応じると、ミナネスは満足げに微笑んで去っていった。
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