第432話 枢機卿の思惑

 とある枢機卿は、身体中泡立つように湧き上がる興奮を押さえつけ、極めて冷静を装いながら、自室へと向かう。そして部屋に入り扉を閉めて鍵を掛ける瞬間までその冷静さを保ち続ける。


 

 カチャリ…



 扉の鍵が閉まる音が鳴り響く。しかし、枢機卿はまだ湧き上がる興奮を押さえつける。ゆっくりとそして確実な歩調で事務机に向かい、枢機卿の為だけに作られた豪華な椅子に深々と腰を降ろす。


 そこで、今まで押さえつけていた興奮が解放され、一気に背筋を駆け上がる。



「フフフ… フハハハハハ!!」



 押さえつけていた興奮が、笑い声となって枢機卿の身体から溢れだす。



「凄いぞ!! 凄いじゃないか!!!」



 今まで聖人然と澄ましていたその表情は、狂気じみた歓喜の表情へと変わる。



「まさか…あの聖剣が…300年前のアンティークだと思っていた物が…まさか、現代技術の魔法や剣がまるで子供玩具に思えるほどの性能差を持っていようとは… ククク…正に神秘!! 技術や理論で言い表せるような代物ではなく、正に神秘の代物だ!!」



 枢機卿は先程、聖剣の力を目の当たりにして、興奮していたのだ。


 聖剣の評価は、表向きには聖女の奇跡がもたらした神が人類に与えたもう聖なる剣として湛えられていたが、その実、人々の中では、最初の魔王との戦いで力を使い果たしたか、もしくは現代の冶金技術もしくは魔法技術の凌駕されいて、なので今まで誰かが使う事を拒み続けていたのではないかと、囁かれていた。


 しかし、枢機卿は今日、その聖剣の凄さを目の当たりにした。


 現在、教会内最強と言われているギブソン枢機卿のフライングVですら切り裂く事の出来なかった相手をまるで空を切るように安々と切り裂いた。また、魔族が人質を盾にした時でも、聖剣は盾にされた少年を傷一つ付けることなく、後ろの魔族を一刀両断せしめた。


 今世の聖剣の勇者とやらは、そこらの一冒険者とあまり代わり映えのしない男であり、特別優れた者ではない。なので、あの男の実力ではなく、ただひとえに聖剣が成しえた技である事は確かなのだ。


 今の世では、様々な事象が観察・研究され、迷信じみた考えは払拭され、その原理と理論が明らかにされつつある。


 だが、先程見た聖剣の力は人間が必死になって積み上げた技術や理論を子供の児戯と嘲笑うかのような力を見せつけたのである。


「まさに神秘! 人知を超えた神の御業!」


 枢機卿は立ち上がって、感嘆の声を上げる。


 だが、すぐに別の事案が頭に思い浮かんできて、奇跡を見た感動が縮んで行く。



「…だからそこ… 必ずや排除しなければならない…」



 枢機卿は再び椅子に腰を降ろし楢が、口惜しそうにつぶやく。


 枢機卿の計画通り、無能なヒルデベルト司教は、審判の神の査問を受ける前に、魔族から渡された秘薬で無事に処分された。だが、聖剣の性能が予想以上のものであったのだ。



「あの聖剣は今度の人類と魔族…世界の調和と進歩と進化の為には、些か…いや大いに障害になると思われる…」


 枢機卿はそう言葉を漏らした後、自身の計画のモチベーションになる原点の事を思い返す。



………



 枢機卿は子供の頃、スラム同然の下町で育った。そこでは計画性のない者が、日雇いのあぶく銭を得て、その金を貯蓄することなく、稼いだその日に酒や遊興に使い次の日には食うものに困る有様であった。


 枢機卿の親も同じような人間で、枢機卿はいつも腹を空かせていた。だから、親が金を得て食料を買い込んで来た時には一度に食べずに隠し持ち、飢えに苦しむ事がないように子供ながら考えて生活をしていた。


 しかし、育ち盛りの子供である。とてもそれだけでは足りないので、子供でも出来る仕事をしたり、郊外に出て自分で食べるものを得たりもしていた。


 だが、そんな努力を続ける子供に、下町の子供たちは容赦しなかった。子供の枢機卿が金や食料を持っている事を知ると、暴力で奪い取るのだ。相手も腹が減って飢えているのならまだ納得できるが、相手は食料を金に換えて遊興費に使っていたのだ。


 なぜだ! なぜそんなむごいことができる!! その金や食料が無ければ私は飢えて死にそうなのに、どうしてそれらを奪い何の益もない遊興に興じる事ができるのだ!!


 そこで子供の枢機卿は、まだ物心ついて間もないというのに、世界の不条理と理不尽を感じていた。そして、もう下町では暮らしていけないと考えた子供の枢機卿は、バカな親元から離れ一人下町から離れて暮らす事を決心し、郊外にあった屋根の崩れた廃屋で暮らす事にしたのだ


 子供が親元から離れ、野宿で暮らせるほど、世界は甘くはない。雨風が幼い枢機卿に容赦なく降りかかり、夏の暑さ、冬の寒さが骨まで染みた。だが、誰からか与えられるのを待ち、折角得たものを誰かに奪われる事からすれば、そんな事など我慢できた。


 だが、そんな子供の枢機卿も病には勝てなかった。ある時、流行り病に掛かってしまい、身体に絶えず寒気が襲い、痛みと苦しみで思うように起き上がる事も出来ず、声を上げる事すらままならなかった。



「嫌だ…死にたくない!! こんな人気のない廃屋の片隅で僕は… 誰にも看取られずに… 誰にも僕の存在を知られる事無く… 世界から消え去るなんて嫌だ!!!」

 


 そう叫ぼうと思うのだが、口からは枯れたような息がヒューヒューとでるだけだ。最後の言葉ですら、声に出す事が出来ず、枢機卿は涙が溢れ視界がぼやけてくる。



 あぁ… 僕はこのまま死んでいくのか… 何者にもなれず、誰にも悲しまれる事も…存在すら知るものもなく… 死んで消えていくのか…



 視界と意識が消え去る瞬間、少し温かさを感じた。



 そして、再び視界と意識を取り戻した時、あの時の温かさは錯覚ではなく、現実のものであったことを認識する。枢機卿はベッドの中にいたのだ。しかも、実家にいたときのムシロだけを敷いたようなベッドではなく、ちゃんと綿が入った清潔なベッドだ。



「おや?坊や、目覚めたのかい?」



 枢機卿の視界に覆いかぶさるように、柔和な顔をした老人の顔が現れる。


「…こ、ここは?… 貴方は…誰?」


 枢機卿は掠れた声で老人に尋ねる。


「ここは教会で、私はこの教会をあずかる司祭だよ」


 老人はそう答えながら、枢機卿の前に、柔らかそうなパンと温かいスープの載ったトレイを差し出す。


「おじいさん…僕、お金持ってないよ…」


 親や下町の子供に騙されて後から金をとられる事が何度もあった枢機卿は、金がない事を老人につげる。


「いや、金は構わんよ、ここは教会なんだから、心配せずに食べなさい」


 枢機卿はその言葉に堰を切ったように差し出された食事を貪り始める。初めてのやわらかいパンに初めての温かいスープ、今まで食べてきたものより一番美味しく感じた。いや、現在の枢機卿からしてもあれから何十年という年月が経ち、高価で一流の料理人の作った食事をしてきたが、未だにこの時に出されたパンとスープに勝るものは無かった。


「坊や、行くところはあるのかい?」


 人の温かさに触れる食事に涙を流す枢機卿に老司祭は尋ねる。枢機卿は首を横に振る。


「では、ここにいなさい、ここは神が迷える子羊たちに作りたもう場所なのだから…」


 枢機卿はその老司祭の温情に触れ、廃屋での一人暮らしを止め、ここで暮らす事を決めた。


 枢機卿は老司祭に恩を返す為に必死に働き、老司祭の手伝いをした。また老司祭も熱心な枢機卿に教育を授けた。今まで字すら覚えていなかった枢機卿は、目の前の世界が一気に広がる様な衝撃を受ける。


 人々の暮らし、その積み重ねの歴史、世界はこの町だけではなく、もっともっと広大に広がっていて、自分は正しく井戸の中で上を見上げるだけのカエルでしかなかった事を知る。そして、老司祭の教育により、自分は井戸から引き上げられ、世界は狭い井戸の中だけではなく、空の続く限りどこまでも広がっている事を知ったのである。


 枢機卿はさらに老司祭に感謝して、自分の為だけではなく老司祭に応えるためにさらに学問に励み、仕事も熱心に老司祭を支えた。枢機卿はそんな日々がいつまでも続くものと考えた。


 だが、終わりはある日突然訪れた。老司祭と枢機卿の尽力により、栄え始めたこの教会に、教会本部から新しい担当者がやって来て、教会を明け渡せと言うのだ。


 勿論枢機卿はその行為に異議を唱えようとした。しかし、老司祭は『これも神の思し召し』と言い留まらせた。


 だが、教会本部から来た新しい司祭は、どこぞの司教の隠し子であり、且つ無能であった。親がその司祭に実績を積ませる為に、この栄え始めた教会の実績を盗みに来たのだ。


 突然、仕事も居場所も奪われた老司祭は、無能司祭の親が手を回しているのか、行き場を失い、かつて私が老司祭に拾われた場所であるあの廃屋に身を寄せた。そして、老体ではあの廃屋生活に耐えられるはずもなく、私の恩人である老司祭は見る見るうちに衰弱していき、誰の目にももう長くはない事は明らかであった。


 だが、老司祭は教会本部の仕打ちに一言も愚痴を漏らすことなく、私に最後の言葉を告げる。



「お前はまだ若い…私の様に老いぼれの死に際にこだわるのではなく、もっと大きな世界に羽ばたきなさい… ここに神学校の紹介状がある… お前はそこでもっと多くの事を学び、私個人ではなく、もっと多くの人の為に人生を使いなさい…」


 私は初めて、人の死に涙した。そして、幼いころ感じた世界の不条理と理不尽を再確認した。


 幼いころ碌に私の面倒を見なかった親、私の金と食料を巻き上げて遊興に使った下町の子供、そして、今回、老司祭が育てた教会を奪い取った、無能の司祭… 


 この世界は上から下まで不条理と理不尽で埋め尽くされている。私は今まで老司祭というゆりかごの中で守られていたに過ぎなかったのだ…



 私はその時、決意する…この社会…いや、この世界を是正しなくてはならないと…



 無能で無思慮な人間が多すぎる… 自ら何かを生み出すことなく、自分が無能なくせに暴力や権力などで他者から奪い取る、もしくは無気力・無能でも無配慮で子供を作る事だけをする人間が多すぎるのだ…


 そんな人間の為に、老司祭の様な善良な人がその居場所を奪われるような世界は是正しなくてはならない…


 その為に何をすべきか… 私が思い当たった事…それは人が多すぎるのだ…


 こんなにも世界は広いというのに、人間の住むべき場所は、もう人が多すぎて溢れ出る人が出てくる。これも長く続いた平和がもたらした怠惰…無能な人類でもその時の力の差の暴力や、引き継いだ権力を使い無能者が使い、善良な者、有能な者から不条理、そして理不尽

に築き上げた物を奪っていく…


 そこで私が行きついた答えが、無能・無思慮・無気力な人間は間引き、淘汰するべきである…そして、善良で有能な人間の場所を確保すべきなのだ。


 そのためには魔族の争いをここで終わらせるべきではない。もっと人類の数を減らさなくてはならない。そして魔族との緊張状態を演出して、無能・無思慮・無気力な者がのさばる様な隙間を作り出さない事にある。


 この為に私は教会本部で地位を確立し、魔族との接触も行った。これも善良で優良なる者だけが生き残る世を作り出す為である。


 今まで、世界を裏で揺り動かし、動乱を起こし魔族との紛争も起きているが、教会内部ですら、未だにヒルデベルトの様な無能者がいる始末である。他国の王族や貴族にはまだまだそんな無能者がいる事であろう…


 まだまだ、人類の間引きは足りない… もっと無能者を淘汰しなくてはならない!


 

 だから… 魔族との争いに終結をもたらす聖剣の存在は看過できない… 人類にはもっと間引きと緊張感が必要なのだ。


 

 あの時、神が奇跡を起こしたもうたなら…老司祭は惨めに死ななくて済んだものを…

 神は何故、あの時老司祭を見捨てたのか…

 それは人の世は人の手によって形作られるからこそ、価値があるからだ。

 その価値ある物を築き上げた時、神の祝福がもたらされる。


 だが、あの時老司祭が神を呪ったりしなかった様に、私も神を呪いはしない…


 あの時、老司祭があの無能司教の行いを『神の思し召し』と言ったように、今の私の行いもまた、『神の思し召し』なのだ…


 神はあの老司祭の死を通して、私に今の世界の是正を行うという使命を与えられたのだ!


 だから、一切の迷いはない!


 私は神と世界の是正の為に、無能者の淘汰し、常に自身を高める緊張感をもたらす、魔族との紛争均衡状態を維持するべきである。


 その為にはその均衡状態を壊す聖剣は排除するべきなのだ…



「ふっ…新たな神の祝福をもたらす為には、以前に神がもたらした祝福の聖剣を排除しなければならない訳か… 次の計画は大がかりになるな…それと私自身も裏からではなく表舞台に立たなくてはならない…」



 枢機卿はそう呟くと、聖剣排除の計画に動き出したのであった。

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