第274話 お前に人の心はないのかっ!!
「………」
「(じー…)」
「………」
「(じー…)」
「…なぁ…クリス…」
俺は今の状況を見るに堪えかねて、思わずクリスに声を掛ける。
「…なんですか?イチロー殿」
だが、クリスは俺に声を掛けられても、視線を俺に向けることなく、ある一点を涎を垂らしながら凝視し続ける。
「以前の姿の時ならまだしも…いや、以前の姿でもどうかと思うが、ポチの食べている物を物欲しそうに眺めるのはやめにしないか?」
どういうことかと言うと、先程からクリスが幼女姿のポチの食べているものを、涎を垂らしながら物欲しそうに見続けているのである。
ポチの食事は、俺達と同じもの食べる事が出来るが、そこはやはりフェンリルという事なので、一般の俺達とは異なる肉が多めのメニューになっている。
ポチだけ肉多めの食事は不公平ではないかと言うと、ポチ自身が、フェンリルの姿になって自分で狩りをしてきているので自給自足であり、逆にポチのとってきた獲物をカズオが料理して、そのおすそ分けを俺達が頂いているので、今まで特に不平が出たことは無い。
それどころかクリスがポチに肉を強請る姿の方が、皆どうかと思っていたが、そこはフェンリルの姿のポチに人間の尊厳など何処か忘却の彼方に送って、強請る姿に、皆クリスを憐れんで口を閉ざしてた。
だが、カーバルでポチが人化できるようになったことにより、幼女姿のポチに大の大人のクリスが肉を強請る絵面は見るに堪えない。
「くりすちゃん、お肉ほしいの?」
俺達の騒ぎにポチが顔を上げてクリスに尋ねる。
「えっと…その…あの……じゅるり…」
普段ならすぐに飛びつくクリスであるが、先程俺に言葉を掛けられたことや、ポチが幼女姿なので気が引けているのか、ただ肉を凝視して涎を垂らす。
「くりすちゃんは私の仲間っ! 仲間にえものを分けるのはフェンリルのじょうしき! だら、遠慮しなくてもいいよっ!」
そう言って、ポチは純粋無垢な笑顔で、肉を持った自分の皿をクリスに差し出す。
「い、いいんですか!?」
ポチが差し出した肉の皿に、クリスは目を輝かせて盛大に声を上げて手を伸ばそうとする。
「いい訳なかろうがぁっ!!!!」
そんなクリスの後ろから、まるで雷でも落ちたような怒声が響く。
突然の怒声に、クリスはビクリと肩を震わせる。そして、青ざめた顔でわなわなと震えながら、後ろに振り返ると、鬼と言うか仁王というか閻魔大王様というか、青くなったクリスとは対照的に、怒りで顔を真っ赤にしたマグナブリル爺さんの姿があった。
「よもや…ここまで落ちぶれていようとは…」
これもたま恐怖で震えるクリスとは対照的に、怒りで肩を震わせるマグナブリル爺さんがポツリと呟く。
「いや…こ、これは違うんですっ! マグナブリル様!!!」
「何も違わん! クリス・ロル・ゾンコミクっ!!」
「はいぃぃぃぃ!!!」
マグナブリル爺さんの雷の様な怒声に、クリスは新兵が鬼教官に怒鳴られた時の様に、反射的に背筋を伸ばす。
「お主が、騎士の立場や社会的な人間という姿を捨て、野に下り野生化して、この城に餌を強請りにきた姿を見た時には、お主の素生を憐れんで、イチロー殿に私が金を払うから食事を与えてやって欲しいと頼み込んだのだが…まさか、そのイチロー殿の恩義も忘れて、イチロー殿の幼子の食事を強請る様になっているとは…」
高身長のマグナブリル爺さんが更に姿勢よく背筋を伸ばして、ギラギラとした血走った目でギョロリとクリスを見下ろす。
「い、いや…これには訳が…あって…」
「ほほぅ… 食事を恵んで貰っている城の住人…しかもこの様な幼子から食事を強請る理由とは、一体どのようなものなのだ? 私に聞かせてくれぬか? クリス・ロル・ゾンコミクよ」
マグナブリル爺さんは見開いて血走った瞳で、息のかかりそうな距離まで顔を近づけて、クリスの顔を覗き込む。
マグナブリル爺さんのその恐ろしく凄まじい威圧に、クリスは何も答える事が出来ず、毛穴と言う毛穴から、冷や汗やら脂汗やら諸々をドバドバと垂らし、頭から湯気を吹き出して、まるで激しく燃える蝋燭の様になる。
「…クリス、お主の父ランドルフは地位こそ低かったが優れた軍人であり、魔族との戦いでは補給が思うように届かず、その僅かな物資を部下に分け与えて自身は我慢するような素晴らしい部下思いの人格者であった。死なすには誠に惜しい人物であった…」
マグナブリル爺さんは故人を忍ぶように、瞳を閉じてしみじみと語る。
人に分け与える父親に、人からというか、獣の幼女から奪う娘か… 結構、心を抉る言葉だな…
「また、お主の兄アーノルドも父の意思を継いで、下々の者に対する思い遣りが強く、弱き者を背に自ら最前線に進み出て、戦った猛者だった。彼の活躍は戦場で数多くの下々の命を救った…」
そう言うと、マグナブリル爺さんはギョロリとした目を開いて、再びクリスを凝視し始める。
「そんな優れた父と兄を持ち、肩身の狭い思いをして居ったお主に私は同情しており、お主が野に下り野生化したのは仕方のない事だと思っておったが… まさか、野生化して人の姿を失うどころか、人の心まで失っておったとはな…」
マグナブリル爺さんの言葉に、もはやクリスは、怖いのやら、父と兄の功績を持ち出されて今の自分と比べられて恥じずかしいのやらで、青くなったり、羞恥に赤くなったりと、どうしようない状態に陥る。
そんなクリスが瞳だけをこちらに向けて、俺に助けを求めてくるが、この状況をどうやって助けるというのだ…普通に無理だろ…
「おじちゃん、おじちゃん…」
そんな誰も口出しできない状況にただ一人だけ、声を上げるものがいた。
ポチである。
クリスに食事を強請られた犠牲者であるポチは、クリスの叱られている姿を見かねたのか、クリスとマグナブリル爺さんの間に立ち、爺さんを見上げながら、不安そうな顔をして、その服の裾を引く。
「どうしたのかね? お嬢ちゃん」
マグナブリル爺さんはクリスとは異なり、慈愛に満ちた瞳をポチに向ける。
「あのね、あまりくりすちゃんを起こらないでほしいの、くりすちゃんはいつもお腹をすかせているから、かわいそうなの… だから、いつも私がお肉をあげてるの」
ポチはなんていい子なんだ…いつもクリスに肉を強請られていて、クリスの事を鬱陶しがるどころか、可哀そうな子だと慈悲と慈愛の心で接していたのか…
そんなポチの姿と言葉に流石のマグナブリル爺さんも心を打たれたのか、目頭を押さえる。
「幼子ながら、なんという人の心を持った人物なのだ… 久々に心打たれて目に溢れ出るものがあったわ…」
その状況にクリスは益々気まずそうな顔をして、頭を90度に曲げて項垂れる。
「クリスよ」
マグナブリル爺さんはポチから視線を上げて、クリスに向き直り呼びかける。
「はひぃ!!!」
クリスは項垂れていた頭をすぐに上げてマグナブリル爺さんに答える。
「この心優しき幼子に免じて、羞恥にさらされる人前での説教は許してやろう…」
その言葉に許されると思ったクリスは一瞬、口元が緩む。…こいつ…反省してないな…
「だが、今後、お主が人の心を取り戻す為に、色々と躾を施していくつもりだから、覚悟するように…」
「ひぃぃっ!!!」
クリスの顔が再び青くなる。この様子を見ると、イアピースでも何度も説教をされていたようだな…
「ひぃではない! はいと言え!!」
「はひぃっ!!」
クリスは再び背筋を伸ばして、鬼教官を前にした新兵の様に答える。
しかし、フリーダムに生きていたクリスをコントロールできる人物がいたとは驚きである。
「分かったのならよろしい、自分の役目に戻るがよい… それと…毎日風呂に入れ…獣臭いぞ…」
クリスは羞恥に顔を赤くしながら、マグナブリル爺さんに敬礼をして、早歩きで食堂を去っていく。
そんなクリスの背中に、マグナブリル爺さんは小さく溜息をついて今度は俺に向き直って歩いてくる。
「すみませぬ…お恥ずかしい所をお見せしました…イチロー殿、このマグナブリル、只今戻りました」
「ん? 爺さん、どこか出かけていたの?」
俺にも飛び火が来るのかと、一瞬ビビっていたが、そう言う事でもなさそうだった。
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