【第5章:チェス】

「よろしくお願いします。」

「よろしくね。」

 あさひはキングの前のポーンを2マス前、E4のマスに動かした。愛州も同様にE5へポーンを突いた。


 チェスは相手のキングを取るゲームであるが、その過程として自分に有利な盤面を作ることが本質である。

 有利な盤面とは何を指すか、1つは勿論駒の数である。相手より自分の方が駒を持っていれば有利であることは疑いようがない。

 だが有利な盤面かどうかを左右する要素が少なくとももう1つある。駒の位置である。

 動けない駒では相手の駒を取ることは出来ない。初手でキングの目の前のポーンを動かすことには、将棋で言うところの角道を開ける、つまりキングの左右に配置されたビショップとクイーンの移動経路の確保が目的である。

 また、中央のポーンを前に進めることは中央の支配の足掛かりにもなる一石二鳥の手だ。今回のように互いがこの手を指すことをオープンゲームと呼ぶ。


 続いてあさひは右側のナイトをF3に動かす。これによって次の手番で相手の突出したポーンを取れる状態ができる。

 愛州はあさひとは逆側のナイトをC6に動かす。これであさひがナイトでポーンを取った場合、このナイトでナイトを取れる。

 それに応じてあさひは右側のビショップをB5に動かす。これで相手のナイトの斜め下を取り牽制ができる。ここまでがルイ・ロペス呼ばれる比較的メジャーなチェスの始まり方の1つだ。


「実はこのオープニングしか指せないんですよね…。」

 あさひが少し困り顔で言う。

「まあ、一番基本の形だしね。」


 愛州は端のポーンを1マス前、A6に指す。あさひはビショップを動かさないとこのポーンに取られてしまう。モーフィーディフェンスという定跡だ。これに対して右下にビショップを引いてしまうとナイトへの牽制がなくなり、一手損になってしまう。

 これに対応する手は2つある。1つはビショップを左下に1マス下げることだ。これでナイトを取る経路を確保しつつポーンから逃れられる。もう1つはビショップでナイトを取ってしまうことだ。当然その後、ビショップはポーンによって取られ、痛み分けという形になる。


「んー…。」

 少しあさひが考え込んでから駒を動かす。普段のあさひであればビショップを温存するかもしれないが、相手の技量を探る目的でビショップを右上に動かし、ナイトを取った。

 これに対して愛州はクイーンの前にあるポーンでビショップを取る。ナイトとビショップを交換することから、この手筋はエクスチェンジ(交換)バリエーションを呼ばれる。

 クイーンの前のポーンが動くことで前が空き、道ができた。愛州のクイーンはより有利な位置になったと言える。

 愛州のナイトが排除されたことで、あさひのナイトで初手に中央を突いたポーンを取ることができる。しかし、安易に取ってしまうとクイーンにさらに有利な位置を取られて結果的に不利になってしまう。

 あさひはキングと右端のルークを右手でまとめて持ち、くるりと左右入れ替えた。ちょうどお互いが入れ替わりつつ2マス移動した形、キングとルークの間で成立する特殊な動かし方、キャスリングと呼ばれる。ルークという城壁でキングを守るからCastle(城)+ ingだ。


 愛州はクイーン隣のビショップをG4まで一気に進める。これであさひのナイトがポーンを取ってしまうとビショップがクイーンを取ってしまうため、ナイトを動かせなくなった。

 このままではナイトが死に体になるのであさひは右端のポーンを1マス進める。これで相手のビショップはポーンに取られてしまう状況になった。

 ここでビショップを逃がすようなら自分以下かよくて同等。と、あさひは考えた。あさひはポーンでビショップを取れる状態だが、これを取った場合、後手のクイーンとルークの道が開き、暴れることであさひが不利になる。

 つまり、ポーンはビショップを牽制しているが、牽制自体が目的であって取ってはならないという状況なのだ。そこまで定跡を知っているならばここで愛州はビショップを逃さず他の手を指すはずだ。逆に定跡を知らなければ、ビショップを逃がすだろう。


 愛州は端のポーンを2マス前、H5に動かした。これはビショップが取られた時にその駒を取り返しつつルークの道を開ける手だ。

 つまり、愛州はこの定跡を知っていて、あさひと同等かそれ以上の腕前である。

 パンパンパン、とねことこむぎが射撃場で遊ぶ音がする。しかし、チェス盤を囲んだ2人は奇妙なほど静かに思えた。


「…愛州さん、もしかして結構チェスやってますか?」

 あさひがなんとはなしに問う。

「うん、まあ趣味程度だけどね。序盤は本のように指せ、って言うし多少は勉強したかな。」

 遊びと言う割には長い戦いになりそうだ。あさひは息を飲んだ。


 あさひはクイーンの前のポーンを1マス進め、ナイトに代わって中央のポーンを護衛する。

 愛州はクイーンを2マス斜め前に出し、攻め込む準備を始める。

 あさひは左のビショップをナイトの隣に動かす。左右両方に道が開けている手だ。

 愛州はビショップであさひのナイトを取る。すかさずあさひはクイーンでビショップを潰す。そこに愛州のクイーンが真っ直ぐ飛んで来てクイーンを倒す。あさひはポーンでもってこれを倒す。お互いのクイーンを交換する手順だ。

 愛州は自陣のビショップを2マス斜め前に出し、左右に展開しやすくする。


「ここからが中盤戦だね…。」

 互いがナイトを動かし、盤面を進める。愛州はロングサイドキャスリングを交えてルークで中央を睨ませる。

 一進一退の攻防。駒を取り、そのカウンターでまた相手の駒を取ることの繰り返し。

 長い中盤戦が過ぎ、そして―――。


「チェックです。」

 あさひが愛州にチェックをかける。あさひのルークでのチェックは正しく受ける手を打たなければそのままチェックメイトになる。メイトスレット、将棋で言う所の詰めろの形だ。

 愛州が顎に手をあて考え込む。しばらくの後、キングを逃した。

 あさひにとって、この手は想定済みである。ナイトを動かすことで、次の手番でさらにメイトスレットをかける準備をする。


 あさひは自分の勝利を半ば確信していた。メイトスレットを畳み掛けてミスをしない人間は少ない。

 ―――そう、あさひホームズもその例外ではない。


「チェックだよ。」

 ナイトが動いて開いた道を通り、愛州があさひにチェックをかける。この形はメイトスレットだ。

 あさひが詰めるための一手の間に、メイトスレットをかける。メイトスレット逃れのメイトスレットだ。

 今度はあさひが受けに回ることになる。キングを逃がす。

「チェック。」

 立て続けにメイトスレット。逃げる。

「チェック。」

 逃げる。

「チェック。」

 逃げる。

「チェック。」


 さっきまで確実にあさひは優位に立っていた。あさひの駒は愛州を追い詰め、そのキングの首に手をかけていた。

 だが、気がつけば、一手であさひは追う側から追われる側に変わっていた。

 ミスを許されないのは愛州だったはずなのに、気がつけば自分が追い詰められている。あさひの顔に汗がにじむ。


「負けまし―――。」

 あさひが投了しようとしたその時。


 ゴーン、と部屋の柱時計が鳴った。

 午後4時、事件が起きる時間である。

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