2−25 金色ノ流レ星、
「もー突然なんなのですか、少尉どのは」
熱で気を失っていたとは思えないほど、直の動きは俊敏だった。濡れたまま凍って肌に張り付いていた衣服も、ルードルマンが日中抱えていたおかげで、そのまま皮膚を一緒に剥ぐようなことにはならなかったらしい。
「スロ。すまない、私のズボンのポケットに何か入っていなかったか彼らに聞いてくれないか?」
「ん、」
直が目を覚ましたと聞いて見張りから戻ってきたスロが、その言葉をすぐに訳して老婦人に伝える。服はまだ完全には乾いておらず、今の直は老夫婦から差し出された男物の衣服を着ている状態だった。
外されたサラシの代わりに、二人に許可をもらい布を裂いて素肌に巻きつけ、その上から服を着た。即席だが無いより随分とマシだ。「助かった、感謝いたします」と礼を言う直に、老夫婦はますます困惑した表情を見せていたという。
これを、と差し出された幾つかの小さな荷物に、直の口元が安堵したように綻ぶ。
「なんだ、それは」
「ノルゲで親父どのより戴いた勲章です。これだけは失くしてはなるまいと、川に入る前にポケットに」
「シレノズ中将をそんな風に呼ぶのは貴様くらいだぞ……」
呆れたように呟きつつも、自身も身分の証として咄嗟に勲章の類はズボンのポケットに捻じ込んでいた事を思い出す。
今一度ぎゅっと勲章を握りしめた直が、もう一つ小さなコインケースのような物から何か取り出すのが見えた。
「ああ、薬みたいなもんですよ。軍に入ると決めた頃から、ずっと服用しとります」
「……貴様、どこか具合が悪いのか?」
「いいや」
怪訝そうな視線に気づいたのか、少し寂しそうに笑いながら直はその中の錠剤を一つ口にひょいと放り込んで飲み込む。少しだけ声を潜め、直はルードルマンにだけ聞こえるようにそっと囁いた。
「一日くらい飲まんでも、大丈夫でしょう。まぁ、自分の身体が女として機能せんためのお守りみたいなもんです」
「……」
数秒呆けたようにしていたルードルマンの、その表情が一気に曇った。それを見た直はふへへ、とイタズラっ子のように笑う。
「そげな顔せんでも、まぁ自分が女に見えんことは百も承知。万が一のための予防ですよ」
「何故そんな話を俺にした、そんな大事な」
「大事なことだからです」
不機嫌に座る、自分の膝を掴んで小さな部下がまっすぐ見つめてくる。絶対の信頼を寄せているその瞳が、今はなんだか少し居心地が悪い。
「少尉どのだからこそ、伝えておかねばなりません。男所帯の軍にいる為に、学生の頃から体脂肪率も17%を超えぬよう管理しております。月のものが来ないようにするためにです。自分はそれくらいの覚悟で、戦争の中におります。何かあって、足を引っ張るようなことがあれば、迷わず少尉どのはご自身を優先させてください」
「貴様……っ」
「だから、さっきのような気遣いはありがたいのですが、気にせんで欲しいのです」
気づいていたのか——。胸ぐらを掴もうとして、すんでのところで踏みとどまる。命を投げ出そうとするなと怒鳴ろうとして、目の前の部下が以前と全く違う決意を以って進言しているのに気づいたからだ。
体格の差が、性差が、きっと不利になる日が来ることさえコイツは覚悟している。だけど諦めもしなければ、上官を護り着いていくという事に対しては誰よりも貪欲であり……強い人間だ。
その瞳に、絶対的な意志があることを感じ取ったのだ。
そうはならない、という確固たる意志を。そして、その可能性がゼロでなくとも最後の瞬間まで自分の傍にいようとしているその意志を。
ならば——自分がこの小さな部下に返せるものはただ一つ。
「この莫迦が」
「少尉どの……」
「勝手にしろ。俺は貴様が自分の事をどう思っていようがこれまでと変わらん、こっちも勝手にさせてもらう」
「あ、あの」
「俺の隣を飛ぶんだろう? それに変わりはないはずだ、男も女も関係ない。俺はそんな小さな事で貴様を僚機に選んだのではない。たかだか一度の発熱で弱気になるなぞ絶対に認めんぞ……、なんならこっちは二年も寝てたのだからな」
仏頂面のままそう返せば、直は満足そうににこりと笑った。
***
まだ空の暗いうちに、三人は小屋を発つ事にした。
半日ほど休んでいたが、それだけでも随分と気持ちに余裕ができたようだ。追っ手との距離については、稼いだ距離が縮まろうとも三人分の能力と足があればなんとかなる。
拙いスオミの言葉で礼を告げると、静かに小屋の扉は閉じられた。
逃げ遅れた民と聞いたのに、一緒に行っては命が危険なため連れて行くことができないのがもどかしい。
「二人、気にしてない。戦争で、こども亡くした言ってた」
「そうか……」
自分達に親切にしてくれたのは、もしかしたら戦争などなければ今共に暮らしていた我が子の事を思い出したからなのかもしれない。
そう思うとなおさら、何か力になれないものか——そう直もルードルマンも唇を噛み締める。しかし、やりたくとも今は自分達が生きて基地に帰る事の方が先決だった。
「もしかして俺に差し出したあのシャツ……」
ふと思い出したようにルードルマンがそう呟けば、スロがこくりと頷くのが見えた。
「ん、二人の息子、のシャツ。もう使わないから、って」
「それは……悪いことをしたな」
「だいじょうぶ、少尉の思いやり、伝わってる」
「……」
以前身体の強張りはあるものの、一睡して随分と体力にも気持ちにも余裕ができた。スロと会話しているだけでもそれがわかる程度には。
「スロ……は休んだのか」
「ん、まかせて。問題ない」
走れない、泳げない以外は、スロは小銃もマシンガンも担いで平然と歩き続けていた。寒さにも強い、案外心配しなくても良さそうだ。
静けさの中に、三人の草を踏みしめ分けて進むその音だけが静かに響く。
依然、直もルードルマンも裸足のままだった。
少しだけ道が登りに入り始めたのを感じ、スロに行き先を問う。どうやら丘の高い位置を歩いて行くつもりらしい。
「あの星めざす。朝、なったら太陽昇る、逆光で見つかりにくい。逆に、敵さんは、丸わかり」
「なるほど……スロ、渓谷はどこまで続いている?」
「国境ちかく、まで」
「ふむ、ならばいい考えがあるぞっ」
タタタッと素足のまま、暗闇の中を直がスロの手を取って駆け出した。
「お、おい待て貴様らっ」
「あの星の方角でいいんだなっ?」
「ん、」
体重が重いぶん、走れば自分の足の裏には石がより食い込む。「少尉どのはごゆっくり!」などと言い残して走る、直の回復しきった元気さに少しだけ閉口した。熱さえなければあの莫迦も無尽蔵なのかもしれん……。さっきの弱気は一体なんだったのか。
ため息をつくルードルマンを他所に、小さな二人は手を繋いでどこか楽しそうにすら見える。
追っ手の気配は一切ない。大方、もっと先の道を探すか、見当違いの方向へと部隊を動かしているに違いない。森が踏み荒らされた後も、武器特有の車輪の跡や匂いも見つからず、風にのって漂って来ることさえなかった。
小高い丘の上で、スロと直は倒木の上に乗ったまま夜空を眺めている。
この任務につく前に「スロに星空を見せてやってほしい」とユカライネン大佐に言われていたことを、ルードルマンはふと思い出した。
「すまんな、スロ。空から星を見るのはまた今度だ」
「ん、」
こくりと頷くスロは、普段無表情なその口元を綻ばせて、それでも十分に嬉しそうだった。
「ん? 何を言っとるんですか、星空の中を我々もゆきましょうよ!」
「は?」
お前こそ何を言っている? そう見下ろせば、夜空のような黒い瞳が自分の方を何の疑いもなく見上げていた。
「我々は現在、航空機の類を持ち合わせておりません。見たところ、国境まではあと十キロちょっとだそうです。全力疾走すれば一時間ちょいでしょうが、森林の中ですし、少尉どのの足も少々心配です」
「……俺の足は気にするな。貴様よりは走れる」
十キロか……少し希望が見えてきたなと思案していれば、直の笑い声が聞こえた。
「少尉どの、少しだけ遊覧飛行と決め込んでも構わないでしょうか?」
「……?」
見れば倒木の中からひときわ丈夫で、三人が乗れそうなものに直が足をかけ楽しそうにこちらを見ている。
「何をする気だ……」
「ちょっとスノーモービル的なやつを」
「遊びに来てるんじゃないんだぞ……」
ええ、と元気よくニカッと笑うその表情に、思わずため息が出た。
対して、直を見るスロの目がいやに輝いているのもわかる。
「大佐は、ピクニックと言っておいででしたよ? 誰も逃走中の敵兵が、こんな目立つ方法をとるとは思わんでしょう、そこを突くのです」
今度こそ、はぁーと盛大にため息をついたものの、正直なところ部下の進言に心が動いたのは否めない。しかし——。
「シュヴァルべ、建前はいい。本心は何だ?」
「おやっ? さすが少尉どのにはバレてしまいましたかな?」
いたずらっ子のように微笑む直を見て、必死に作った厳しめの表情が少し歪んだ。呆れなのか、諦めなのか……それとも別の感情なのか。
「少尉どの、スロに故郷の夜空をもっと見せてやりたいのです。力を貸してください」
「……勝手にしろ」
薄く雪の敷かれたカルヤラの渓谷を、倒木が一つ滑り落ちた。
否、滑走しているのだ。静けさの残る深夜帯、敢えて見つかりやすいその場所を勢いよく滑り落ちるなど誰が想像しただろうか。
しかし——。
「うっひょおおお! 速い! これはまた素晴らしいですなぁ」
「おおお……」
「黙って掴まってろチビどもが!」
「ぼくは、スロ」
「少尉殿、タイミング、タイミングが重要ですぞ!」
「ちっ……!」
舌打ちの音が夜空に溶けると同時に、倒木は三人を乗せたまま空中へと飛び出した。
少し反った崖から、夜空へと。
「少尉どの、今です!」
「わかってるっ」
重力の影響を失った倒木は、三人を乗せたまままるでサンタクロースを乗せたソリのように夜空へとふわりと浮かび、上昇した。
「す、なお……すごいっ」
先頭に座るスロが、初めてその白い頬を少しだけ赤く染めて、嬉しそうに振り返る。
「なっ? 空は気持ちがいいだろう?」
——大好きな夜空の星を、もっと近くで眺めてみたい。
それは、カルヤラの民として生まれ、育ったスロの小さな願いだった。
任務にかこつけて、大佐はこの景色をスロに見せたかったのだろう。
銀色の瞳の中には、どこまでも続く漆黒の深い空と輝く星がうつっていた。
年相応の嬉しそうな表情を見て、またそれを自分の事のように嬉しそうに眺める直を見て。
「大佐が一番見たかった表情だろうに……」と、ルードルマンは先刻舌打ちをした事も忘れ、少し困ったように口元を綻ばせるのだった。
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