2-24 生クル術ヲ、

 小屋の中から出てきたのは老婦人だった。

 何やらスロと小さく会話するのが聞こえるが、カルヤラの言語を知らぬルードルマンにその内容がわかるはずもない。


 背を屈めて部屋の中を窺えば、薄暗いランプに更に黒い布をかけて灯りを暗くしてある。その中に一人……今表に出てきている老婦人とは別の人影が見えた。しかし動きは遅く、こちらの様子を窺っているだけで発砲するような動作もない。

 どうやら小屋にいたのが軍人ではないことに安心しつつも、何かあればとルードルマンは周囲及び小屋の人影の一挙一動全てに神経を研ぎ澄ませていた。

 その目つきの鋭さに萎縮してしまったのは小屋の住人の方だ。


『……その男は連邦の人間なの?』

『違う。スオミの属するスカンディナヴィア諸島連合加盟国、ダイチェラント出身の将校殿です。僕の上官に当たる人物で……』


 依然カルヤラの言葉で話を続けるスロと、その後ろで言語は解せずともその怯えた視線に気づいたのか、ルードルマンがドアの向こうの人物二人へと少しばかり頭を下げようと動く。懐に抱えていた直の後頭部がするりと前に滑り外気に触れた。


『そ、それは人間っ?』

『安心して、その子は——』

「……なんて言ってるのかはわからんが、コイツは俺の大切な部下だ。せめて彼女だけでも寝かせてやってほしいと伝えてもらえるか?」


 直が息をしているのをそっと確認しつつ、彼女を抱き上げて懐から出しながらルードルマンが一旦跪く。スロは振り返ったその角度のまま、『彼女——ね』と少し困ったように優しく笑いながら首を傾げていた。


『彼女は僕の仲間です。遠い東の国の出身のため、この寒さに慣れてなくて酷い熱なんです。彼は自分よりも、彼女をどうか寝かせてくれと言ってます』

『まぁ、女の子! そんなに髪を短く切って。きっと戦禍を逃れるためだったのね、どこかのご令嬢かしら。でしたらどうぞこちらへ』


 直の顔を、布で覆ったランプで薄く照らすと老婦人が急に慌てたように小屋の中へと招き入れてくれた。


「スナオ、たいへん。わかってくれた、こっちへ、って」

「礼を言う、スロ」

「ん」


 小屋の中に入ってみて改めて自分の状態を視認する。オーバーコートごと直を包んで身体から離し、老婦人に言われるがまま薄いベッドに預ければ、シャツ一枚にズボンに裸足、上衣は脱ぎ捨て肩章もなく、まるで軍人というよりは脱走してきた捕虜のような有様だった。肩をいつの間にか銃弾が掠めていたらしく、左の肩から袖にはべったりと血がこびりついている。

 音がしないためにか、床には薄い毛皮が張り巡らされており、その一角にルードルマンは腰をおろす。どうやら敵意は無いとわかったのだろう、先ほど見えた別の人影——老婦人と同じ歳くらいの白髪の男が水をコップ一杯、恐る恐るといったていで寄こしてきた。


「キートス コヴァスティ」


 そう言いながら受け取れば、老人はその白い髭と眉の間に覗く細い目を少し驚いて見開いたようだった。


「少尉、スオミ語、わかる?」

「わからん。挨拶と謝罪と感謝の言葉だけ……何となくだ」

「じゅうぶん。この人たち、逃げおくれたカルヤラの民。連邦の人間さけて暮らしてる」

「そうか……」

「だいじょうぶ。少尉のこと、スナオの召使いさん思ってる」

「……ん? なにっ、今何と!」


 しぃーっとスロが唇に指を添えて静寂を促す。毒気の抜かれたルードルマンは「はぁ」とため息をついて肩の力を今一度抜いた。


「なぜ俺がシュヴァルべの側使い役になってる……」

「少尉、スナオ先たすけて言った。ふたりとも軍人、見えない。逃げてきたお姫……さま? ん、そう思ってる」


 ご令嬢という発言を共通語に直すのが、今のスロには少々至難の技だったらしい。盛大な勘違いで「誰が姫だ!」と即座に大声で否定したくなったルードルマンだが、言葉の通じない住人二人を怖がらせてもいけないと押し黙る。

 どうやら室内のランプを暗くしているのは、連邦軍に近づかれにくくするためでもあるらしい。こんな森の中、領土とはいえ元はスオミの民の棲まう地でもある。見た所戦車隊が通過するような平野でない場所は、そこまで開発も進んでいないようだ。

 湯を沸かす音だけが室内に響く。沈黙の中で疲労がピークになっていたルードルマンは、スロに訳してもらい床の一角で横になることにした。


「シュヴァルべを頼む、と伝えてくれ」

「ん、少尉、いったん休む」


 横になってしまえば頭を上げることすらできなかった。肩の痛みなどどうでもいいくらいには、全身が強張っているのがわかる。

 直の様子が気になりつつも、ぼろぼろの衣服も着替えさせるらしいと聞き、ならば自分にできることはないとルードルマンはそのまま床の上で意識を手放した。



***



 およそ三十分ごとに目を覚ましていたが、いつの間にか寝落ちていたらしい。どれくらい経った頃だろうか。目を覚ましたルードルマンは、落ち着いて状況を確認する。小屋の中は時計もなく秒針の音すらしない。スロの姿が見えなかったが、恐らく屋根の上で仮眠を取りつつ見張りでもしているのだろう。


(シュヴァルべは……?)


 ほぼ丸一日、懐に入れていた部下の様子を、暗闇に慣れてきた目で探る。狭い小屋の中は少ない家具と、ベッドは一つだけのようだった。そこを熱があるとはいえ、突然やってきた異国の者に貸し与えてくれた二人には改めて感謝の意を伝えねばなるまい。

 物音を立てないように近づけば、毛皮や毛布に包まれて小さな部下が穏やかな寝息を立てているところだった。また怖がらせないだろうか、恐る恐るそのひたいに触れてみればほのかな温かみを感じ、同時に安堵する。

 背後の物音に振り返れば、老婦人が何かのカップを差し出していた。「コイツにか?」身振り手振りでそう告げ、受け取ろうとすれば首を横に振られる。どうやら自分にこれを飲めと言っているらしい。

 差し出されたカップと平べったい玄米パンを受け取り、口に入れる。ほんのりと暖かいベリーのスープと、固いパンの酸味がこの上なく旨く感じた。無言で食べているのをじっと見つめられて何だか居心地が悪く感じたが、とても感謝しているという気持ちを少しの単語と身振りで伝える。


 そうこうしていると、今度は老婦人が奥の戸棚から何やら衣類のようなものを持ってきたので、丁重な仕草でそれを断った。見た所小屋の物資も少ないのに、これ以上自分が何かもらうわけにもいかない。どうやらシャツが血だらけなのを気にしてくれているらしいが、平気だと首を振ってもう一度断る。受け取ったとしても明らかに自分の体格の方が大きいに決まっているからだ。


「しょうい、どの……?」


 不意打ちで返事が遅れた。

 ハッと老婦人と目を合わせ、背後のベッドを振り返れば黒い瞳がまだ弱々しいながらも自分の方をしっかりと見つめている。


「起きたか。具合は?」

「……申し訳ありません。ご迷惑をおかけしたようです」

「構わん」

「……ここは?」

「カルヤラ地峡の一角にある小屋だ。スロが見つけた」

「よかった、スロも無事なのですね」


 一瞬安堵したようなその声が、意外にも耳に心地良い。

 しかしそのまま安心させようと体ごと振り向けば、今度は少し力のこもった声が耳に響いてきた。


「少尉どの! その肩っ……お怪我をされたのですかっ」

「掠っただけだ、問題ない」

「しかしっ。動けぬ自分を運んで、傷口が開きでもしたら……」

「チビ一人抱えたところで、何の負担にもならん」

「……っ」


 がばりと上半身を起こし、今度ははっきりと意志のこもった瞳でこちらを見つめ語気を強めて言う直を、逆に冷たく見下ろす。

 責任感の強い部下だ。熱で倒れた事も、上官に負担をかけたと悔やんでいる事だろう。それは噛み締めている唇と、その表情を見ればいかに自分が人の感情の機微に疎いとはいえ、嫌でも伝わってくる。

 毛布を握りしめた手は震えていた。少し伏せた目線が再びこちらに向かう前に、ルードルマンは釘を刺すように口を開く。


「絶対に無事でいろ、と命令したのは俺だ。お前は命令を守った、それでいい」

「しかし……」

「逆に聞こう。お前なら、ヒロシなら、この状況で意識のない部下を見捨てるか?」

「……わかりません」


 ぶすくれたような声音に対して、その小さな頭にぽんと手が乗せられた。


「時と場合による、がな。俺達は軍人だ、時には自分や兵の命よりも国と民を優先する事も必要だ。それを十二分に理解した上で……お前はそんなことはしない。バカだからな」

「は?」


 突然のバカ呼ばわりに不可解な表情を見せる直。

 戦場で生き残るには、動けぬ部下より動ける者で最善を尽くす。時には自信が犠牲となって国を守る。確かにそれも一つの手であり、任務の成功を優先する上では重要な教えであって。尚且つ、コイツはそういう軍の指導の下で育ってきた。

 自分の命よりも仲間を、国を——。

 それを踏まえた上で、ルードルマンは不破直がどういう人間か。毎日見ていれば、その状況下で何をするのかが安易に想像できたのだ。


 己が傷つくのも厭わず、仲間を鼓舞し、最後まで見捨てず諦めない。


(……そういうところは、俺はお前から学んだんだがな)


 だが体格に劣る直が、自分達と対等に走り抜くためにと無茶に出るところがあるというのは否めない。そこは自分の限度を知らぬというか、まだまだ青くて若い。敢えて褒めてはやるまいとルードルマンは口を噤む。


「夜が明ける前にここを発つぞ。見たところ熱は下がったようだが、歩けるか?」

「もちろんです」


 すぐにでも、と勇ましく返事をし、熱があった事など気取らせぬ勢いで毛布から飛び起きる直。動きの俊敏さを見れば、どうやら薬も効き十分にとは言い難いが休息は取れているようだった。


 しかし——。


 ずぶ濡れになった衣服は身体が冷えるからと、彼女は着替えさせられていたことをすっかり忘れていた。

 ぶかぶかのシャツから傷だらけの素足だけが伸びて、言うなればワンピース状になっているのに戸惑ったルードルマンは「着替えろ! 寝とけ!」と両極端な言葉を発し、とっさに掴んだ毛布を直に投げつけるのであった。

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