2–23 無明ノ光、

「では、基地に戻りましょう」


 死屍累々の中、まるで肩についた埃を払うかのように返り血と手についた煤や土を払い落としながら弘はそう淡々と告げる。


「え? いいんですか?」


 対するガードナーも、まるで準備運動が終わったかのような口ぶりで肩を回し、そのサーベルについた血を払い落とした。

 二人以外、もう誰も動き話す気配のない中で、弘が首を傾げてガードナーを振り返る。


「まずは俺達だけでも、基地に戻って報告するのが先決でしょう」

「……驚きました。貴方ならいの一番にシュヴァルべを捜索しに戻るかと」

「したいのは山々なんですけどね。俺もまぁ軍人なので」

「はぁ……」


 向かってくる部隊を殲滅させてでも、爆撃機に乗った三人を彼と共に捜索するつもりでいたガードナーは、まるで肩透かしを食らったかのような表情になっている。


「俺が、ただのお兄ちゃんなら。いつ何時なんどきでも最優先はあの子です。しかし今は任務中の襲撃と被撃墜、しかも俺達以外こちら側の人員は生存者がいません。であれば、彼らの生死よりも先に自分達が生き残り報告、場合によっては捜索隊を出すのが最善かと」

「貴方を……少々見くびっていたかもしれませんね」


 この総合的に物事と戦況を見据える判断力、なるほどユカライネン大尉が「こちら側の人間」と評していたのが今ならばわかる気がした。


「いやいや、俺なんて。ただの無力な一介の軍人です……一番救いたいものは多分俺には救えない」


 そう少し寂しそうな表情で呟いた弘の顔を不思議そうに見つめ、ガードナーはやれやれとかぶりを振った。


「何が……貴方をそうさせるのでしょう? 強くなったのも、もしかしてそのためですか?」

「まぁ……ね」


 少し歯切れ悪く、弘はそう返す。


「父が崇高な存在だとか、陸軍のトップだからとか。俺にとってはどうでもいいんですよ、ガードナーさん。貴方よりも、きっともっと俺はちっぽけでダサい理由でしか武器を手にしてないし……生きてないんです」

「……それが決まるのは、人間死ぬ時ですよきっと」

「ははっ……。なんでしょう、喋りすぎました。すみません」

「いえいえ」


 いつの間にか。普段通りの笑顔に戻り、サーベルを右の鞘に納めたガードナーは一歩前へと……爆撃機が墜ちた方角とは逆へと足を踏み出す。


「愛する家族が心配な時は、誰でもそんなもんです」

「……ですかね」


 本当は振り返って走り出したいはずだ。弘も、ガードナーも。

 だけど……。

 それをしない、それができない立場というものが今の自分にはある。何より——。


「ここで戻ったら……あの子は、私を怒鳴りつけるでしょうから」

「まぁ……言えてる、それはきっと直もです」


 信じ切って待つ。その心が出来上がっているであろうガードナーの横顔を見て——。俺はやっぱりまだまだだなぁと、弘は内心苦笑いしながらその隣に並び歩き出すのだった。




***




 朝日が昇る前に目が覚めた。

 それはいい、元よりそのつもりだったのだから。しかし想定外のタイミングで、盛大に空腹を知らせる腹の音が懐で寝かせている直の耳元でなってしまい、ルードルマンはバツの悪そうな表情になる。


「少尉だけたべてない。おなかは、しょうじき」

「コイツには黙ってろよ……」


 昨日はあれだけ物音に反応して起き上がった直が、瞼一つ動かさずに寝ている事に安堵しつつも、いつの間にか隣に現れていたスロにざっくり指摘されて眉間の皺は深くなる。


「少尉、やさしい。スナオ、あんしんしてる」

「……俺のどこを見てその発言かは甚だ疑問だがな。ひとまず咳は止まったし、ちゃんとぬくいぞ」

「だめ、スナオ女の子。少尉ちゃんと抱っこしてあげて」

「……」


 安心させようとしてコートの前を少し開けて顔を見せてやれば、何故か怒られる始末である。

 すんでのところで舌打ちを収めたルードルマンは、少しばかりの溜め息をつきながらもう一度直を抱え直す。


(……というか離さんのだが)


 一日走り通して汗と泥にまみれているし、ズボンは凍って皮膚ごと剥がれそうな状態で足に張り付いている。正直言ってしまえば、一旦懐に入っている小さな身体を離して自分の身体を拭きたいし、直の汗だって拭いてやりたいところだが。気がつけばシャツの裾をしっかりと握り締められたままだ。

 昨日は刃物まで向けておいて、まったくコイツは。そう思いながらも、ルードルマンは懐に抱えた小さな部下を起こさないようにとゆっくり立ち上がる。


「しょうい、どの」

「なんだ? 起きたか?」

「……」


 返事までしておきながら、それが寝言だったことに再び安堵した。

 急に我に帰り、前はこうじゃなかったのに……と頰を張り飛ばしたり、蹴って起こしていた頃の自分がふと脳裏によぎって、苦虫を噛み潰したような表情になる。


「だいじょうぶ。どっちもだいじ、スナオわかってる」

「どういう意味だ」

「少尉がスナオたすけたい、思ったこと」


 たどたどしすぎて要点が伝わらん、と半ば諦め気味にため息をついた。「とりあえず行くぞ」と呟けば、スロは先ほどの発言が伝わったと思ったのか、ゆっくりと頷いている。


「ん、いこ。少尉」

「俺は貴様まで抱えんからな……」

「ん、まかせて。ぼくあるく」


 日の出まではまだ早い。しかし今は一刻を争う事態だ。追手がこちらをいつ見つけるともわからないのであれば、同じ地点に長居は無用なわけで。

 コートの中に部下を一人抱えた状態のまま、ルードルマンはまだ暗い林の中を国境目指して歩く事にした。


 明け方の星を一つ目印にして歩く。湿地とはいえど素足には何度も石ころが刺さるようにぶつかり、まるで足の感覚が失われていくようだ。

 ガードナーは無事だろうか。弘についてはあまり心配をしていない自分に内心苦笑した。能力的に奴は例え囲まれたとしても銃弾の類はあまり効かないだろうが、ガードナーは飛び道具を持たない。それだけが少し心配なのは本心だ。


「戦場で生き残りたいのなら誰よりも強くなりなさい。だけど誰よりも人間らしくいなさい」とはガードナーの談だ。それにしては、自分のシゴかれ方については今思い出しても目を瞑りたくなるようなものだったとも記憶しているが……。


「戦争が終わった時に、人間として生きられる人でありなさい」


 その意味が、今こうして二人の小さな部下を家族の元へ帰さなければという使命感の元で痛いほど実感できるようだ。


 自由のない空の下は余計に寒く、虚しい。

 しかし地に墜ちてこそ、やはり空は人間だけのものでないという事を改めて思い知らされる。あの尊ぶべき場所は、本来砲弾や汚染物質が飛び交う場所ではないのだ。


 遠くで犬の鳴き声が聞こえたような気がした。

 連邦の軍用犬だろうか。神経を張り詰めて歩けば、足裏から伝わる振動にすら過敏になる。泥の揺らぎか、それとも歩兵部隊の足音なのか。


「少尉、だいじょぶ?」

「安心しろ、シュヴァルべなら」

「ちがう、少尉は、だいじょうぶ?」


 問いかけるスロの銀色の瞳が少し不安そうに揺れていて、思わずその頭を撫でた。


「被撃墜には慣れている、俺が墜ちた時点で拳銃の引き金を引かなかったということはそういう事だ」

「……?」


 きょとん、と首を傾げるその姿に不覚にも少しだけ口元が緩んだ。


「いや、いい。貴様らは俺が必ず基地に連れて帰るという事だ」


「ん、」と短い返事を返し、スロが再び前を向く。

 泳げない発言といい、足の遅さといい、不安要素は大いにあったが。


「大佐が貴様を重宝する理由もわかる気がするな……」

「ぼくは、スロ」


 ……その意志の強さはどうやら自身の呼称についても同じらしい。返事の代わりに、ルードルマンは苦笑気味に小さなため息をついた。


 朝日が昇り始め、やがて自分たちを隠す木々の少ない平地の広がる地帯へと達した。基地へはあとどれくらいかかるかまるで検討もつかないが、明るく見晴らしのいい地上を無防備に歩くのだけは避けたい。


「スロ、湖沿いに進んで国境を目指すことは可能か?」


 ヴィープリへの最短ルートを突っ切る事を諦め、ラドガの湖の林沿いに国境を目指す事を選択する。スロはしっかりとそれに頷いた。


「カルヤラ、ぼくのふるさと。山はぼくらをまもる」


 こっち、と少し進路を変えたスロにそのまま従い続く。

 湖沿いはさらに小さな川や沼地が点在し、足元も悪く寒くなる。

 しかし今は何よりも命を最優先すべきとの判断だ。


「少尉、すこし、休む」

「いや、何を……」


 休息は必要だし休ませてやりたいのは山々だが、さすがに真っ昼間の沼地で寝るのは無防備が過ぎる。 

 困ったように視線を下へと向ければ、スロがしっかりとした眼差しで自分を見つめていた。


「小屋、ある。ぼく、話してくる」


 見れば林の奥に古ぼけた屋根のようなものが見えた。

 人はいるのか、もしいないのなら幸いだ。風を凌げるだけでも随分と違う。


Hyvää päivääこんにちは


 ……まさかスロが馬鹿正直に正面からドアをノックするとは思ってもいなかったルードルマンは、危うく懐の直を落とすところだった。

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