2−22 ノガレヨウトスレバホド、

 冷えきった身体を引き摺るようにして、直とルードルマンはカルヤラの地を国境方面に向け依然歩き続けていた。車両が通れそうな道は避け、追手に見つからぬようわざと足跡の残りにくい生い茂った草地や、木々の深い道を選びながら進む。

 不安視していたスロの足並みについては、彼は元々この地で猟を営んでいた民であり歩き続ける事に対してはむしろ二人よりも長けていた。


 だとすれば……ルードルマンは短く息を吐く。

 今一番問題なのは奪われていく体温と体力だ。上衣を脱ぎ捨てて上はカッターシャツ一枚になっていたものの、スロを包んでいたコートは濡れていない。何度か「これを着ろ」と直へ差し出したが「少尉どのが着てください。貴方の方が薄着です」と頑として受け取ろうとしなかった。


「先刻は奪う勢いで着たがっていただろう、俺が構わんと言っているん」

「嫌です」

「……」


 意固地になっていては死ぬぞ、とは喉まで出かけたが言わない。既に消耗した体力と冷え切った身体は思考までもガチガチに固め始めており、無意識のうちに苛立っている。

 自分よりも小さな身体が、いつも傍らにいる時のように喋りもしないのが何よりの証拠だ。


 裸足の足には歩くたび小石が食い込む。

 何度かスロが自身のブーツを直に履かせようとしたが、彼女はそれも頑なに断り続けた。


 このままでは双方凍えて動けなくなるか……、そう判断し舌打ちをしつつもルードルマンはコートを羽織る。濡れた衣服は日が落ちると共に少しずつ凍り始めてきていた。


 ハートマンの話術を少しでも聞いていればよかったか? いや、この際バルクホーン中尉でもガードナーでも良い。……弘は、参考にならんか。

 前だけ見て進み続ける直を気にかけてはいるものの、自分の少ない引き出しではどうしたら良いのかまるで検討もつかない。

 会話ならいつもしていると思っていたが、コイツが俺にずっと語りかけ話を合わせていたからか——。


 先頭を進むスロが時折不安そうに、ちらちらとその顔色を窺っているのもわかるが、やはり直は「大丈夫だ」と答えるだけだ。


 しかもこの状況で空腹まで重なってくると一層危険度が増す。作戦や報告を終えてそのまま向かったため、確実に自分とガードナーは食事を摂らないまま出てきていた。


(ん? そういえば……)


 ふと思い出したように、ルードルマンはその手をオーバーコートのポケットへと入れる。取り出したのは小さなチョコレートが二つ。


 出立前、ハートマンが「んじゃあコレ、小鳥ちゃんと食べてくださいよっ」とポケットに捻じ込んできたのを思い出した。たまには奴のお節介も役に立つもんだ、と一人その手元を見つめてふうと息を吐き出した。


「シュヴァルべ」


 呼べば、振り返ったその真っ黒な瞳が、そこだけまだ諦めずに爛々とした火を灯すように輝いている。しかしどうやら返事をする気力はほとんど残ってないらしい。仕方ないか、とルードルマンは少し屈むとその頰を片手でややぞんざいに掴んだ。


「むぅっ……??」


 少し開いた唇をこじ開けるようにして、取り出したチョコレートを押し込むと、眉をひそめ怪訝そうな表情を返される。


「食っとけ。ハートマンからだ」


 直がそれを全て口の中に入れたのを見届けて、もう一つのチョコレートをスロに渡す。「でも……」と、彼が余計な事を口走りそうなのを察したルードルマンは、同じように包みから取り出してスロの口にもチョコレートを捻じ込んだ。


「感謝します」


 糖分が、ほんの少しだけその身体に温かみを取り戻す。礼を言うくらいの脳の回転は戻ってきたようだなと、自分の口元が緩んだのを感じた。

 気休めかもしれないが、今すぐどうこうなる可能性は減ったはずだ。その頰に張り付いた血の跡を袖口で拭ってやれば、先ほど触れた時も感じたが随分と直の身体が冷えている事に気づく。

 自分の空腹なんぞ捨て置け、そんなもんは犬にでも食わせておけ。今は自分が上官だ、誰一人部下は死なせん。そうルードルマンは一人自分を鼓舞し、直の身体を抱え上げた。


「なんですか。少尉どの、自分はまだ歩け」

「歩けとらんぞ、チビ」

「……スロだって同じ歩幅のはずです」

「スナオ、足いたい。少尉わかってる」


 スロにまでそう言い含められ、直はそのまま大人しく荷物のように担がれる事となったのだった。


 何度か敵の歩兵に遭遇しそうな場面はあったものの、スロの狙撃のおかげで難なく進み続けることができた三人は、すっかり陽の落ちた夜の闇の中、崖下に身を潜め火を起こして休む事にした。

 

 スロの薬莢を利用して火を起こす。

 少しでも服が乾けば、とその近くに直を寝かせる事にした。


「ぼく、木の上いる。見張り」

「任せて良いか?」

「ん、これはぼくのとくい、やくめ」


 小さく舞った雪と共に、トトトッと歩くスロの姿が不意に消えた。どこかで見張りをし、何かあれば伝えてくれるだろう。

 休養は必要だが、自分が眠りきってしまうわけにもいかない。直が寝静まったのを見て、その身体にコートをかけてやる。パチパチと爆ぜる小さな炎を見つめながら、その場に胡座をかいたルードルマンは疲労と寒さに自身もウトウトし始めたのを感じ、すぐ起きられる体勢で仮眠をとる事にした。




***




 ゴホゴホと咳込む声に、ハッとして目を覚ます。

 声の主はわかりきっていた。言わんこっちゃない……そう思い「おい、大丈夫か?」そう声をかけても返答はないままだ。

 まったく、と具合を窺おうとしてルードルマンは異変に気づいた。


「っ……!? おいっ! シュヴァルべ!!」


 見れば、咳込んだままガタガタと震えている直に異変を感じ「大丈夫かっ」と咄嗟に声を荒げて手を伸ばす。

 瞬間、ピッと指先に鈍い痛みを感じた。


(しまった……っ)


 瞬時に状況を理解したルードルマンは、一度深呼吸をし落ち着いてしっかりと前を見据える。


「……おい、目が据わっとるぞ」


 はぁはぁと荒い息を吐き、怯えたように咄嗟に身を翻した直がその手に握りしめていたのは、いつも彼女が肌身離さず持っているあの小刀——。


 まるで怯えた猫みたいだな……そう感じつつゆっくりと声をかければ、すうっと、その瞳の焦点が合ってくる。

 そのまま、直の視線はルードルマンの手から流れ落ちる血に固定され、みるみる正気を取り戻して狼狽するのが見てとれた。


「す、すみません。少尉ど、の……」

「謝るな、これは完全に俺のミスだ」


 ようやく目が合ったか、そう思い安心したのも束の間。緊張の糸が解けたのか直は地面に両手を着いて咳込み出す。

 慌てて近づき背中をさすってやれば、夕刻に抱えていた時よりも更にその身体が冷えている事に気付いた。


 日ノ元がここより暖かい国だという事も、こいつの事情も……キチンと把握し判断しきれなかった俺の責任だ。ルードルマンは歯噛みする。


「少尉、スナオ苦しそう。冷えてる」


 いつの間にか傍に舞い戻ってきたスロが、少し距離を置いて心配した様子でそう語りかけてくる。

 何故そんなに心配しているのに、近くに行ってやらない?


 ああ、そうか……。


「ったく、お前らは本当に難儀な奴らだな」


 苦笑し、「安心しろ」と告げてルードルマンはスロの頭を撫でる。

 氷のように冷たい彼の体温では、近づいただけで今の直にとっては毒だ。そうわかっているからこそ、彼は心配で堪らないのに泣きそうな表情でそこにいる。


「スロ、見張りを頼めるか? コイツは俺がなんとかするから」

「ほんとう……?」


 その言葉は疑いの気持ちではなく、彼女の回復を願って出ているもの。そう理解しているからこそ、ルードルマンはゆっくりと言い聞かせるように頷き微笑み返す。


「ん、おねがい少尉」


 スロは意志の強い瞳でしっかりと頷くと、夜風の中、大地の女神に祖国の言葉で歌うように祈りながら、再び雪に紛れてその姿を消した。



 で……と困ったようにルードルマンは、背中をさする体勢のままだった直へと視線を戻した。


「……今だけは、俺を兄だと思っとけ」


 ふわりと、その小さな身体がコートと人の体温に包まれる。

 幼い頃、寝ることすらままならなかったという彼女に、いつからか兄である弘が寄り添い、抱っこして寝ていたという話を聞いた。

 きっと、先刻はこちらの動揺のまま叫び触れようとして、怖がらせてしまったのだろう。心身ともに弱っている今ならなおの事だ。


 幸い、防寒用のコートは長さも身幅もある。袖を通してその身体を抱き寄せると、コートの前身頃を重ねて懐に包み込むような体勢をとる。


「しょうい、どの……」

「もう喋るな、寝とけ。肺炎にでもなったらコトだ。……俺がヒロシに殺される」

「ふへへ。……あった、かいです」


 人の体温に安心したのか、ゆっくりとその目が閉じられていく。


「ったく、ガキの子守か」


 誰に告げるでもなく、寝静まったその空気の中でルードルマンは一人毒づいた。誰も居ないことがなんだか余計にいたたまれない。安心させるように微笑んではみたものの、慣れない表情すぎて正直唇の端が痙攣しそうだった。

 しかしこれより良い判断が思いつかなかったのだからきっと正しいはずだ、そう一人言い聞かせる。


「ひろにい」


 消え入るような声にどきりとして見れば、ただの寝言だった。

 はぁーと、白い息が冷えた空気の中を一筋漂う。


「……大丈夫だ、必ず会える」


 コートの中で丸まったその背中をさすってやれば、少し微笑んでそのシャツの裾をキュッと掴んだまま、今度こそ直は規則正しい寝息を立て出したのだった——。

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