2−20 氷ッタヨウナ空、

「降下する際に、連邦の兵がこちらの不時着地点を確認していたのが見えた。すぐに追手がかかるだろう……、ひとまず国境の方へひたすら足で向かうしかないな」


 砲弾の雨に晒されたものの、機体以外は全員ほぼ無傷の状態で地上に降りた三人。辺り一面に広がる湿地とコンパスを交互に眺め、そう呟くルードルマンの言葉に直とスロはしっかりと頷いて返す。

 恐らく、追ってくる連邦の兵達との距離は数キロと離れてないだろう。既にうんともすんともいわなくなった機体は諦め、一刻も早く彼らとの遭遇を避けて進むしかない。

 幸いな事にラドガの湖の周辺は木々も多く、すぐに見つかるほど見通しの良い場所ではなかった。反面、自然ながらの平坦ではない道は敵部隊や車両だけでなく、自身の足にもダイレクトに負荷が掛かってくるのだが。


 遠くに、地響きのような音を感じて、恐らく輸送機の方も不時着したか撃墜されたのだろう。その方角を見やり、直は唇を噛んだ。

 兄に関しては一切の不安も感じてはいないが、問題はガードナー含めた他の兵達の安否だ。


「そんな顔をするな、行くぞ」

「……なんていうか、少尉どの、被撃墜慣れっこなのでは?」

「喧しいわ」


 ぽんと頭に励ますように頭に乗せられた掌は、瞬時にして拳へと変化したのだった。



 人の息や足音はまだ近辺には聞こえないものの、遠くの喧騒と反してその鳥の声さえ聞こえないほどにひっそりと息を潜めた自然に、明確な殺意が迫ってきているのを感じる。


「だいじょうぶ、こっち」


 スロが相変わらずの無表情で先の道を示す。初めての空中戦闘といい結果的に撃墜されてしまった今といい、彼が全く動じていないその様子にルードルマンは内心息を呑む。

 普段は小さくてぼうっとしているように見える彼だが、この強心臓っぷりが恐らく大佐や直と相性がいい一因でもあるのだろう。


 元はこの地に住まう民であったというスロ。

 黙々と進む彼の小さな背中に頼もしさを感じ、こんな状況と理解しつつも自然と直も頰が緩んだ。


「アザラシ、今度ね」

「そうだな。それにこんな素晴らしい地、一刻も早く取り戻さんとな」


 力強く答えた友の声に「ん」と一言、今度は嬉しそうに少しその表情を崩しながら、スロは彼にしてはとても急ぎ足で再び歩を進めていくのであった。




***




 静寂は、そう長くは続かなかった——。


 先行して木の上に登ったスロが、林の中に迫る足音とそのスコープの反射に向かって引き金を引き続ける。

 直とルードルマンがその下を走り抜け、タイミングを見て木の枝から落下してくるスロを受け止めると再びルードルマンは走り出す。


「あの木」

「……ッ!!!」


 スロが腕の中で指した次のポイントに、重力を操作しつつ思い切りその身体を放り投げる。木の上に着地したスロは再び背後の的に向けて着実にその銃弾を浴びせていった。

 二人が走り抜けるタイミングで、再びスロの身体をキャッチする。


(狙撃手としては他の追随を許さないほど最高峰だが! 如何せん、足が遅いぞコイツ……!!)


 口には出さないものの、走るだけで二重の負荷を強いられているルードルマンは盛大に舌打ちをしたい気持ちになった。


「少尉どのっ、キャッチは自分が!」

「バカたれ! この状況で貴様が受け止めたところで、足並みが遅くなるだけだ! 黙って走れ!!!」


 ひとまず、スロの狙撃のおかげで自身が銃弾の餌食になる事はないが、敵は体温センサーを装備しているらしく、着実にこちらへと大挙して迫ってきているのを肌で感じる。

 一発だけ、最初に掠めた銃弾で、直の裂けた頰から流れ出る血がマフラーを赤く染め始めていた。

 向かってくる兵を重力で薙げば、後方の部隊に自身の居場所を曝け出してしまう事になり兼ねないし、直の稲妻に至っては闇雲に落とせば山火事を誘発しそれこそ自身が煙に巻かれてしまう。

 走って距離を稼ぐしかない。ルードルマンの脳裏には不時着前に見た川の光景が浮かび上がる。こちらと比べ重装備の兵を、あの川を渡って分断できれば。距離にして4−5kmのはずだ——。


 林の中を走り、少し距離を稼いだところで崖の上に辿り着いた。


「滑り降りろ! 目だけ突かんよう十分に注意しろ!」


 叫ぶなり、ルードルマンはスロを自身の脱いだオーバーコートに急いでくるむとその40メートルはあろうかという崖を一目散に滑り降りていく。直もすぐさま顔面を肘で保護しそれに続いた。


 落ちるスピードを緩め、途中移れそうな木の枝と、棘のある蔓の間を滑り降りていく。

 所々、木や棘で切り服で保護されてない部分の皮膚からは血が滲んだ。


 頭上では、滑降を試みようとする連邦の兵と迂回の指示が怒号のように響いてくる。盲撃ちのように何発もの銃声が木々の中に響いて、二人は前に向かって走り続けた。


「今のうちに川を渡るしかあるまい、靴は捨て置け」


 端的に指示を出し、スロを包んだコートから解いて地面に降ろす。


「アホかっ! そこまで脱がんでいい!」

「だって! 水ん中進むなら服は水を吸います!」

「水温が今何度だと思ってる! 死ぬぞ!」

「どちらにしろ、捕まれば死にますっ!」


 靴を脱いでいれば、ベルトを外した直が服を全て取っ払おうとしていて大慌てでそれを止めた。出す予定のなかった自分の怒鳴り声に思わず歯噛みする。

 鉄の混じった足音と、抱えた武器の音がはっきりとこちらへ差し迫って来ているのがわかった。「とにかく!」叫ぶなり、襟元からタイを外し上衣を脱いだルードルマンが先に川へその素足を入れた。


 九月も下旬、まだ氷は浮いてないもののカルヤラの気候は冷え込み、水温も恐らく一桁台だ。しかしここを渡らなければスオミへはきっと生きては帰れない。


「五百メートルはあるぞ、行けるか?」

「台風の中、三百メートルはある川を対岸まで泳ぎ切れた程度には!」

「……十分だ!!」


 飛び込まずに足先からそっと水にその身体を沈めていく。九月とはいえその水は冷たく、身体の芯に一瞬刺さるような震えが響いた。

 長い事この水の中には浸かっていられないだろう、早々に察した直とルードルマンは水の中へとずんずん進んでいこうとした。


「スロ! どうした、いくぞ」

「スロっ……!?」


 まだコートを脱いでもいなければ、後に続こうともしていないスロを二人は慌てて振り返り呼ぶ。


「ぼくおよげない」


 ……。


「はぁああああああああっっ!!?」


 今度は二人して腹の底から声が飛び出た。

 その声と表情にスロは若干狼狽し、申し訳なさそうに岸でモジモジしているだけだ。


(いや、訓練過程に水泳は必須では?)

(行軍行程の中に水中歩行は試験科目としてなかったか!?)

(いや、待て。確かコイツは大佐が直轄してその技能を優先した配属をされていたはず……)


「あんの過保護上司がァアア!!!」


 誰に向けるでもなく、コンマ数秒の間にそこまで考えが行き着いたルードルマンは青筋を浮かべて叫ぶ。


「スロっ! 私がおぶってくから!」


 スッとその背を貸し、ほぼ無理矢理といったていでスロを背負った直は我先にとぐんぐんと水中に沈み始める。既にその顎先まで水に浸かった直を見て、ルードルマンはため息をついた。


「アホか貴様はっ! もういい!!!」

「わっ」「おわっ」


 一息にそう叫ぶと、ルードルマンは水から一度掴み上げた直を小脇に、スロを岸に放ったコートでもう一度軽く包むとその肩に背負った。


「薬莢や銃をこの水温で濡らしたら使いもんにならんだろうが! いいかスロ、俺が進む、背後の銃弾は全て撃ち落とせ。必ずだ」

「ん」

「というか少尉殿、あなたの能力でこの水をモーセのように割ることはっ!?」


 小脇に抱えたせいで若干水を口に含んでしまった直を、少し持ち上げつつ呆れた表情で見返す。


「できん事はないが、それをすればいい的だ。しかも相手に道を作る事になる……。何より、川の水を潰して割るほど重力をかければ、俺はともかくお前らが潰れるぞ」

「……失礼しました」

「稲妻もだ、まず俺達が感電死する」


「ごもっともで」その腕の下で悔しそうな表情のまま直は唸った。


 響く怒号と足音、銃声を背に一気に川の中を進んでいく。

 せめて自分は泳ぎます! と抵抗すれば、絶対に離れるなと一喝されその手が緩む。


『墜ちた輸送機は既にこちらの手の内だ! 降伏すれば彼らの命は保証する』

「なんだとっ!?」

「知るかっ!!」


 どこからともなく響き渡った機械の音声に、直が反応すればルードルマンはそう毒づく。


『"鷹"だ! 生死は問わん、やれ』

「少尉どの! しかしっ」


 浴びせられる銃弾を水に潜って回避しながら、息継ぎのタイミングで直は隣を進むルードルマンを見上げる。

 銃弾をその銃弾で相殺し、敵兵に向かってなお正確な射撃を繰り出すスロ。数の多い銃弾は届く前に全てルードルマンが叩き落としていく。


「この程度の奴らの話を鵜呑みにするな! ヒロシなら大丈夫だ!」

「でっ、でも。兄上はともかく、ガードナー軍曹がっ!」

「奴ならもっとだ!」


 川の中央に差し掛かり、足が届かなくなると直は諦めてひたすら泳ぐ事に神経を集中させた。泳ぐというよりかは、水を掻いてひたすら前へ、という感覚の方が正しいかもしれない。何か考えなければ意識が底へと沈みそうだが、それでも一目散に泳ぎ切らねばこの水温は確実に命取りだ。


 ようやく川を渡りきり、冷え切った身体と痺れ震える手を地面に投げ出す。

 音が戻ってくる——銃声はもう聞こえず、どうやら敵兵は川を迂回する事を選んだようだ。ボートの装備が無くて良かった、そう思うと同時に、再び持ち上げていた顎を地面につける。

 頰の傷口がまるで凍ったかのようにジンジンと痛み響いた。


「よく頑張った」


 囁くルードルマンも横に突っ伏したまま、しばらくは動けそうにないらしい。

 

「安心しろシュヴァルべ……。ガードナーは俺より……下手したらヒロシより強いぞ」

「へ……? いやもう今なんも頭に入ってこないです……」

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