【番外編】雪の弾丸は撃ち砕けない [後編]


 心臓の鼓動が停止した——。


 否、停止したのは彼の心。

 脈打つのをやめたのはそれまでの日々と人生。

 

 その小さな身体に新たな鼓動をもたらしたのはたった一つの、絶望。


 身体の熱が消え、急速に冷えていくのがわかる。

 動かなくなった母を包むように、家の中にはふわりふわりと大量の雪が舞い落ちた。真っ赤な血を覆うように積もり始めたその雪の中を、スロは這うように進む。


(ゆるさない——)


 外に響く銃撃戦の音も、叫び声も、この絶対零度の下では霞んだようにしか聞こえない。歯を食いしばり進んだその先で、母の手の近くに小銃がひとつ落ちているのが見えた。

 それは、スロの父がケワタガモ猟を教えてくれた時に使っていたモシン・ナガンM28。普段銃を持ちすらしない母が……。そこまで考えて、スロはその負い紐スリングを咥え、ずるずるとその家屋の外へと進んでいく。


 何かに執着するタイプではないと思っていた。夢だってこっそり心の底に留めて、為すべきことを与えられた日常を最低限にこなして。そうしてのんびり暮らしていけばいいと思っていた。

 こんなにドス黒い感情が、まさか自分の中に渦巻くだなんて。

 吐く息はまるで雪のように冷たく、白く空気が染まることもない。自分という人間が、どうやら別のものに作り変えられていくような感覚がした。

 それならばせめて、母に、父に、愛しているともっと伝えればよかった。


(どうして僕はいつもこうドンくさいんだろう)

(でもそれならば、誰ももう僕を見ないで、僕を認識しないで——)


 血の跡を残しながら、感覚のほとんどない身体を引きずり屋根に登る。横目に映った眼下の村には、今朝まで当たり前のように言葉を交わしていた見知った人達が息のない骸となって重なり倒れていた。

 冷えた身体から流れ続ける血は道となるようにその雪の上に紅を残す。

 こぷっと血を吐きながらも、スロは屋根の死角になるよう腹ばいになり、その銃口を彼方へと向ける。村へ向けた銃弾、銃声の聴こえたその先にチカリと光るスコープの光を見た。


 パァーンッッ!!


 ボルト操作を入れ、今度は人間の吐く白い息が上がる先に照準を向ける。もう一度その引き金を引いた。


 ダァァアーンッ!!!


(この村には、そこから一歩も近づかせない……)


 消し飛びそうな意識の中で、彼はひたすらに引き金を引いた。向かってくる連邦の兵に、その眉間に、なんの感情もなく一切の躊躇もなく。

 不思議と、人を殺したという事になんの憂いも湧いてはこなかった。

 その小さな身体は、空っぽの心をうつしたような目で引き金を引き続ける。その銃弾の軌道に、敵からの反撃の銃口が向き、やがて銃撃が襲いかかってきた。しかし最早それすらも、スロにとってはどうでもよかった。


 ただ、雪がしんしんと舞い落ちる——。


 放たれた銃弾は、不思議と一つも当たらなかった。ぐにゃりと景色が歪むように、スロの周りを雪が覆い水面みなものような波紋を生む。まるでそれは蜃気楼のようにスロの真っ白な姿を隠す。

 どれだけの時間、そうしていただろう。既にクリップ補給の弾も潰えた、もう頭をもたげる力も残っていない。かはっと喉が掠れた音を出し、スロは薄れゆく意識の中で気づく。……もう、吐く血すら残っていないのだと。

 あんなに飛び交っていた銃声は聞こえない。代わりに、遠くからギュリギュリと軋み回転するキャタピラの音が聞こえた気がした。


 (おかあさん、おとうさん。僕もすぐいきます……)


 スロは目を閉じ、ゆっくりとその雪の中に倒れこんだ。




***



 目を開けると、白い天井と点滴のチューブが見えた。


「あれ……僕」

「おう、起きたか小僧」


 僕死んだんじゃ……と言おうとして、頭にキンキン響くような声量のバリトンボイスにそれを阻まれた。

 ゆっくりと声の方へ頭を傾けると、ロッキングチェアに腰掛けた一人の男と目が合った。誰? と問おうとして、喉がいうことを聞かずにけほけほと咳き込む。


「おいおい、無理に喋らんでいい」


 男が立ち上がり、落ち着かせるかのように胸のあたりをぽんぽんと軽く叩く。

「起き上がれそうか?」という声にコクンと頷くと、その背中がゆっくりと持ち上げられた。そのまま差し出された水差しに口を開けて水を飲ませてもらう。男がベッドを背もたれの高さに上げてくれたらしく、上体をそこに預けるようにしてゆっくりと身体が降ろされる。


「運のいい奴だ、ヘグルントが同じ血液型じゃなかったら死んでたぞ」

「べ、つに…」


 死んでよかったのに、そう掠れた声で途切れ途切れに零せば、大きな手がその頭の上にぽすんと乗せられた。


「でも生きた。逢うことがもしあれば、アイツに礼を言ってやれ。それだけでも奴は救われるはずだ」


 言われてゆっくりと思い出した。小さい頃に遊んでくれたヘグルントのお兄さん、彼があの時殴られながら聞こえてきた兵隊の声の主だったのだ。

 でも——。


「僕は」


 記憶が一気に蘇ってきて、あとの言葉が続かない。

 父も母も失った。家も村も、どうなってしまったのかわからない。

 何をしていいのかも、どうやっていけばいいのかも、全てが抜け落ちたようにその次の未来が一切何も浮かんでこないのだ。


「カルヤラ地峡は、連邦に明け渡された。国境線をヴィープリまで引き下げることで一旦の停戦だそうだ」

「……」


 言葉に詰まったままのスロの心に、男の言葉がじわじわと心臓を木の杭で刺すかのように容赦なくめり込んでくる。

 何も、何一つも。抵抗したとて守れなかったのだ。

 男はスロの顔を覗き込むと、ゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。


「お前は一時停戦の功労者だぞ、スロ・ハユハ」

「どう……して、僕の、名前……」

「お前さんが撃ち殺した兵の数が多すぎてな、俺の戦車隊が到着した頃には既に歩兵連隊が撤退を始めていた。連邦の中では『雪の村に死神がいた』と、ちょっとした騒ぎになっとるらしい。恐れをなした連邦が、進軍して来たクセに停戦を偉そうに申し込んで来やがった有様だ」

「死に、がみ……だなんて」


 その言葉に俯く。もし、もしもあの時、僕が撃たれなかったら。

 父は撃たれずに済んだのだろうか、母は僕を守ろうと銃をとったりしなかっただろうか。まさに死を呼び込む死神じゃないか、そうスロは表情を暗くする。

 頭に乗ったままのその大きな手が、優しく自分を撫でたのがわかりスロは男を見上げた。


「お前はエドヴァルドの息子だろう? よく似ている」

「えっ……」


 父親に似ているなんて、言われたことがなかった。小さいスロは決して男の子らしい顔つきではなく、大きな目はまるで女のようだとからかわれる事も多かった。精悍で、まるで狼のような気高ささえ感じられる父よりも、どちらかといえば母親似だと言われてきたのに……。


「お前の親父さんはな、昔兵役中に俺と同じ部隊だった。よく叱られたもんだ、銃を乱暴に扱うなと。本当に生真面目で、少しお節介でやかましいくらいの男だった」


 さて、と男は呟くと、先ほどまで座っていたロッキングチェアのそばから小さな包みを取り出した。


「だがな、同時に子煩悩な良い父親でもあったぞ。少なくとも俺の目にはそう映ったがな」


 差し出された包みを受け取る。「開けていいぞ、」そう言われたスロは戸惑いながらも、その緑色のクラフト紙でできた包みをゆっくりと開封した。


「これ……は、」


 それは一冊の本と、添えられた封筒がひとつ。


「わざわざ街の書店を何店も巡った挙句、無いからと取り寄せまでさせられたぞ。よっぽどそれをお前さんに送りたかったんだろうな」

「どう……して?」


 それは、天体観測の図鑑だった。驚いて目を見開いたままのスロは、そのまま急いで添えられた封筒を手に取る。そこに並んでいたのは、確かに父の筆跡で書かれた言葉。



"愛するスロへ


お誕生日おめでとう。父さんと母さんの元にキミが来てくれてから、もう十二年。年々、少しずつだけど大きくなるキミの成長が僕たちにとって何よりの喜びです。

気づかれていないつもりだろうけど、スロが星座や夜空を眺めるのが大好きな事はもうバレているよ。

村の暮らしも、猟も、銃の腕も、それも素晴らしい事だけど。

父さんと母さんはスロに好きなことをして生きてほしいと思ってる。


いつでも、どんな時でも。父さんと母さんはスロの味方だ。

たまにはもう少し、自由にわがままを言っていいんだよ。

今度は一緒に星を見よう。父さんに星座の名前を教えてくれ。


愛してるよ"



「うっ、うっ……うえっ……っ」


 手紙の最後の方の文字は滲んで見えなくなった。十二月、もうまもなくだった自分の誕生日、父はこれをスロにと用意してくれていたのだ。

 スロはその大きな目にいっぱい涙をためて、息を詰まらせたように小さく声を洩らす。

 ふと、その小さな身体がそっと抱きしめられた。


「子供はもっと自由に、感情をさらけ出していいもんだ。我慢せんでいい、泣きたいだけ泣いて、叫んでおけ。大丈夫だ、誰もおらん」


 その言葉に、心の中で押し留めていた何かが外れた。


「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! うっ、うわぁぁぁぁああぁぁっ!!!」


 小さい頃から、転んでもからかわれても、ほとんど泣かずにぼーっとすることでやり過ごしてきたスロは。

 この日涙が枯れるまで、一生分を出し尽くすように泣き叫んだ。





「さてスロ、お前俺の部隊に入らんか?」

「えっ?」

「なに、やりたくないことはせんでいい。訓練も近接戦闘も、そんなもんは俺一人で事足りる。共通語も無理して覚えんでいい、飯も住処も、俺が面倒を見よう」

「……」

「お前のその狙撃の腕と、力は俺に必要だ。女神の片腕を、永久凍土に眠るお前の父親の亡骸を、取り戻すのに力を貸しちゃくれんか?」


 ようやく泣き止んだスロが落ち着きを取り戻し、意識が戻ったのを通りがかった医師が確認して「何故すぐに呼ばなかったんですかっ」と、少しの間医師や看護師の出入りで部屋がバタバタした後。薄暗くなる病室のランプをつけながら男はそう言った。


「でも……僕」


 スロは思い出す。家に来たあの軍人達の事を。

 あれが軍なのであれば、自分は同じような選択をしなければならないのか。

 それでは何のために銃をとったのかがわからなくなってしまう……。


 そこまで考えを巡らせ、あの時何を言われたか思い出したスロは、ハッとして男を見上げる。


「おじさんは、僕が怖くないの?」

「あ? あぁ、ウイルスか? 知らんそんなもん、かかったところで捻じ伏せてやるわ」


 それにもう見たところヤマは超えとるようだしな、あっけらかんと言い放つ男にスロはポカンとした表情になる。


「大丈夫だ、お前は規律など気にせんでいい。それに——」


 膝に置かれたスロの手を上から覆うように、その男は握った。

 それはまるで、最後に父がしてくれたかのような——。


「俺は撤退なんぞ命じんぞ、ンなもんクソ喰らえだ。見ておけ、数年内にこの地域の軍は俺が必ず仕切る」


 全てをねじ伏せるかのように嗤い、男 アルベルト・ルネ・ユカライネンは言った。


「スオミは持ちこたえる。俺と……俺の部隊がいる限りな」


 その言葉に応えるかのように、スロはその小さな拳をぎゅっと握った。




***




「……どうしたスロ? 何か気になるものでもあったか?」


 展望所の階段を降りながら窓の外を眺めていると、不意に声をかけられた。スロはゆっくりと声の主の方を振り返る。


「ハピ、あの小さい子は女の子だよね? 何故あんな格好で男の訓練に?」

「ほぉ? お前も気になるのか?」

「……気になるっていうか、何故あんなに頑張ってるの。明らかに不利じゃない。しかもあの服、飛行部隊?」

「そうだぞ、奴はパイロットだからな」

「じゃあ尚更、あれって無意味じゃないの?」


 下士官以下が参加するという陸海空の合同訓練。スロは狙撃手という適正上、今回の訓練には不参加だ。自身もわざわざあんなキツいシゴキのような訓練に参加する必要は無いと考えている。


「だが、凄いだろ。不利だが喰らいついているあのさまは」


 眼下ではその身の軽さ故か、蹴り脚を取られて真横に投げられている先程の女性隊員が見えた。


(ほらやっぱり。敵わないものは敵わないのに——)


 あーあ、と思えば彼女は投げられたその先でくるりと回り受け身を取った。そのまま再び走り込んで果敢に殴りかかっていく。

 なんで、なんであんなに、小さい身体で頑張るんだろう……。


「お前と一緒だ、スロ。奴にも譲れんもんがあるんだ」

「ふぅーん……」


 まるでその気持ちを読んだかのように、ユカライネン大佐が声をかけてくる。しかし、くるくると回転し蹴りや打撃を放つ彼女に釘付けになっていたスロは、自分が空返事になっている事に気づいていない。

 その様子に大佐はニヤリと笑う。


「……話してみるか? 確かにお前とはタイプが真逆だが、何か得られるもんがあるかもしれんぞ」

「えっ?」


 いいの? とその目が問いかける。ユカライネン大佐は黙って頷いた。


 あの日、僕は絶望の中で一度自分の命を捨てた。それを拾い上げてくれたのは親父パピだ。

 僕と一緒、そう僕と同じ、あの子からは深い深い絶望の気配がする。なのに——。

 泥だらけで、傷だらけで、決して女の子には見えないあの子。だけど、あの子はミサイルでも戦車でも潰れない、そんな心根を持ってる気がする。

 まるで僕が諦めた、あの夜空の星のような——。


「ねぇパピ。ぼくもあんな風になれると思う?」


 その言葉にくしゃりと頭を撫でられた。


「お前はお前でいればいい」


 たった一言、そう言われたスロは嬉しそうに笑い。

 歩き出したユカライネンの後ろについて歩く。


 あの日、大地の女神はその片腕を失った。

 僕は雪、僕は彼の銃で、僕は祖カルヤラの弾丸。

 何人たりとも、その心根に傷をつける事は出来ない。僕が、大佐がいる限り——。

 

 『Suomiスオミは kestää持ちこたえます, ellei käsketä我々が退却を karkuun juoksemaan命じられない限りはね


 やがてそっと舞い出した雪に紛れて、その姿は見えなくなった。

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