第23話 甘き指先と夜の魔女

「一眼レフはどうだ」

「ずっとスマホで撮影してたんですけど全然違いますね。次の本は写真をたくさん載せたいです!」


 橘はふわりとほほ笑んだ。

 ホテルから出るとちょうど夕方が始まったばかりで、世界はオレンジ色の手前だった。 

 橘はあまり見ないピンクとベージュが混ざった、ふわふわとしたワンピースを着ている。

 そもそもあまりスカートを穿いている所を見ないので、とても新鮮だ。

 肩が大きく出ていて、細い腕がしなやかに動く。

 飛行機に乗る前と、ロケ地巡りに行く時はGパンにTシャツだった。

 俺と出かけるためにかわいい服装に着替えてくれたのかと思うと、嬉しい。


「ワンピース、似合うな」

「!! えっと、五島さんと初めての遠出なので。どうですか、変じゃないですか?」


 そう言って目の前でクルリと回り、スカートが風をふくんでふわりと広がった。

 お! と外にいた男たちが橘を見たので、腕を引っ張って自分のほうへ寄せた。

 橘は他のヤツラにどういう目で見られてるのか、もう少し考えたほうがいい。

 引き寄せられた橘は、


「えへへ。なんか、五島さんと他の所で一緒に歩くの、楽しいです」

 と、俺の腕にオデコをスリと寄せて言った。ったく無防備すぎる。

「景色が違うだけで新鮮だな」

「そうですね。私、聖地巡礼が趣味なので、旅行が大好きなんです。旅行が好きでうちの会社に入ったくらいなので」

 と歩き始めた。

 俺は頷いて口を開いた。


「ばあちゃんが今考えると本当にオタクでなあ。子どもの頃から、今でいう聖地巡礼に連れて行かれてたんだ」

「おばあちゃんらしいです」

「それに付き合って日本全国出かけてて……気が付いたら旅行会社で企画やってた」

「私がここに就職した理由も聖地巡礼のための宿代金に社員割引が使えるからです」

「そんな理由かよ」


 俺は笑ってしまった。でも実に橘らしい。

 電車に乗り、外を見ていたら街の景色から一気に視界が広がって海が見えてきた。

 それをみた橘が目を輝かせる。


「わあ、すごい。もう海がみえます!」

「町自体がコンパクトで、すぐにきれいな海に出られるのが福岡のすごい所だな」

「お刺身、楽しみです」

「俺は旨いものを食べるためだけにきた」

「旅行のだいご味ですよね。でもお仕事忙しかったし、直前に誘ったのに、きてくれて嬉しいです」


 そう言って橘は俺の横で俯いた。

 その伏せられたまつ毛や、少しにやけた口元がかわいくて仕方ない。

 いつもメイクをしている印象がないが、今日は俺が見ても「している」と分かるくらい、肌がキラキラしている。

 これも俺が今まで知らなかった『橘』で、それを知れたのが嬉しい。

 俺はどうしよもなく佐伯に嫉妬してしまってから、俺の横にいてほしいと強く思った。

 橘を見て、掌を広げた。


「手に触れたい」

「!! ……はい。えっと……ちょっと待ってくださいね。ものすごく汗をかいてる気がします」

「そのままでいい」

「はいっ……」


 橘は手をヒラヒラと空中で乾かして、もじもじと手を出してきた。

 何かいうと新鮮な反応を返してくるのが、たまらない。もっと甘やかしたくなる。

 その小さな手を握って引き寄せると「ひゃい……」と良く分からない言葉を言って俯いた。

 そして俺の方をチラッとみてパアと笑顔を見せて、また俯いた。

 あまりにかわいいので、強めに手を握るとビクンと顔を上げた。

 もっと色んな表情を見たいと素直に思う。



 電車を降りて海が見えるほうにゆっくり歩いて行く。

 この駅の居酒屋で、旨い刺身盛りを出すところがあると調べて予約してきた。

 時間まで少しあるので、海を目指す。


 都心の海は、近づいてくると磯臭いというか、独自の匂いがする。

 でもきれいな海のほうにいくとあまりあの腐ったような香りがしない。

 ただ音だけが空中を切り裂くように響いていて、ドン……という波の音が腹にくる。

 小さな水しぶきと、それに冷やされた風が、夏の夜とは思えないほど気持ちが良い。

 俺は首をふって思いっきり空気を吸い込んだ。


 視界に細い指先が入ってきた。

 橘はいつのまにか堤防の胸壁に上ったようで、そこから俺に手を伸ばしてきた。

 海風に晒されたスカートがふわりと広がり、周りを確認したが誰も居なかった。

 橘は両手を広げた状態でゆっくりと歩く。


「……高いですっ、怖いですっ……!!」

「ったく、だったらやめとけよ」

「でもちょっとだけ、空に近いんですよ。なんだかそれって……鳥です!!」

「トンビか?」

「トンビ……じゃあ五島さんは油揚げですか?」

「なんだよそれ」


 笑って目の前に差し出された細い指を握った。

 それは冷たくてひやりと横たわる感情のようで、優しく、でも強く握った。

 橘は夜空を吸い込むように顔を上げなら言う。


「夜の海には魔女が住むって、死んでしまったお母さんが絵本で読んでくれました」

「怖いから近づくなってことだろう」

「そうですね。そういう話だったと思います。でも絵がすごく怖くて……せりあがった海が魔女の帽子なんです。それが海の奥から一気に出てきて頭をもたげる。それでぐわわわ……って大きくなって、そのまま海から這い出してくるんです。そして真黒なマントを広げる」

「そりゃ怖いな」

「それで海辺にいる子を飲み込んじゃうんです。そこしか覚えてなくて。でもそこが好きでお母さんに何度も読んで……と頼みましたね」


 そう言って橘は立ち止まって真黒な海を見た。

 たしかに帽子のように尖った黒い塊が生き物のように奥から奥からこっちにくる。

 ここら辺はわりと波が荒いのだと予約した店のHPにも書いてあったな。

 ドン……と魔女が暴れる海を見ながら橘は小さな声で話し始めた。


「……実は私、今の家に来たのは、実家から逃げてきたんですよね。再婚した滝本さんに自分の趣味を知られたくないて。だって滝本さんは私のことを素敵なお嬢さんだと思っていて……幻想でもその私で居たかったんですけど……でもそれって意味あるのかなって。秘密がイヤで実家にも帰ってません。でも私、こんな風にお父さんや滝本さんと……もっと気楽に旅行に来たいなって、今思ってて」


 真黒な世界に見切りをつけるようにベージュのワンピースを翻して橘がふリ向く。


「旅行が終わって……帰ったら、実家に帰ってちゃんと話してきますね」


 そう言って見せた笑顔を見て、俺は思った。


 弱そうに見えるのに、悩んで考えて、自分の気持ちを見つけて、前を向ける。

 それを正面から伝えたいと言える強さ。

 そんな橘を俺は……。


 胸壁の上に立つ橘の手を引っ張った。

 小さな悲鳴と共に橘が胸壁から飛び下りてきた。

 ザン……と大きな波が打ち付けて、しぶきを散らす。

 波音と橘の甘い影が舞う。

 俺は橘を胸もとに抱き寄せた。

 肌の表面は冷たいのに、真ん中が汗をかくように熱い。

 その大切な塊を自分の中に抱える。

 柔らかい背中と甘い香りを取り込むように、優しく撫でて、あふれ出す言葉を耳元で囁く。


「ひとりで頑張りすぎるな。俺もいるから」

「えっ……あっ……えっ……はい!」


 橘は驚いて俺の顔を見た。

 まっすぐな瞳と目があった。

 その視線に誘われるように、溢れるように、染み出すように言葉を渡す。


「橘が好きなんだ」

「!! 私も五島さんが好きです!!」


 橘は俺の胸もとでぴょこんと跳ねた。 

 そして俺の首の下に頭をねじ込みながらもじもじという。


「えっとわ、私も、えっと……!! あの、好きな、人の、お店を手伝ってて、それで趣味がとってもあうおばあちゃんがいて……だから家を出たんだって……それで毎日楽しいって……話そうと思ってます」


 あまりにグリグリと頭を突っ込んでくるので、笑ってしまう。

 橘ドリルか、これは。

 頭を撫でて落ち着かせる。


「俺も行っていいか」

「!! あっ、はい。じゃあえっと……そうか、お店に呼んでもいいですか」

「それが早いな」


 胸もとでモゾモゾ動く橘の顔が見たくて覗き込むと、儚い月光でも分かるほど真っ赤になっていた。 

 ……かわいい。

 俺は小さな頭を胸もとに引き寄せた。

 ちゃんとしよう。ちゃんとして、まっすぐに橘の人生に関わりたい。



 ふたりで手を繋いで居酒屋に向かった。

 出てきた海鮮は、どれもこれも旨くて、俺は久しぶりにめちゃくちゃ飲んで、食べた。

 橘も目を輝かせて、どこにそんなに入るんだよってほど色々食べた。


「帰るか」

「はい」


 酔った俺は橘の小さな手を握って歩き始めた。

 九割欠けた月だけが、俺たちを甘く優しく見守っていた。


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