11月22日・いい夫婦の日の話
ある日の夫婦と、それを目撃した彼女の話
……いい夫婦、とはいったいどんな男女を指すのだろうか?
仮にではあるが、ここに容姿端麗かつ高収入、人生においてなんの不満もない順風満帆な生活を送っている夫婦がいたとして、それはいい夫婦となるのだろうか?
山よりも高く、海よりも深い愛をお互いに抱いている夫婦がいたとして、単身赴任で別々に離れていたとしたら、それは傍から見ていい夫婦といえるのだろうか?
そういった事情に加えて周囲から見た評価と本人たちの考えが違う場合もあり得るし、いい夫婦と呼ぶか否かの判断というのは実に難しいものなのである。
まあ、敢えてこれは絶対に外せないという条件を付けるというのならば、お互いのことを大切に想い合っている男女である、という部分だろう。
双方が共に相手のことを大事に思っているのならば、そこに婚姻関係というものは必要ないのかもしれない。
鼻歌交じりにフライパンを振るい、上機嫌に炒め物を作る同僚……阿久津零の姿を見つめながら、秤屋天はそんなことを考えていた。
「ねえ、零。一つ質問があるんだけど」
「なんすか、秤屋さん。あんま馬鹿みたいなこと言わないでくださいよ」
小さめの唐揚げとネギに唐辛子を絡めて炒めながら、零が天の方を見ないで応える。
なんで揚げたものをもう一回炒めてるんだと、料理を知らない天は零がどんな料理を作っているのかわからないままであったが、彼女が投げかけた質問はその料理とは全く関係のないものだった。
「それ、有栖ちゃんにごちそうすんのよね? 毎日のように晩御飯を用意してるけど、色々と大丈夫なの?」
「さらっと質問二つに増やさないでくださいよ。まあ、別にいいですけど」
スパイシーな香りを漂わせる炒め物を皿の上に盛りつけ、上機嫌に鼻を鳴らす零。
料理の出来に満足しているであろう彼は、天からの質問に対して特に大したことでもないように回答を述べる。
「秤屋さんの言う通り、こいつは有栖さんと一緒に食べるようの料理です。大丈夫の意味はよくわかんないですけど、別に負担だとは思ってないですよ」
「一緒に、ねえ……? っつーことは、ここに有栖ちゃんが来るわけ? んで、二人で晩ご飯と洒落込むわけだ。か~っ! 平然とイチャイチャしやがって!」
「別にイチャイチャなんてしてないですよ。寮暮らしならよくあることですし、現に秤屋さんもこうして俺の部屋に来てるじゃないですか」
「そりゃあ、そうだけどさあ……」
現在進行形で零と彼の家で二人っきりになっている天であるが、別に浮いた話とかスキャンダラスな事実があるわけではない。
面談の帰りに薫子に頼まれて、零に渡すものを持ってきただけだ。
時間帯的にちょうど夕方で、暇だったので少しだけ時間を潰すついでに零が料理するところを見物していたら、男性の一人暮らしにしてはいささか多い量を作り始めた彼の姿を見て、「ああ、これが噂の芽衣ちゃんに餌付けする枢かあ……」と思ったわけである。
自分の食事すら満足に作ることすらできない天的には、単純に今日も美味しそうな料理を作っているな~……と零の腕前に感服するしかない。
その上で、自分以外の誰かの分まで嬉々として作る彼は相当に料理が好きなのか、あるいはその作る相手が好きなのだろうなと、零が料理する様子を見守り続けた天は思う。
鶏肉を切って、下味をつけて、揚げて、油を切ってからフライパンに放り込んで、なんやかんやの末に辛めの味付けをして……。
そうやって出来上がった一品は本当に美味しそうだなと、主菜としてだけでなく酒の肴にも抜群に合うんだろうな~、と考えていた天へと、その料理を作った零が尋ねる。
「よければ持って帰りますか? 多少は量に余裕はありますし、遠慮しないでいいっすよ」
「……止めとく。有栖ちゃん用に作ったものをお裾分けなんてされたら、なんか申し訳ないもの」
なんすかそれ、と笑いながらツッコミを入れる零。
副菜でも作っているであろう彼の後ろ姿を見つめる天へと、彼は続けて言う。
「揚げ物&辛い物なんで、なかなか作る機会とかないんですよね。喜屋武さんとかだと、太っちゃうし喉に負担がかかるからやめとくさ~、って言って遠慮されちゃうんで、美味しく食べてくれる有栖さんがいてくれて助かりますよ」
「あ~、わかるわ。ちょっと手間がかかるけどそう豪華でもないみたいな微妙なポジションの料理よね」
お祝い事に出すには弱いが、普段作りするには手間がかかる。
微妙に中途半端な料理ではあるが、こういうのって時折物凄く食べたくなるものなのだ。
そういう時に一緒に鶏肉を消費してくれる人がいると助かると笑う零は、白米の炊け具合を確認してこれまた満足気に笑っている。
どこまでも楽しそうだなと思いながら、天は彼へとまた新たな質問を投げかけた。
「有栖ちゃん、萎縮しちゃってない? 結構な頻度であんたにご飯作ってもらってるわけでしょ? なんか申し訳ないよ~、って言いそうだけど」
「あ~……まあ、多少はあったっすね。最近は頻度がそうでもなくなったっていうか、慣れてきたっていうか……当然とは思ってないんでしょうけど、日常の一コマとして受け入れつつあるんだと思いますよ。それと――」
「……それと?」
「――対価、払ってもらってるんで」
何の気なしにそう言いながら茶碗にご飯を盛りつけ始める零の回答に、ぎょっと目を見開く天。
対価、うら若き乙女が同い年の男子に差し出せる対価だなんて、そんなの一つしかないじゃないか……と、彼女が汚れきった大人らしい不埒な妄想を働かせる中、ランチョンマットをテーブルに敷いた零が言う。
「配信で使うサムネイルとか、作ってもらってるんですよね。あとは動画の編集もしてもらったりしてるんで本当に助かってますよ、はい」
「あ、ああ、そういう……!!」
Vtuberらしく、配信活動に関係ある部分で対価を支払ってもらっているという零の答えを聞いた天がほっと胸をなでおろす。
てっきり美味しいご飯の後でデザートとして芽衣ちゃんを食べちゃうぞ~! 的な肉食アナコンダの暴走に期待していた彼女はその健全な内容に若干の苛立ちをも覚えたわけだが、まああの二人が健全な関係でいてくれてよかったと思おう……と考えたところで、彼女はふとこんなことに気が付く。
(え~っと? 零の奴は家事的な部分で有栖ちゃんを支えてて、有栖ちゃんは仕事方面で零のサポートをしていて……あれ? これってもしかして……)
家を守る主夫と、バリバリ仕事をこなすサラリーマン(ウーマン?)。
性別は逆だが、これって世にいう夫婦というやつなのではないだろうかと天が考えたその瞬間、チャイムの音がリビングに鳴り響いた。
「うん、来た来た。タイミングばっちしだな」
二人分の料理をテーブルの上に並べた零が、ほぼ同時に自宅を訪れた有栖を迎えに玄関へと向かう。
まるで仕事帰りの夫を迎える妻だな……と思いつつ、これ以上ここにいたら二人のお邪魔になると考えた天は彼の後に続いて玄関へと向かった。
「いらっしゃい、有栖さん。ご飯、もうできてるよ」
「お邪魔しま~す……! うわぁ、いい匂いがここまでしてくるね……あれ?」
玄関で楽しそうに話をしていた有栖が天の登場に驚きの表情を迎える。
もしかして今日は三人で食事を? とでも聞きた気な彼女へと苦笑を向けた天は、手を軽く振ってそれを否定しつつ口を開いた。
「ああ、気にしないで。私は薫子さんから頼まれた届け物を渡しに来ただけだからさ。夫婦の時間を邪魔したりなんかしないわよ」
「夫婦じゃあないっすよ。何を馬鹿なこと言ってるんすか、秤屋さんは」
またいつものからかいかと言わんばかりの苦笑を浮かべ、天へと応える零。
別にふざけてるわけじゃあないんだけどなとは思いつつも、それを言ったところで何にもならないだろうなと考えた彼女は有栖と入れ違いに家から出ていく。
「んじゃ、まったね~。お二人とも、いいディナータイムを~」
「はい、ありがとうございました。気を付けて帰ってくださいね」
「あ、えっと、ま、また今度!」
玄関口で二人に見送られた天は、友人夫婦の家から帰る時ってこんな感じなのか~……と思いながら帰路につく。
気温はそうでもないのだが、どうしてだか心が寒くなっているような気がしてならない彼女は、小さくため息を吐いてからぼそりと愚痴をこぼした。
「やっぱ唐揚げ貰わなくて正解だったわ。この時点でもう、胸焼けしちゃってるもの」
ほんの少し、数秒のやり取りを見ただけで甘ったるさを感じた胸がムカムカとしている。
こんな状況じゃあ、零の料理も食べきれなかっただろうなと思いながら、天は月を見上げて呟いた。
「こういう時は酒飲んで忘れたいけど、禁酒してるからなあ……あ~あ、だっる……!」
地味にダメージを負った心を癒すための酒を禁じている彼女は、夜の道をトボトボと寂し気に歩いていく。
いいものを見れたのは間違いないのだが、そのせいで若干傷付いてしまった自分のことを情けなく思いながら、天は自宅に続く道を歩き続けた。
……だが、彼女は知らなかった。ここから年々、あの二人のバカップルっぷりに拍車がかかっていくということを。
自らに降りかかった試練は月日が過ぎるほどに過酷になっていくものだということを、この時の彼女は知る由もなかった。
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