Sun Rise
「……んぁ? あぁ? くあぁぁ……!」
午前4時、ようやく日が昇り始めようとしているかくらいの時間に奇妙な鳴き声を発しながら体を起き上がらせた沙織は、やや重い頭を右手で抑えながら寝ぼけまなこをすりすりと擦った。
自分が自室のベッドの上で寝ていることを理解し、まだ上手くは回らない思考をフルに働かせて昨日の出来事を振り返った彼女は、自分が飲み会で酔い潰れてしまったことを思い出すと共に、可愛い弟分に迷惑を掛けてしまったことを思い出す。
すっかりご機嫌になって、べろんべろんの状態で彼に肩を貸されながら社員寮に入ったところまでは覚えているが、そこから先はどうなったのだろうか?
少なくとも、今、この場に零の姿が見受けられないということは、彼は自分をベッドに寝かしつけた後で帰宅したということになる。
そういえば部屋の鍵はズボンの尻ポケットに入れてあったな~、だとか、もしかして零は鍵を取るために自分のお尻に触ったのかな~、だとか、多分だけど有栖の力を借りたんだろうな~、といった様々な疑問とそれに対する答えを一瞬のうちに頭の中で巡らせた沙織は、のろのろと立ち上がると浴室に向けて歩いていった。
「シャワー、シャワー……」
出掛けた先で酔い潰れて眠ってしまったということは、当然ながら昨日、自分は風呂に入っていないということだ。
夏の暑い日だから汗もかいただろうし、酒も大量に飲んだからその臭いも体と服に染みついているだろう。
今更ながら、そんな状態で零に引っ付いていたことを恥ずかしく思い始めた沙織は、着ていた服を次々と脱ぎながらそれを洗濯機へと放り込んでいった。
お馴染みとなったノースリーブのタートルネックセーターを脱ぎ、ややタイトなジーンズも脱ぎ捨て、黒色で揃えた上下の下着をも外して生まれたままの姿になった彼女は、頭をしゃっきりとさせるために頭から熱いシャワーを浴びる。
少しごわついてしまっている髪を丁寧に梳かしながら、両手に溜めたお湯で顔をばしゃばしゃと洗いながら、凹凸の激しい体にシャワーから放たれたお湯の雫を滴らせながら……そうやって、少しずつ覚醒の時を迎えていった沙織は、ふぅと息を吐くと用意してあったタオルで顔を拭った。
「楽しかったな~、昨日は。李衣菜ちゃんも格好良かったし、本当にいい1日だったさ~」
にへら、とだらしなく表情を緩ませて、幸せそうに笑う沙織。
親友である李衣菜の晴れ舞台を間近で見ることが出来た喜びと、かつての仲間たちと楽しいひと時を過ごせたことへの幸せを噛み締めるように笑った後、彼女はゆっくりと目を開くと自分の首筋に残る赤黒い跡へと視線を向ける。
「……本当に楽しかったな。まるで夢みたいな1日だった」
もしもこの傷がなければ、あの楽しかった日々が永遠のものとなってくれたのだろうか?
目を覚ます場所は1人きりの狭い部屋ではなくて、李衣菜や祈里たちと一緒にどんちゃん騒ぎをした後のホテルや、彼女たちの内の誰かの家の中で仲間たちと共に目を覚ましていたのだろうか?
もしも2年前、あんな痛ましい事件がなかったら……自分はまだ、アイドルでいられたのだろうか?
【SunRise】も7人のままで、全国を忙しく飛び回って、李衣菜と共にステージに立って歌ったり、踊ったり出来ていたのだろうか?
……わかっている。こんなことを考えても、虚しいだけだということは。
過去は変えられない。それはこの2年間ずっと自分に言い聞かせてきたことで、振り返らずに前に進むんだと自分自身にそう誓いながら、沙織は1人でここまで歩いてきた。
それでも、やっぱり……2年前を思い出させる楽しい時間を体験してしまうと、どうしてもそんなことを考えざるを得なくなってしまう。
どうして自分の居場所は、ステージの上でも李衣菜の隣でもないのだろう、と……。
風呂の時間は憂鬱だ。どうしたって、拭い去ることの出来ない痛みと対面しなくてはならなくなるから。
そう思いながら浴室を出た沙織は、体からお湯を滴らせながらバスタオルと着る服を求めて再び寝室へと戻る。
そして、ハーフパンツとTシャツというラフな衣類に着替えた彼女は、この後に控えている朝活配信に備え、気持ちを切り替えようとリビングへと向かった。
「配信が終わった後に二度寝するだろうし、軽くコーヒーでも飲もうかな……」
朝活配信が始まるまではあと1,2時間はあり、ここでうっかり眠ってしまうわけにはいかない。
腹を満たしてしまうと眠気が出てくるし、食べたすぐ後に眠るのは体に良くないから、避けるべきだろう。
だからといってまあ、空きっ腹にコーヒーだけ入れて朝食を抜くというのも体に良くはないと思うのだが、今の沙織はそれがベストな選択肢だと考えているようだ。
そんな風に独り言を呟きながらリビングに続き扉を開け、カーテンを開けるのではなく電気を点けて部屋を明るくした彼女は、テーブルの上にメモが置いてあることに気が付き、それを手に取った。
そこには筆跡が違う字で2人分のメッセージが書かれており、それを読んだ沙織の口が知らず知らずのうちに緩んでいく。
『喜屋武さんへ。昨日はお疲れ様でした。家の鍵は下のポストに入れてあるんで、後で取りに行ってください。ついでに冷凍庫にピザトースト作って入れておいたんで、良ければ朝食としてどうぞ。朝活配信、頑張ってくださいね。PS.気持ちはわかりますが、次からは酒量をもう少しセーブしてください。阿久津より』
『勝手に部屋に入ってすいません! 鍵は私が取ったので、零くんは喜屋武さんのお尻には触ってないですよ! あと、寝室も私が前もって確認したので、下着とかも見られてないです! そこも安心してください! 入江より』
「ふふふ……! 本当に可愛い子たちさ~。お姉さん、慕われてるんだなぁ……!」
メモに書かれている通り、冷凍庫には美味しそうなピザトーストがジップロックの中で保管されてあった。
それを取り出し、オーブントースターで温めている最中に当初の予定通りホットコーヒーを用意する沙織は、改めてメモを見つめると柔らかな笑みを浮かべる。
「そうだよね。昨日は夢みたいに楽しい1日だったけど、それ以外の毎日が楽しくないわけじゃあないもんね」
2年前、自分は計り知れないほどに大きく、大切なものを数多く失った。
それでも、そこから歩み続けた自分は、それに負けないくらいに眩く尊いものを手に入れたはずだ。
信頼出来る仲間。応援してくれるファン。新しく見つけた夢と、それを応援し、同じような夢を追いかける友達。
海の底で藻掻いて、足掻いて、苦しさに負けずに前へ前へと進め続けた自分の行いは、決して無駄なんかじゃあなかった。
だって自分は、掛け替えのないものを沢山手に入れることが出来たのだから。
「ん、美味しぃ……! やっぱり零くんは料理上手さ~!」
温め終わったピザトーストを齧り、その美味さに目を見開いて感嘆する沙織。
昨日、迷惑を掛けてしまったことに加えて朝食まで用意してもらったのだから、これはまたなんでも言うことを聞いてあげる権利を献上しなくてはならないなと、彼に対する感謝の気持ちを抱きながらトーストを食べ終えた彼女は、椅子から立ち上がると部屋のカーテンを開けた。
窓の外では、ゆっくりと太陽が昇ると共に地平を明るく照らし始めている光景が広がっている。
その輝きを目にした沙織はふんすと鼻息を噴き出すと、ぺしぺしと自分の両頬を叩いて気合を入れ、配信の準備に取り掛かった。
「よ~し、完全に目は覚めたし、エネルギーも補充万端! 今日も元気にやったるさ~!」
立つステージは変わってしまったけれども、こんな自分を待ってくれている人たちがいる。
こんな自分を慕い、共に歩み、掲げた夢を応援してくれる仲間たちがいる。
だから……自分は自慢の大きな胸をこれまた大きく張って、堂々と言ってみせるのだ。
ここが、このバーチャルの海こそが、今の自分の居場所であると。
迷うこともあるけれど、過去を振り返りたくなることもあるけれど、きっと大丈夫。
手にしたメモを微笑みを浮かべて見つめながらそう思った沙織は、今日もその元気を通勤、通学中のファンに届けるようにして、挨拶の言葉を叫ぶ。
『はいたい! みんな、おはよう! 花咲たらばの朝活配信、はっじまっるよ~!!』
彼女の名前は喜屋武沙織。沖縄出身、20歳の女性で、元アイドル。Vtuberとしての名前は花咲たらば。
バーチャル世界で1番のアイドルになり、親友と一緒にステージに立つことが夢のとってもお茶目でスタイル抜群なお姉さん。
明るく、元気に、時々周り(というよりとある青年)に災厄を振り撒きながら夢を叶えるために未来へ進む彼女へと、
……なお、この朝活配信でうっかり彼女が「今日は枢が作ってくれた朝ご飯を食べた」と発言した結果、彼は蟹民たちの嫉妬を買ってまたしても炎上することとなったことをここに記載しておく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます