第9話 招き猫

 京也は購入したての珈琲袋を抱え、『喫茶びたー』へ向かった。

 店内には静雫とマスターがいるらしい。外からも聞こえるような大声で何やら叫んでいる。


「だ、だから!なんで僕が――」

「だからも何も、あんたでしょう!」

「どうしたんですか」

 入口から京也きょうやは店内を見回す。幸か不幸か、客はいないようだ。


「昼寝して起きたら、ミカエルさんがこのざまよ!」

 マスターは半泣きでそう云うと、右腕が欠けたガラス製のネコの置物を手で示した。

 目を細めた笑顔の表情が愛くるしく天使のようだと「ミカエル」と名付けられたが、腕がない状態ではその笑顔はむしろおぞましい。


「それは……災難でしたね」

 また営業時間に昼寝していたのか、と京也は心の中でなげく。

「災難じゃないわ、これは完全なる犯行よ。夏目なつめは妹の授業参観でいないし、木騎このきは出張中だし、京也も今帰ってきたばかりだし……犯人はあんたしかいない!」

 と名探偵さながら静雫しずくに向けて指をさす。

「だから、僕じゃないってば」

 心外だという風に、静雫は肩をすくめる。平然さを装うが、心拍数は急激に上がっていた。


 ついうっかり手から滑り落ちてしまったなんて……いえない。別に悪意があったわけではないが、不注意だったのは否めない。

 それにいまさら嘘をついているなんてことがばれたらどうなることか……絶っっっ対にいえない。殺される。取り敢えずこの場はなんとか言い逃れるしかない。

 これはれっきとした正当防衛なんだ。


 しかしそう考えを巡らせている間に、ものすごい剣幕のマスターが京也に指示を送っていた。

「あー……静雫、だね」

 京也が静雫の肩に手を置いて苦笑交じりに云う。

「⁉」

 しまった、人の心を読む悪魔がいた……

「ほう。私に嘘をつくとは、良い根性ねぇ」

 静雫の目には、怒りの角を生やすマスターが映る。今にもミカエルさんの欠けた腕を勢いよく投げ飛ばしてきそうだ。

「っ……邪魔な処にあるのが悪いんだよ!なんでカウンターに置いてあるんだあんな不気味な猫!」

「ミカエルさんは縁起のいい招き猫よ!ていうかあんた認めたわね!」

「うっ」

「まあまあ、マスターも落ち着いて。ミカエルさんは僕が接着剤のりでなんとかしますから」

「そんなもんじゃどうにもならん!」

「えぇ……あ、えーと、じゃあ――」

 マスターの怒りの矛先が京也に向いたのをチャンスとみて、静雫はそそくさと店を抜け出した。



「なんだよ招き猫って。客寄せ効果なんてないし、呪いの猫だろ」


 スタスタと店の前を歩く。そして数メートル歩き、立ち止まって後ろを振り返る。


「……追ってこないのかよ」


 あんなに怒ったマスター久しぶりに見たな、と静雫は徐々に罪悪感が芽生えるのを感じながら思った。


「そんなに大事だったのか」先ほどのやり取りを思い出しながらぽつりと云う。「でも怒りすぎだろ。あんな近距離で怒鳴ったら耳がおかしくなるし」

 しかし勢いで飛び出してしまったものの、これからどうしたものか。

「行くとこないしな……」

 静雫はその場で立ち止まり、店に戻ろうか迷っていると、ちょうど道路を挟んだ向かいの脇道に二人の男が入っていく姿が目に入った。

 なんだ?あそこは行き止まりだぞ。

 しばらく様子を見るが、二人が一向に戻ってくる気配がない。


 薬物取引か。


 加賀谷の製造したサファケートと呼ばれる薬が、脳裏にちらつく。

 静雫は足音を立てずに彼等が入っていった路地にそっと近寄った。


「うわっ……⁉」 

 脇道に入る角をのぞこうとした途端、急に一人の男が静雫に体当たりし、二人して地面に転がった。

「てて……」

 反射的に受け身をとったため怪我はないが、大の男が相手では、まだ身体が成熟しきっていない静雫の力技は到底敵わない―――だが能力を用いれば話は別だ。


 静雫は目の前の男を退けようと構える。しかしすぐに、男の異変に気付いた。

 男は息をしていなかった。

 胸には弾丸に撃たれたような痕があり、血がシャツに滲んでいる。


 即死。


 でも、銃弾の音なんか聞こえなかった……


 静雫は死んだ男を愕然がくぜんとみつめる。

「もう一人の男がやったのか……?」

 脇道の死角となる壁に背中を合わせ、奥の気配を伺う。

 そしてはっとした。

 奥からではなく、からの殺気だ。


 間一髪で体を逸らし、攻撃を避ける。

 敵は音もなく地面に着地した。そして顔を上げ、頬にかかった漆黒の前髪を耳にかけた。


「おや、喫茶処のぼうではないか」

 あでやかな笑みを浮かべた女性は云った。「久しいのう」

「お前はルゥドの烏女……夜羽マコト」静雫は相手を睨む。

「相変わらず無礼な奴じゃ。ルゥドの一員であったら、首をいでおるぞ」

 マコトは冗談では無さそうな口調で溜息をついた。

「しかしここで会ったのも縁じゃな。折角じゃ、先日のわしの部下の借りもあるしのう。少し遊んで帰るとしよう」

 そして息をふぅと吹きかけると、その手元に静雫の大きさほどある巨大なカラスがたちまち現れた。


 まずい、と静雫は思った。

 夜羽マコト―――自由自在に「幻想のカラス」を生み出し、凶器として操る異能の持ち主。


 幻想であるカラスには、いくら物理攻撃を仕掛けてもその体を通り抜けるだけ。しかしカラスが攻撃に転じる場合には、相手に触れダメージを与えられる。

 つまり、実物の存在であるか、幻想であるかの度合いをマコトは自由に操れるのだ。


 静雫の水を操るという物理的な攻撃しか出せない能力では、幻想相手には圧倒的に不利であることを以前、彼女と対戦した際に思い知らされた。


 ―――ならば、本体を攻撃するしかない。


 静雫は自分を狙う鋭いくちばしを態勢を傾けてかわし、その隙に「水獣」をマコトに放った。

「ぬっ」

「水に触れさえすれば、こっちのものだ」

 そう考えた静雫の手から生み出された透明な獣は、マコトに向かって一直線にうめき声を上げながら襲いかかる。


 しかし水獣の牙がマコトを飲み込む直前、水が弾け、水飛沫みずしぶきとなって飛び散った。

「なっ」

 マコトの前に後傾になった巨大烏が羽を広げ、上下にバタつかせて水獣をも弾け飛ばす強風を送り込んだのだ。

「クククッ……わしに狙いを定めたのは正解じゃ。わしさえ倒せばこの子もいなくなるでのう」

 マコトは愉しそうに云う。

「だがわしのカラスは弾丸さえも吹き飛ばす程の強靭な翼を持っておる故……おぬしの力なぞ、ただの水遊びに過ぎぬ」

「くっ」

「残念だったのう、坊や」マコトは静雫に向かって微笑し、カラスを突進させた。


 獲物を狩る猛禽もうきんの如く、その鋭いくちばしが静雫に襲い掛かる―――が、その標的が目の前から忽然こつぜんと消えた。


 獲物を見失ったカラスは空中にとどまり、周りを見渡す。しかしどこにも静雫の姿はない。

「なんじゃ、逃げおったか」

 マコトは横たわる男しかいないみちを確認する。だが急に喉に違和感を覚え、息が苦しくなる。

「ぐっ……」

 喉をしめつけるような圧迫感。なんとか手を伸ばすと、首元が太い縄で縛られているのが分かった。その縄は手でちぎってもまた再生し、取り除くことが不可能なだった。


 ぼやける視界の中でカラスをみるが、その翼にも同じように縄がまとわりつき固定されていた。幻想度を高めようとするも、この状況から脱するために必要な力を確保することができない。


「驚いた?水の壁を形成し、光の屈折を応用して姿を消したんだ」

 いつの間にかマコトの背後に静雫が立っていた。

「ふっ……やるのう坊や。さすが……闇の警察と云われるだけ……あるのう」

 首を絞められ顔をしかめながらも、マコトは薄ら笑いを浮かべて云った。

「答えろ。なんであの男を殺した」

いやじゃ……答える義務がない」

「……云っておくけど、僕は他の皆みたいに優しくない。敵は、容赦なく排除するよ?」

 マコトの眼前に立った静雫の瞳はより一層黒味を帯び、彼女の苦しそうな表情をみつめた。水の縄が大蛇の如くマコトの首を強く絞めつける。

「っ……うっ」マコトの口から声にならない音が漏れ、静雫は少し縄を緩めた。すると同じように黒味を帯びたマコトの瞳が静雫を捉える。

「おぬし……この程度でわしに勝ったと……本気で思っておるのか?」

「なんだと」

「クックッ……甘いのう。何もかもが……甘い」

 マコトの言葉に静雫ははっとした。「一度で仕留めなかったおぬしも、随分優しいと思うぞ」


 上を見上げると、巨大カラスよりも一回り小さなカラスが目を光らせ、静雫の心臓を目掛けて急降下しているのが見えた。


「まさか……もう一羽いたのか」

 カラスの下に水で防御壁を作ろうとするが、あまりにも速すぎる。


 ―――くそ、間に合わない……


 心臓を突き抜けられると諦めかけた―――だがその時、背後から聞き慣れた声がした。


「静雫、しゃがめ」


 空中がスパッと切られる音がする。

 咄嗟に閉じた目を薄く開くと、カラスの姿がなかった。代わりに、黒い羽がひらりといくつか舞い落ち、やがて消えた。


「ぬ、その声は……」

「夏目!」

 夏目が短刀を構えたまま、静雫の前に立ち、マコトを見据えていた。


 幻想さえも空間ごと切り裂く剣技、「千切れし空虚」―――夏目の剣術と空間断絶能力からなされるわざだ。

 マコトは夏目を見て、アーモンド形の目を大きく開く。


「まずい……」

 静雫は夏目に注意を促そうとするが、遅かった。

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