第2話 パーティ会場にて

「なるほど。鍋はまたお預けですか」

 『喫茶びたー』に戻った京也きょうやは招待状を受け取ると、買い物袋を掲げて少し残念そうに微笑んだ。


 閉店間際の喫茶店にもう客は居らず、カウンターにはマスターを中心に夏目なつめ木騎このきが座っていた。


「悪いわね~、私も楽しみにしていたんだけど」と残念そうに溜息をつきながら、マスターは堂々とグラスに葡萄酒ワインを注ぎ真っ赤な液体を口に運ぶ。「その代わり、取っておきの衣装を用意しておくから。明日は思いっきり楽しんじゃって」

 そう云うと、魅惑的な微笑を浮かべて片目を閉じた。


✧ ✧ ✧ ✧ ✧ 


 豪勢なパーティ会場では、美しく奏でられた音楽と人々の笑い声が交差し、間もなく始まる宴の開幕を心待ちにする人で埋め尽くされていた。


 大広間ホールの中央ステージに、ひと際鮮やかな橙色オレンジのスーツを着用した男がマイクを持って上がっていった。同色の明るい髪をかきあげ、咳払いをする。

 会場内の話し声がぴたりと止みその男に視線が集まると、やせ細って軟弱そうな体型には不釣り合いな膨大な自信が笑みとして表情からこぼれた。


「ワタシの親愛なる友人たち、我が加賀谷かがやグループ創立百周年パーティへようこそ!今宵は夜が明けるまで、存分に堪能してくれたまえ!」


 盛大な拍手を浴びて男はお辞儀をする。そしてそれが合図のように、広間にいた全員が一斉に動き出した。



 グラスを片手に談笑する人々を眺め、二階から身を乗り出す木騎は口笛を吹いた。

「すげぇな。ベテラン女優に、今注目の若手敏腕経営者……お、政治家まで居るぜ。名声と金がある奴らばかりだ」

 木騎の隣には京也も同じく一階を見下ろし、その後ろの柱には夏目がもたれ掛かって立っている。三人とも名だたる来客に劣らぬ高級スーツを着用し、上品なネクタイを締めた装いだ。

「さすがは世界有数の製薬企業のパーティですね」京也が頷いた。「ところで木騎さん、そのポケットチーフは……」

 京也の視線は、木騎の左胸ポケットからはみ出た布をじっと見据えた。フライパンを持ったゴリラが施され、高級スーツが一気に滑稽な衣装へと変わる威力を持っている。


「マスターが俺にそっくりだと云ってな……俺は反対したんだけどよ……」

 折角伸ばしていた髭を整えたのに、と嘆く木騎が夏目に抱きつこうとするが、夏目は避けて木騎は柱に見事激突する。

「うっ、大理石……夏目ひどい」

「まあまあ、結構似て……いや、お似合いですよ」苦笑交じりに京也はなだめる。

 物理的なダメージと心理的なダメージで両断される木騎に、夏目は目もくれずに完全無視。

 だがその集中力のおかげで、夏目はふとある人物を視界に捉えた。

「動いたぞ」夏目が云うと、二人の表情が一変して真剣になる。

「さて、我々も行きますか」

 京也の一言で三人は動き出した。


✧ ✧ ✧ ✧ ✧ 


「創立百周年パーティって、今日の仕事先か」

 先日のカフェで抱いていた疑問が解消され、コウはすっきりするとともに反省した。加賀谷グループに関する仕事とは聞いていたが、その内実はあまり気に留めていなかったのだ。


 ―――ということは、あの人たちも来ているのだろうか。

 白いブラウスに黒ジャケットを羽織ったコウは軽く辺りを見回す。だが広々とした会場ではそう簡単に見つかるはずもない。

 そこはとある重工会社の前社長が保有していたという屋敷を買い取ったもので、数百人規模の来客が余裕で収まってしまえる広さだった。コウはその屋敷にあるプールサイドの庭で、数種類のカクテル類が並べられたお盆を右手で支えながら歩いていた。

 

 しかし珈琲なんてこのパーティには不要ではないだろうか、とアルコールを含むグラスを見てそう思った時。

「お嬢さん、一つシャンパンを頂けませんか」上品なスーツに身を包んだ老人がコウに声をかけた。翠色すいしょくの瞳が綺麗で、一瞬息をのむ。


 ―――まるで、あの色のようだ。


「どうぞ」

「ありがとう」

 シャンパンを受け取ると、老人はその細かい泡が立った液体を少しばかり口に含み、上質だと満足そうに微笑んだ。「この仕事は長いのですか」

「いえ、始めたばかりです」

「それならさほど問題もない―――早くここから出た方がよいですぞ」  

 空を見上げる老人は穏やかな顔のまま、ほんの少し声を低めて云う。「今は美しい夜ですが、もう時期嵐が来るそうなのでね」


 ……嵐?今朝みた天気予報によれは終日晴れのはず。


「仕事なので、途中で放棄するわけにはいきません」

「そうですか……君に任せますがね」そう云って微笑み、ゆっくりと老人は去っていった。


 不思議な余韻よいんを残した老人の背中をコウは見つめた。

 背中が雑踏で見えなくなってからまた空を見上げると、相変わらず星は美しく光を放ち、小雨が降る気配すらない。

 何かの勘違いだろう―――それにしても、奇麗な夜空だ。

 

 余韻から醒めてはっとして腕時計をみると、夜九時を少し回ったところだった。

「そろそろ……か」

 そっとお盆を近くのテーブルに置くと、コウはホールへと向かった。


✧ ✧ ✧ ✧ ✧ 


 確か一番右奥の扉――あそこだ。

 天井のシャンデリアと来客が身にまとう宝石の輝きに目を細めながらも、ようやくたどり着いた扉の前で、コウは立ちどまる。

 扉の前には熊のようにどっしりとした体格の見張りが二人立っていた。

「加賀谷様のご依頼の商品をお届けに参りました。コード295CF45です」

 コウが暗唱すると、見張りは機械のように無言で銀の厚い取っ手を押し、扉が開かれた。

 唾を飲み込み、コウも何も云わず奥へと進む。


 初めて入る場所は先ほどの広間とはまるで別空間で、殺風景な廊下が続いていた。真っすぐ進んでいくとまた新たな扉に突き当たり、今度は門番がいないため自分で扉を押し開く。


 開いた先の部屋は書斎だった。

 高い天井まで届く本棚で壁一面は埋め尽くされ、すべての棚に黒表紙の本がみっしりと敷き詰められている。

 見上げた目の片隅でふと、部屋の角に位置するソファの上で人影が動いたのを捉えた―――しかしそれは、コウが予想していた人物のものではなかった。


 無造作に伸びた漆黒の髪に、切れ長の目。どこか気だるそうに横たわっている青年には見覚えがあった。

「な……」なんで、と思わず声を上げそうになり、コウは夏目と目が合う。

「ん」

 夏目はカフェで見かけた時のように足を延ばした状態で横たわり、本棚から取ったであろう一冊を開いていた。コウが入ってきたことに特別驚いた様子もない。

「この人の面会相手か」

 夏目が指さす先の床には、つい先ほど高らかに祝杯をあげていた加賀谷グループの社長が倒れていた。象に踏まれた落ち葉のようにボロボロになり、息の根はあるようだが、意識は完全に飛んでいる。

 加賀谷がカフェ店員の前で失神しているこの状況を全く理解できずにいたが、恐らく夏目がやったのだろうとコウは認識する。


 押し寄せる混乱と動揺を必死に振り払う。そして考えるよりも先に腰に備えていた銃に手を伸ばす―――

 しかし夏目の鋭い眼にとらわれたような感覚に体がすくみ、そのまま固まってしまった。

「やめといた方がいい」静かな溜息ともに夏目が云う。

 彼は体を起こし、コウに近寄る。コウはまだ身動きが取れないままだ。

「それを身に着けているということは、アンタは『ルゥド』の一員。そしてそれがみどりなのは、まだ組織に加わって間もないあかしだ」

 夏目は黒い瞳をコウから離さず、彼女の目の前で立ち止まった。

「悪いが、アンタでは俺に勝てない」


 コウはその視線から逃れるように、左腕に付けてある腕輪リングに目をやる。


その通りだ。

これは闇の組織―――『ルゥド』の全構成員に加盟当初から与えられる腕輪。そして実績に応じて「翡翠ジェード」、「紅玉ルビー」、「紫水晶アメシスト」と位が上がるにつれ、宝石も彩を変える。

 先ほどの老人にも伝えた通り、仕事はまだ始めたばかり。つい二週間前に加入したばかりだ。


 しかしだからこそ―――


「失敗するわけにはいかない」

 コウは銃口を夏目に向ける。


 だが次の瞬間、銃の先端が真っ二つに割れた。そして気付くと夏目は目の前から姿を消していた。

 まさか……

 背後に気配を感じ振り返ったが、遅かった。鋭い刃がコウの喉元に触れる手前で止まる。短刀を構える夏目の姿を目の端で認識した。


 わずか数秒間、その姿勢のままでいたに過ぎない。しかしそれはコウにはとてつもなく長く感じた。

 殺される。そう確信して目を瞑った。

 それか今、あの力を使うか―――


 コウの目を伏せるその姿に、夏目は眉をひそめた。

「アンタこの前の……」

 夏目の手が緩まった。そのほんの一寸の隙を感じ取り、コウは胸の内側に隠していた非常用の短剣を抜き取り夏目に向けて振りかざす。

 だが驚異的な動体視力を持つ夏目は咄嗟とっさに体を引き、コウの刃は空中を切っただけだった。

 避けられたか。でも次こそ、とコウは夏目に再び切りかかる―――


「はい、そこまで」

 不意にコウの腕を誰かが引っ張り、体が後ろに倒れ、短剣が手から零れ落ちた。

「夏目、あまり女性をいたみつけると、モテないよ」

 聞き覚えのある声がコウの耳元で聞こえた。見上げると、力の抜けた体を支えていたのは、先日のもう一人のカフェ店員だと気付く。

 アスパラガス買いに行った人だ……


「京也、そいつは敵組織の人間だ」夏目はやや怪訝けげんな顔をして云う。

「知ってる。だからこそ貴重な情報源だよ」ふっと笑い、コウの腕をつかんだまま京也は片手で手際よく自分のネクタイを解いた。

 しまった、とコウが思う頃にはネクタイは手錠代わりに、コウの両腕を縛っていた。

「ごめん、しばらくこのまま我慢してね」

 京也は優しく云うが、ほどくことのないよう、しっかりと固く縛られている。

「で、見つかった?」ようやく自分の短刀を懐にしまった夏目にそう問いかけた。

「お前の予想通りだった」夏目は先ほど手に持っていた本を掲げる。

「よし、これで準備はすべて整ったね。いこう」

 京也はコウを抱きかかえ、夏目はまだ意識のない加賀谷を背中に負ぶった。

「ま、待って」コウは抵抗しようと試みるが、両腕を縛られていては身動きがとれない。

 そうして京也の意のままに、書斎を出ていった。

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