第一章
第1話 『喫茶びたー』へようこそ
―――十年後。
活気あふれる賑やかな街。
その都会から少し離れた丘に位置する落ち着いた通りに、とある
手前には広葉樹で造られた椅子とテーブル。奥にはカウンター。壁面は彫り模様が施された中世ヨーロッパを思わせる内装で、
その古びた喫茶店は『喫茶びたー』という看板を掲げていた。
「
京也と呼ばれたその青年は、腰に掛けていたエプロンの紐を後ろで
「分かりました。ちょうど今日、アスパラガスの特売日なので一緒に買っておきますね」
「おお、そういえば鍋のために必要だったな。うんと特大なやつ買ってきてくれ!」野菜を切るには巨大すぎる包丁を振りかざしてシェフはガハハハッと笑った。
「了解でっす」
そう答えると京也はカウンター裏に掛けてあった自転車の鍵を取り、店の裏口を軽やかに抜けていった。
―――その様子を一通り見ていたひとりの女性が、隣に座っていた友人らしき女性の肩を叩く。
「コウ、今の彼見た?めちゃくちゃかっこよかったよ!いいよあの彼、
浮いた話の一つも聞いたことのない友人にここぞという
「ただお使いを頼まれただけでしょ……野菜の特売日を知っていることは感心するけど」
勧められた男性に興味なさそうに、コウは珈琲をすする。上質な豆の香りを堪能している閉じかけた
というかアスパラガスの入った鍋ってなんだろう。そっちの方が興味あるな。
「もう、どんだけ理想高いのよ。ま、コウはもっとバリバリなエリート弁護士タイプが好きか」
「……」
いや、むしろ逆だ。珈琲を堪能していたためよく見えなかったが、確かに先ほどの彼の顔立ちは端麗だった気がする。
しかし自分が割と真面目な性格な分、けだるそうに仕事をこなし、物事を最小限の
「まあ、そんなところかな」
思っていることを説明するのが面倒で適当に頷いた。
真面目な自分のことが決して嫌いなわけではないが、時折解放感に浸りたい瞬間が訪れる。そんな時、自由を存分に全うしている人が羨ましいと思う。
そう、あそこで勤務中にも関わらず昼寝している彼のように。
コウはその微かに茶色い瞳を上げ、じっと喫茶のカウンターの奥に向けた。
この店では、本来は注文とレジを同時にこなせるようにと配備された店員が二人いる。だがそのうちの一人であった青年はつい先ほど買い物に出掛け、もう一人はカウンター裏の椅子に寝そべっているため、今店を回している人は誰もいない。
店にいる客は、自分たちの他には角の席で静かに読書に耽る常連らしき老人しかいないため、支障をきたす程でもないのだが―――やはり客がいるのに堂々とサボる店員のことが気になってしまう。
カウンター袖からはみ出ている革靴と足元の身なりから、このカフェの店員であることは確かだ。交差された足に微妙に動きがあったのも確認したため、生きている人間には違いない。
気分が悪いから休んでいる?いや、それならもっとちゃんとした場所で休めばいい。
日々の残業で寝不足とか?しかしこの店の混み具合ではとてもそうは思えない。
友人への適当な
「京也~聞いてよ!」
半泣きの女性が開いた扉から飛び出した。
「あら、京也は?」
辺りを忙しく見渡す女性は、それに動じることもなく寝そべったままの青年に聞いた。
「お使いだ」と青年がぼそっと云う。
「そう。で、あんたは何してるの?」
「……休憩」
「あらそう。んじゃ代わりに
店員の職務怠慢を気にすることなく、夏目と呼ばれた青年に手に持っていた
「招待状?」
「そうよ、あのオレンジ頭の創立百周年パーティへの招待状。本当に
パーティって泣くほど嫌なものだったっけ。
友人の会話はほぼ頭に入れず、カウンター越しの会話に耳を傾けていたコウは疑問に思った。起き上がった男性の反応をちらりと見る。
夏目は何も言わず封筒から取り出した招待状を眺め、軽く溜息をついた。
「了解」
すると先ほど葱の使いを頼んだシェフが厨房から顔を覗かせ、女性に向かって笑顔で手を振った。
「マスター、お帰りになったんですかい」
「
一転して声のトーンを下げたマスターと呼ばれた女性の正体は、この喫茶店を取り仕切る店長兼
両耳には重たそうなイヤリング、緩やかに巻かれた長い髪。そして緋色のブラウスと漆黒のタイトスカートを
マスターと呼ばれるのが夢だったらしく店員にはそう呼ばせているが、本名不明、年齢不詳のミステリアスを具現化した人だ。
しかしその落ち着きのない動作とは反対に、彼女の瞳の底知れぬ奥深さは貫禄を漂わせている。
「相変わらず冷たく、お美しい!」
ヘラヘラと満面の笑みを浮かべる木騎と呼ばれる男は、『喫茶びたー』の
ここに来る前は料理の経験が全くなかったそうだが、日々、独学で様々なレシピを開発している。生み出される斬新奇抜な料理は不思議とどれも素晴らしい出来で、彼もまた、謎多き者である。
「ということで、あんたも今の話を聞いていたと思うけど、明日は大きな仕事よ」
「イエスマダム!くー、久々の仕事に腕が鳴るぜ」木騎は騒々しく包丁を振りかざす。
パーティの大口注文が入ったということだろうか。あれ、そういえば『創立百周年パーティ』ってどこかで……。
コウはその響きに聞き覚えがあった。が、思い出すより早く、目の前に突然グラスが置かれ、驚きで思考が停止した。
「水、どうぞ」
いつの間にか夏目が横に立っていたことに全く気付かず、驚きで
途端、背筋に冷たいものが走った。
一気に聞き耳を立てていたことへの恥ずかしさと気まずさを感じ、自分の頬が紅潮するのを感じる。
「あの、お会計お願いします!」
「え、もう帰るの?」
話を途中で折られた友人は目を丸くする。
「ごめん用事思い出した、その、飼い犬に餌あげるの忘れてた」
犬なんか飼ってたっけと不満げな友人の視線を受け流し、コウはレシートに千円札をのせ、そそくさと店を出ていった。
彼と目が合った瞬間、心が凍るような衝撃を感じたのだ。夏目は吸い込まれそうなくらい漆黒で光の無い瞳をコウに向けていた。
―――まるで彼女の正体を知っているかのように
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