第17話 迷路の探訪とどどめ色の感情
「……ごめん、な、さい」
俺の聞き間違いでなければ、彩絵はそう口にした。
……え、は?
「熱でもあるのか!?」
「うっさい。話しかけないで、馬鹿」
「お、おう?」
謎が深まる。
もやもやを抱えたまま、一日が始まる。
今日の授業は眠れそうにない。
*
(わかんなく、なっちゃった)
普段なら分かりやすく寝ている和馬が声を出さずにうんうん唸っている一方で、彩絵は彩絵で心ここにあらずといった様子で板書をこなしていた。
(こいつが、あの歌を歌ったの? こいつにそれだけの熱量があったの?)
想像ができない。
だけど、それがおそらく現実。
虚数解を実数領域で求めているような錯覚。
ぐるぐる、ぐるぐる。
出口のない迷路みたいな問答で、出口を求めて歩き回っている感覚。
(~~ッ)
ただひたすらに、何かを叫びたい衝動に駆られる。
自分の気持ちに折り合いがついていない。
ごちゃごちゃした思考を置き去りにしたくて、どどめ色に染まった感情を払しょくしたくて、そのたび授業中の現状に歯噛みする。
初めて彼の曲を聞いた日のことを思い返す。
たったのワンフレーズで彩絵は魅入られた。
それくらい、子午という人物の歌声は魅力的だった。
(でも、でも! 子午さんが凄くっても、こいつは和馬だし……和馬だから……)
ぽき。
シャー芯が折れて、窓の方へと飛んで行った。
ノートには炭素が砕けた後が残っている。
(……そもそも私、なんでこいつのこと嫌ってたんだっけ)
振り返る。
思えばあれは中学生のころ。
かたくなに学校行事の練習をさぼろうとする和馬との口論がデッドヒートしたのが始まりだった。
それからだった。
テストがあっても赤点じゃなければいいっていう彼の態度が気になった。
梅雨の雨を眺めるように日常をつまらなさそうに見ている目が気に食わなかった。
噛みついても、ひょうひょうとした態度で話をそらそうとする様子を見ると余計にイライラした。
(でも、そういう人は、結構いる)
彩絵は先日、友人から言われた言葉を思い出した。
――全力で打ち込めるものがある人の方が珍しいと思うけどね。
分かっている。
彩絵だって、本気で打ち込めるのはイラストだけだった。
もし絵を描くのが好きだと気づけなかったら、他に本気で打ち込めるものと出会えただろうかと心に問いかければ、不安になる。
本当の出会いなど、一生に何度あるだろう。
命を燃やしてでも生涯を賭したい。
そう思える何かと出会えた奇跡を、幸運を。
彩絵は、なんとなく理解していた。
(こいつの、何が気に食わなかったんだろう)
もう、その感情の理由を思い出しても、抱くのはいらだちではなかった。
代わりに湧き上がるは、ほのかに罪悪の念。
何も知らずに、幸せを決めつけ、押し付けてしまったことへの申し訳なさ。
――『こんにちは、放送部です。お昼の放送を行います』
そんな声が聞こえて、彩絵はようやく昼休みになっていたことに気づく。
「彩絵ー、お昼たーべよ」
「あ、うん。あー、えっと」
「ん? どしたし?」
気づいた時には、和馬はもう席を離れていた。
中島という男子の前の席を借り、机に弁当を広げている途中だった。
「ごめん。今日は先に購買寄ってきていい?」
「ん? いいよー? うちも一緒に行こっか?」
「ううん! 先に食べてて!」
――謝らないと。
彩絵は廊下を早歩きした。
走らないあたり、やはり根が真面目である。
――謝らないと。
彩絵たちのクラスから購買は近いとはいえ、ほんの少しの出遅れは痛い。既にほかの学年が列をなしている。
――謝らないと。
じれったい待ち時間が終わり、ようやく自分の番が回ってきて、彩絵は立ち往生しかけた。
(あいつの好きなものって、なんだっけ)
そんなことすら見てこなかったことに気づく。
もうずっと、長い間同じ教室に通ってきたのに、悪いところばかり見て、いいところを見てこようとしなかったことに気づく。
そんな自分が嫌いになる。
「どれにするんだい」
「あ、えっと、その」
「早くしてね。後ろがつっかえてるから」
「は、はい」
購買において、何を買うか悩んでいる時間は多くない。もう一度、商品棚に目を通す。
(焼き菓子……まあ、無難と言えば、無難、かな)
受け取ってもらえないということはないだろう。
彩絵はそれをレジに持っていき、代金を払った。
それから来た道を引き返す。
彩絵が教室に戻った時、和馬は変わらず、中島と一緒に談笑しながら弁当をつついていた。
彩絵は一歩ずつ歩み寄ると、机に買ってきた焼き菓子を置く。
「これ」
「は?」
状況がわかっていない和馬が、口をぽかんと開いて彩絵の方を見る。
「ん!」
かといって、彩絵にとってはしでかしたことがしでかしたことゆえに、素直にごめんの一言も言えなかった。
だからただ語調で押した。
「え、いや、どういうこと?」
「いいから! 黙って受け取りなさい!!」
変わらず訳が分からないという顔をする和馬に業を煮やすと、彩絵は直接彼の手を取り、こじ開け、握らせた。
*
昼休みのことだった。
俺が中島と一緒に昼食をとっていると、彩絵がやってきて、怒った様子で俺に何かを押し付けた。
受け取ったものに目を向けると、それが焼き菓子であると気づく。
(え、何。こいつから施しを受けるわけがわからんのだけど?)
こわい。
紐無しバンジージャンプをしないといけないくらい怖い。
あるいは旅館に行ったら名探偵がいるくらい怖い。
あ、もしかしてそういう感じか?
昨日、俺をからかうのに失敗したから今度は違うアプローチでからかおうって魂胆か?
ふっ、俺の方が読みの深さが一手先みたいだな。
お前のこすい考えなんざ見え見えなんだよ!
「……プロポーズ?」
その甘えた考えをぶち壊す。
先手必勝電撃戦術。
いつもみたいに激怒してぼろを出すがいい。
ふはははは。
「しょ、しょんにゃわけないでしょう!!」
……え?
あ、あれ?
いつもみたいに怒んないの?
彩絵って煽られてそういうリアクション取るタイプだったっけ?
本気でわからん。
なんで顔赤くしたん?
なんで速足で逃げていくん?
ねえなんでなん。
「火鼠、おま、まさか藤白さんと付き合ってんのか?」
は?
中島の目はやっぱ節穴なんじゃねえか?
「ないない。藤白は俺が嫌いなんだぜ?」
「しょんにゃわけないでしょう」
「お前ぶっ殺されるぞ」
しっかし。
女心ってのは分からんな。
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