「おい、濡れるぞ」


 あんたは吐き捨てるようにそういってから、傘を持つ手であたしの肩を叩いた。あたしの反対側の肩はすでに少し濡れていた。


「ほら、折り畳み傘なんだから、ふたりで使うには小せえんだって」


 粗暴でありながらも優しさが滲み出ているなんて、そんなのずるいではないか。

 あんたは昔からずっと変わらない。

 どうしてそんなに荒っぽい態度で接するくせして、人に親切にするのだ。そんなことされたら、あたしじゃなくたって——。


「なら、あたしを置いて帰ればいいじゃん」


 こんな憎まれ口しかきけない自分に、心底嫌気がさす。

 どうせ漫画みたいに、あんたの反対の肩のほうが濡れているのだ。それでいて、あたしにはもっと傘の中に入れという。そういうキザなことを自然にやってのける。なんて、本当にムカつくやつ。


「バカ、帰れるわけねえだろ。お前の傘、あいつらに渡しちまったんだから」


 馬鹿はどっちだ。バーカ。


「……だってそれは、仕方ないじゃん。あの子たち、ああでもしないとどうにもならないんだから。ちょっとくらい背中押してあげたって——」


「だから、別に斎藤が悪いって責めてんじゃねえっての。俺だってきっと、同じことしたよ」


 そうだ。……いや、違う。

 あたしは、あんただったらそうすると思ったから、あの子らに傘を貸したんだ。

 本当はあの青い傘であんたと一緒に帰りたかった。そのために用意した青い傘なのに、貸したくなんてなかったのに。

 って、なに考えてんだろう。やっぱり馬鹿はあたしだ。

 あの子たちに傘を貸してなければ、あたしはこうして小さな傘の下で、あんたと並んで歩くことなどなかったのだから。




 ああ、あたしのせいだ。


 庇の下に立つあの子たちの姿を一目見て、あたしは作戦の失敗を悟った。完全に見誤った。やつは傘をもっていなかったのだ。

 わざわざ後輩に嘘までつかせて結果はこのざまか。

 ふたりの横を数多の人が素通りしていく。準備のいい連中だ。雨が降ろうが降るまいが、いつだって折り畳み傘を持っているのだろう。

 あたしはとは違う。

 青い傘を買ってからずっと、このにわか雨を心待ちにしていたのだ。いつも持ち歩いているわけにもいかないし、雨の日に持っていたところで肝心の効力を発揮しない。特別な傘なのだ。唐突な雨が必要だったのだ。

 だからあたしは、ふたりに力を貸すわけにはいかなかった。


 ロビーでにわか雨が通り過ぎるのを待つ連中に混じって、あたしだけが大きな青い傘を持っていた。時々、いぶかしげな視線をあたしに向けるものもいたが、一瞥いちべつをくれれば大抵は目をらした。

 あたしには昔から、ある種の迫力があるらしい。

 そうして十数人はやり過ごしただろうか、あたしの待ち侘びた人が、ようやく現れた。


「よっ。なにしてんだ」


 あんたの声を聞いた瞬間、心の犬尻尾いぬしっぽが全力で左右に振れるのを感じた。だが、語調にそれが表れぬよう、細心の注意を払って返事をするのが常だった。


「よっ。……ほら、あの子たち」


 あたしの視線をたどるように、あんたはロビーのガラスの向こう側に立つふたりの姿をとらえた。


「あー、あれか」


 ふたりの立ち尽くす様子を見ただけで、概ね理解したようだった。

 こうして何度か水曜日に会ううちに、あたしとあんたとで共通認識ができあがっていた。

 あの子たちは好き合っている。なのに、まったく進展する様子はない。

 冷めたような雰囲気のあるあたしの後輩ちゃんと、独特のオーラを放つあんたの後輩くん。

 後輩、といっても四人は同い年で、何度かランチを共にしたり飲みに行ったりするうち、なんとなく居心地の良い関係になっていた。もっとずっと昔から一緒に過ごしてきたみたいな、そういう感覚。

 だから、ふたりのことは応援しているし、力を貸したいのは山々だけど、……この傘だけは。


「貸してやるんだろ」


 と、中村は簡単に言ってのける。

 馬鹿。

 どうしてあたしが青い傘を持っているかも、この傘にこだわる理由も知らないくせして。

 馬鹿。馬鹿。


 バーカ……。




 小学校五六年は、あんたとは違うクラスだった。それでも体育委員で毎週顔を合わせていたし、委員会の後には互いに罵り合いながらも一緒に帰るのが習慣になっていたから、ちょっと寂しさは感じたけど、大きな不満はなかった。

 その日は夕方から雨が降る予報だった。六時間目が終わる頃には窓の外の空に分厚い雲が垂れているのが見え、委員会の仕事が片付くと、ぽつぽつと天井を打つ雨音が聞こえ始めた。


「雨降るから、さっさと帰るぞ!」


 あんたはあたしに対して言うでもなく、委員で残っていた全員に聞こえるようにそう言った。

 それぞれ教室に戻り、体操着から私服に着替えて、一階の昇降口へと下りていく。

 体育委員のその日の仕事は体育館の倉庫の片付けで、あたしの教室は体育館からも昇降口からも一番近い一組、あんたは一番遠い三組だから、さっさと着替えて下駄箱に先回りしてのんびり上履きと靴を履き替えて待てばいい、そう思っていた。


 教室に戻ると、図書委員のクラスメイトが残っていた。

 六年に転校してきて、中学の入学に合わせてまた転校するという噂の子だった。

 肩には届かない程度の長い黒髪に、やや切長の目の奥には小鹿のような潤んだ瞳、その白く丸い頬には微かに赤が滲んでいた。

 もし彼が女子であれば、あたしはこんなふうに嫉妬と憧憬のあやなす不思議な感慨に浸ることもなかっただろう。

 湿気でうねることもなく、さらさらとした艶のある真っ直ぐに垂れる髪の隙間から、かすかに耳が見えた。思わずドキリとした。少年であることが彼の美しさをより一層際立たせていた。

 彼のゆるゆる動く姿は見ていてもどかしくもあり、なんとなくあたしを落ち着かなくさせた。

 雨が強くなり始めていた。


「さっさと帰った方がいいよ。雨、強くなってきたから」


「うん。ありがとう。もう帰るところだから」


「なら良いけど」


 体操着の上から私服に着替えて、中から脱いだ。

 誰もいなければなにも気にすることなくばっと脱いでしまうけど、さすがに彼の前では憚られた。女のような見た目でも、男なのだ。

 あたしが着替え終える頃には、彼も帰り支度を終えていた。


「じゃあ、また明日」


「うん」


 あたしは一足先に教室を後にして、あんたを待ち伏せるべく、三階の教室から一階の昇降口へと駆けおりた。

 あんたはまだ到着していなかった。

 階段から足音が聞こえるものの、あんたのものではないのがわかる。一音一音確かめるような慎重な歩みは、体育委員の誰のものでもない。

 下駄箱で振り返って、音の鳴る方を見やった。

 図書委員の彼だった。

 そしてあたしが気まずさを感じる隙もなく、それを追いかけるようながさつな足音——ターン、ターンと響く断続的な高い音が近づいてきた。あんたの駆ける足音を、あたしが聞き違えるわけがなかった。

 図書委員の彼が一階の廊下を斜めに横切って、あたしのいる下駄箱へと真っ直ぐに近づいてきた。

 それを追いかけるようにターン、ターンという軽快な音も近づく。踊り場にあんたの姿をみとめた。と思うなり、あんたは高く飛んだ。図書委員も、地面を蹴る歯切れの良いパンッという音に驚いたのか、階段の方を振り返った。あんたは、十段近くある階段をひとっ飛びに越えた。

 重力なんて無視して雲の上まで高く飛んで、雨と一緒に西の空に沈む太陽を眺めでもするのだろう。そう思った。そうして何度もあんたはあたしを置き去りにする。あたしは、あんたが落ちてくるなんて信じなかった。跳躍は落下の必然性が感じられないほど美しく、一瞬の光景が写真のようにくっきりとした輪郭をもって脳裏に焼き付いた。その瞬間をさっきのことのように思い出せるのは、何度も反芻するように、過去のその一点をあんたを通じて見たからだった。

 だが、あたしが落ちてこないと信じたからといって、自然の摂理はあんたをゆるしはしなかった。当然ながら落ちた。いや、落ちただけではすまなかった。

 一階の廊下に勢いよく着地したかと思えば、勢い止まらず足だけが前に滑って、上半身が置き去りのまま、あんたのからだはくるりと半回転し、背中から床に強く叩きつけられた。


「あっ」


 と、あたしと図書委員の声が重なり、誰もいない廊下に響いた。


「中村!」


 あたしは思わず叫んだ。

 図書委員の立つ足元に、あんたが仰向けなって横たわってぴくりとも動かない。死んだのかと思った。馬鹿げでいるが、その瞬間は本当にそんな風に思った。その場に釘付けになり、一歩も動けなかった。

 図書委員も一瞬、あまりの光景に目を見張って棒立ちになっていたが、すぐに気を取り直したのか、廊下に横たわるあんたに手を差し伸べた。

 あんたは図書委員の手をつかみ、立ち上がった。どこも怪我はないようで、安心してあたしが駆け寄ろうとした、その時だった。

 図書委員をぼんやりと見入るあんたの眼差しは、ずっと一緒にいたはずのあたしが一度だって見たことのないものだった。

 あたしの足が再び止まった。

 図書委員があんたになにか声をかけた。だが、あんたはそれを聞いているのかもわからず、惚けたようなうつろな表情を浮かべたまま、陶磁器のように白く透けた腕をつかんで離そうとはしなかった。そうしてつかむあんたの腕はよく日に焼けて黒く、ふたりで見事なコントラストを成していた。

 そこには、あたしの近づき難いなにかがあった。


「じゃあ、一緒に帰る?」


 図書委員の声がかすかに聞こえ、あんたが黙って頷くのが見えた。あたしは慌てて昇降口の外の、彼らから見えない死角に隠れた。ふたりが出てきた。ふたりは青い傘のしたで身を寄せ合っていた。

 図書委員のランドセルは茶、というより赤に近い色だった。前の私立小学校で使っていた指定のランドセルで、校章の刻印も施されていた。一方あんたは黒。肌も黒。でも、あんたが着ていたサッカークラブのジャージーだけは、綺麗な藤色だった。

 あたしは雨の中、ふたりの後ろ姿を見えなくなるまでずっと眺めていた。校門を出てふたりの姿がフェンスで隠れても、その上に覗く青い傘を眺めていた。やがてそれも消えた。すっかり濡れ鼠だった。

 翌日、あたしは風邪をひいていた。



 あれがあんたの初恋だ。

 大人になってからだと思う。あんたは、あたしがどんな思いをするかも考えもせずに、何度もその時のことをあたしに聞かせた。知ってるよ、あたしだってそこにいたんだから。そして、あたしの存在すら目に映らぬほど、憎らしいほどに、あんたはただひとりを見ていたのだから。

 あんたの初恋が実らなかったのには、いくつか理由がある。

 男同士だったこと。図書委員が髪を切って、雰囲気がまるで変わったこと。体育委員と図書委員の終わる時間が同じだったのはあの日だけだったこと。彼が噂通り中学入学と同時に転校したこと。

 すぐ後に一度、あんたに訊かれたことがあった。


「この学校でさ、ショートで鋭い目つきで、肌の白い女子、知らない?」


「そんなのたくさんいるでしょ」


「まあ、そうだよな」


 あんたが探しているのが彼だと知っていた。言えなかった。途端に、えもいわれぬ美しさが壊れてしまうと思ったから。


 あたしは青い傘を買うことを決めた。それが、美しい光景を壊さないままあたしのものにするための、唯一つの手段に思えたから。





「にしてもお前の傘、どうして青なんだ」


 と、素朴な偏見を隠しもせずに、あんたは言った。


「あたし、好きなんだ」


 と、少し力を込めて、あたしは言った。


「そりゃ初耳だな」


「ん。長い付き合いなのに、知らなかったの」


「うん。今知った。ああ、でも。俺も好きだよ、青い傘!」


 あんたが傘の下で、梅雨の晴れ間のように笑った。

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