「あの子たち、なにしてんだろう」


 自分たちのことを棚に上げて、斎藤はさらりとそんなことを言った。

 俺たちはガラス越しに、正面口の庇ぎりぎりに立つふたりの同僚を見ていた。彼らはぼうと、灰色の空を仰いでいる。


「なんだろな。ふたりして、ぼんやり暗い空を眺めてら」


 ふたりの横を、折り畳み傘を持った人々が通り過ぎていく。


「……傘、忘れたのかもね」


 唐突に降り始めた雨は、誰も予想してはいなかった。

 天気予報は見事に外れた。

 という言葉に違和感を抱きながらも、俺は特に指摘する気にもならない。

 エアコンのよく効いたロビーにいるのに、シャツがぺたぺたと肌にはりついて気持ち悪かった。空気の肌触りが変わったからといって、天気の変化を先読みしてしまうのは、目の前の彼女くらいのものだ。

 斎藤の手には、青い傘が握られていた。



 定時に仕事を終え、エレベーターで一階へ下りた。

 セキュリティゲートを抜けた先のロビーには、レセプション用の端末が整然と並び、朝の十時から午後の五時まで休みなく稼働している。

 普段はその前を足早に素通りする人々が、今日に限ってはにわか雨に足止めを食っていた。

 傘を持っている人は少ない。

 折り畳み傘を用意していた面々が勝ち誇ったように正面の自動ドアから出ていく。アプリでタクシーを呼ぶなり、近くのコンビニまで駆け込むなりして、迷いなく対処する人もいる。

 大半の人は、スマホをいじりながらにわか雨をやり過ごそうとしていたため、ロビーではちょっとした人集りができていた。

 一際目立つ背の高い女性が目に止まった。

 スカートの下にのぞくふくらはぎは現役時代を彷彿とさせるが、実際はあのころよりもずっと細い。

 上半身も一回り小さくなったが、がっちりとした肩幅はそれでも近くを歩く女性の比ではない。

 かといって、男性的なからだの線からは程遠く、しっかりとした体躯ながらも、女性的なしなやかさを備えている。


 ——斎藤だ。


 約束するでもなく、いつもこうして偶然会っては一緒に帰ることがあった。

 会うのはノー残業デーの水曜日。大抵の場合、俺が彼女を見つけて声を掛ける。なにせ、彼女が俺を見つけるよりも、俺が彼女を見つける方がずっと簡単だからだ。

 高身長で、威圧的とも思える鋭い視線、筋の通った鼻梁に薄い唇、モデルにスカウトされたことがあるという噂も嘘ではないのだろう。

 長い付き合いのせいで時々忘れてしまうが、どこからどう見ても美人の類だった。



「まあ、こんな天気になるなんて誰もわからなかったろうな」


 ヒールを履いた斎藤と俺は、ちょうど視線が同じ高さになる。ちらと横を見やると、彼女はまだ庇の下のふたりをじっと見つめていた。


「天気予報なんて、信じるもんじゃないよ」


 天気予報を信じた大勢の人が雨宿りするなか、堂々とそんなことを言ってのける。抜けているというか、ズレているというか、周囲の視線など物ともせずに、思うがままに自分を貫いている。


「そゆもんか。っていうかなんでお前は傘持ってんだよ」


「朝起きて窓開けたら、今日は夕方に雨降りそうな空気だなって思ったから」


「え、なにそれ」


 長く一緒にいても、他人にはわからないことがたくさんある。

 週半ばの水曜日。

 空から垂れる重たい雲のせいか、人々の表情には影がさして見えた。明日も仕事。明後日も仕事。多くの人は気が滅入るものなのだろう。

 だが、隣の斎藤だけはその他大勢とは違っていた。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、外で立ち尽くすふたりの同僚を見ている。仕事が彼女を憂鬱にするのではない。

 じゃあ、どうして斎藤はそんな顔してあのふたりを見つめているのだろう。こんな時、俺は彼女にどんな言葉を掛けてやれるのだ。

 悔しそうに顔を歪める斎藤を見たのは、これで二度目だった。



 斎藤と俺は、いわゆる腐れ縁だ。俺にとって斎藤は良きライバルで、彼女の方でもいくらか張り合いがあったのではないかと思う。

 小中高は地元の学校で、斎藤以外にも十人以上の同級生が幼少期からの顔見知りだった。

 小学生の頃は仲が良かった。というより、男女の喧嘩の中心は、いつだって俺と斎藤だった。俺が悪口を言って、斎藤は黙って俺を蹴飛ばした。そんな小学生同士のありふれた喧嘩を毎日のように飽きもせずに繰り返すうち、あっという間に六年間が過ぎ去った。

 中学では三年間同じクラスだったものの、少し距離ができた。

 互いに思春期の男女の恥ずかしさもあったが、それ以上に、俺はクラブチームでのサッカーに専念していたし、斎藤は小学校からやっているテニスに熱心だった。

 彼女は全中でベストフォーという快挙を成し遂げ、二学期の始業式で表彰された。

 大きく水をあけられた。そう思った。

 所属クラブは県決勝で敗退、県トレセンの大会でも目立った結果は出せなかったし、地方トレセンに選ばれることもなかった。

 壇上で堂々と胸を張って立つ彼女を目にして、思わず歯噛みした。まだ夏は終わってもいないというのに、体育館の床がいやに冷たく感じた。俺はまだ、なにも成し遂げていなかった。

 今になって思い返してみると、スランプに陥っていたのだろう。中学三年間は俺にとって不遇のときで、彼女にとっては栄光のときだった。それだけのことなのに、壇上に立つ斎藤をとてつもなく遠く感じた。

 高校はサッカー推薦で入学した。不遇とはいったが、県トレセンともなれば自然と声がかかる。地元の進学校ということもあり、斎藤の方は普通入試で入学した。テニスで引く手数多だったはずだが、平易な道を選ばないのが彼女の不思議なところだ。わざわざ難関進学校に、一般受験で入学した。

 しかも彼女は、高校に入ってあっさりテニスを辞めてしまった。そしてなにを思ったのか、女子サッカー部を作ると言い出した。まったくのゼロから。独力で。


「そうはいっても、簡単なことじゃねえぞ」


 俺は少し苛立ちながら言った。斎藤にはテニスの才能がある。結果も出した。なのに、どうしてサッカーなんだ。


「……あんたがずっと夢中になってやってるから、球蹴りってのがどんなもんか、あたしもやってみたくなったんだよ」


 口数の多くない斎藤が悔しそうに唇を噛み締めながら、必死に絞り出した言葉だった。理由がわからない、脈絡もない唐突な宣言でも、彼女が真剣であることだけはわかった。


「そっか」


 。そんなのずっとやってきた俺にだってわからないのに、お前にわかってたまるか。

 怒りと同時に、自分のなかにわだかまっていた感情が、パンと音を立てて弾けるような気がした。球蹴りってのがどんなもんか。いつの間にか見失っていたのは自分だったのだ。

 

 斎藤は入学してたった二ヶ月足らずで、女子サッカー部の創部にこぎつけた。創部に必要な最低人数の五人で練習を始めた。

 雨の日は男子サッカー部が屋内練習になるため、女子サッカー部がグラウンドを使った。時々廊下で斎藤に会うと、こんなことを言われる日があった。


「今日、グラウンド借りるよ」


 天気予報より、斎藤の言葉の方が高確率で当たる。その日は必ず雨が降るのだから。そうして雨の中、女子サッカー部はグラウンドで練習をした。


 女子サッカー部が公式戦に出るには最低でも七人が必要で、入部希望者を募り続けて、夏には掛け持ちも合わせて九人が集まり、十一人には足りないながらもはじめて公式戦に出場した。

 野球のスコアのような大敗だった。だがそれは、斎藤にとっては単なる出発点に過ぎなかった。

 一年目の選手権の予選は九人のまま出場し、当然ながら一回戦敗退だった。

 二年目は春に新入部員を四人迎え、さらには掛け持ちだった陸上部と吹奏楽部の二人も正式に加わり、純粋に十一人が揃った。夏のインハイ予選で公式戦初勝利を果たした。

 三年目。部員はさらに増え、夏のインハイ予選では二勝で惜しくも準優勝を果たす。そして冬の選手権予選、彼女たちはついに県大会で優勝し、地方大会への出場権を獲得した。快挙だった。

 ここで潮目が変わった。

 誰もが関心すら持たなかった女子サッカー部が結果を出した途端、あっという間に悪口の対象になった。

 県内に四チームしかないんだから試合しなくたってベストフォーじゃねえか、まじそれな、あの素人集団で勝てるくらいのレベルだしな、と校内で女子サッカー部を馬鹿にする声を聞くようになった。

 嫉妬心。

 俺にもよくわかる。壇上の斎藤を見た時に感じた体育館の床の冷たさをいまだに忘れられないのも、彼女に烈しく嫉妬したからだ。


「球蹴りってのがどんなもんか、あたしもやってみたくなったんだよ」


 この言葉が俺の背中を押した。

 サッカーは生半可な気持ちで始めて上達するほど甘いスポーツではない。斎藤だけでなく、彼女以外の選手もまた、男子サッカー部に勝るとも劣らない努力をしたのだ。

 県優勝という結果は、絶対的な証明だった。県下で四チームとはいえ、勝ち抜く難しさはある。チーム数や試合数の問題ではない。真剣勝負はいつだってギリギリのしのぎけずり合いなのだ。それがわかるものだけが、校内で彼女たちを嘲ったりはしなかった。


「あんたが夢中になる理由、あたしにもわかったよ」


 ああ、そうだ。お前がそう言わなかったらきっと俺は。俺ももしかしたら、お前たちを馬鹿にするつまらない連中の一人になっていたのかもしれない。いつまでもスランプから抜け出せずに、今ではサッカーというスポーツを憎んでいたかもしれない。

 なのに、それなのに。俺にはわからなかった。お前がそんなふうに悔しそうに、かたく唇を噛む理由が。あの時も、今も——。



「傘、貸すんだろ」


 斎藤の持つ大きな青い傘は、ふたりで入るのにちょうど良さそうだった。あいつもあの子も、俺たちのようにでかい図体ずうたいはしていない。

 そもそも、それくらいのことをしてやらないと、彼らの関係は一向に進展しないだろう。そう思っているのは俺だけではなかったらしい。


 斎藤はちらとも視線をこちらに向けることすらせず、うんとうなずいた。そのままふたりの元へと駆ける彼女の背中に、俺は呼びかけた。


「折り畳み傘持ってるから。ふたりで帰ろう」


 斎藤は足を止めた。彼女がどんな表情でその言葉を聞いたか、俺にはわからない。わからない。わからないけど、もう一度だけ、うんと頷くのがわかった。

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