アーノルド・パーマーがプロゴルファーの名前だと知ったのは、大人になってからのことだった。

 食堂の窓際の席に、ガガガっと椅子の脚と床の擦れる音が鳴り響いた。昼の最も混雑する時間帯でも少し耳障りなくらいのその音は、一瞬だけ周囲の注目を集めた。


「あの傘、アーノルドパーマーみたいだな」


 23階の食堂から見下ろした通りを揺れながら渡る傘は、まるで黒いアスファルトを泳ぐ魚のように、色鮮やかな光彩を放っていた。

 対岸にぴょんと跳ね上がると、赤と黄色と緑が、黒や紺の傘の隙間を縫ってすいすいと泳ぐように駅へ向かい、やがてビルのかげに消えた。

 中村さんはストンと椅子に座ると、テーブルに置いたA定食を乱暴に引き寄せた。味噌汁がこぼれた。濡れたままのお椀をつかむと、ズズズッと音を立ててすすった。


「お疲れ様です」


「お疲れ」


 先週までおろしていた長い髪をばっさりと切ったのだろう、整髪料でピシッと立った前髪が彼のさわやかな印象をより強めていた。

 日に焼けた肌のひたいだけがかすかに色が薄く、青いすじが立っている。梅雨に入ってから、急激に蒸し暑くなった。肘の上までまくり上げたそでからのぞく腕にも、太い血管が浮き上がっていた。

 味噌汁を啜った中村さんは、プハーっと熱い息を吐きだした。仕事終わりのビールか、と突っ込みを入れたくなるのを、僕は我慢した。


「アーノルドパーマーですか」


「ポロシャツとかあるだろ。あれのロゴみたいな傘だなって。赤、黄色、白、緑」


「ああ、あれですね」


 と相槌あいづちを打ちながら、スマホでアーノルドパーマーを調べてみると、色鮮やかな傘のロゴマークが画面を埋めた。


「うんそう、あれ」


 吹き付ける風が時々、雨粒を窓ガラスに叩きつけては散らした。

 霧状に細かくなった水滴はビルの周囲を巻く風に乗ってふたたび高くのぼって、またまとまりになって落ちて、風に吹かれ、粉々に光る。


「雨、好きなのか」


「どうでしょう。まあ、さほど嫌いではないですかね」


「俺はなかなか好きなんだよ。ちょっとした思い出があってな」


 こんな会話の流れで、たとえば君が話し相手なら、「それはどんな思い出ですか?」と自然と訊くと思う。

 他の誰かであれば少し躊躇ためらってから「どんな思い出ですか。ぜひ聞かせてください」とでも言ってみるだろう。

 そして、相手が中村さんの場合。僕は微塵みじんも気を置かず時も置かず、こう答える。


「へえ。そうなんですね」


 その返答を期待していたかのように、彼はにやりと笑った。


 これは僕と中村さんとの間だけで成り立つ阿吽あうんの呼吸。

 片方が投げかけ、もう一方がかわす。彼は好きに投げ続けることができる。僕は好きにかわし続けることができる。

 互いが互いを縛ることのない、とても自由な遊びだった。

 

「六年生の頃のことなんだ。うち、母ちゃんがうるさくって、天気が崩れそうな日は必ず折り畳み傘を持たされるっていう家だったんだわ」


 中村さんは意外にも丁寧に魚の骨を取り除き、箸で身をほぐして食べた。時々そういう違った一面を見るととみに驚かされるが、きが来なくて良い。


「だからさ、雨の日に傘を忘れるってことがなかったんだ」


 一層と強く降り頻る雨は窓の外で弾け、無数の霧になって視界を覆った。こんな日に限ってなぜか僕は、鈍色にびいろの空の向こう側にある見えるはずのない星々を想像する。

 デネブアルタイルベガ、シリウスベテルギウスプロキオン、カストルポルックス、スピカ、アンタレス、レグス。

 そうして僕はふと、君の顔を思い浮かべた。


「でも、一度だけ濡れて帰った日があった」


「どうしてですか?」


 珍しく興味を持つ僕に、中村さんは一瞬だけ怪訝けげんな表情を見せた。彼はボリボリとほほいてから、恥ずかしそうに苦笑した。


「体育委員で用具倉庫の掃除をした日のことだった。

 委員で居残りしていたのはクラスの中で俺だけで、教室に戻ったら誰もいなかった。

 雨が降るってのはもちろん知ってたよ。朝、母ちゃんに傘を持たされたからな。お天気のお兄さんが言ってたとかなんとか、うるさいのなんのって。

 窓の外はもう暗かった。それほど遅い時間ではなかったと思う。空をおおう分厚い雲が日差しをさえぎってたんだろう。真っ暗というほどじゃないけど、教室の窓から見る中庭に、人がいるかどうかもわからないくらいだった。雨はすでに降り始めていた。

 急いで帰らなきゃ。そう思って、すぐに体操着から着替えて、ランドセルを持って三階の教室から一階の昇降口まで一気に駆けおりた」


 徐々に興が乗ってきたらしい。が、ここで話頭わとうが急転回した。


「俺は四歳の頃からサッカーをやってて、運動神経にはちょっと自信があった。

 県大会ベストフォーの強豪クラブでずっとレギュラーだったし、トレセンにも選ばれた。

 サッカーは高校まで続けて、県の決勝で負けた。大学でも続けたかったけど、膝をやっちまってな。

 サッカーできないくらいなら、進学はやめて就職にするって言ったらさ、母ちゃんがせめて短大に行ってくれっつってな。

 で、短大卒でこの会社。まあ仕事でサッカーに関われるってのが決め手だったんだよ。短大とこの会社とのつながりを高校の同級生が教えてくれてな。斎藤っていうんだけど、お前、会ったことあるっけか。あいつも同じ会社だよ」


「知ってますよ。話したことも何度かあります。で、教室から急いで一階までおりたって話はどうなったんですか」


 かじを切り直してやらないと、またいつれていくかわからない。


「おお、悪いわるい。つい自慢話をしちまうのは俺の悪い癖だな。

 高校の同級生でプロもいるんだぞ。代表にも選ばれた。時々思うんだよな、自分も続けてたらあの舞台に立っていたかもしれないかもな、とか」


 こういうつまらない話をするのは、中村さんだけではない。

 昔取った杵柄きねづかといわんばかりに自分の過去を披瀝ひれきする連中は、一様にその尊敬を失う。

 多くの人はたびたび聞かされる他人の過去の栄光について、いつも思うのだ。

 あんたがどれほどすごかったかなんて興味ねえわ。で、今目の前にいるあんたにいったいなにができるんだ。あんたはいったいどんな人間なんだ、と。正直、「だった」で語られる過去には皆、辟易へきえきしている。


 だけど僕は、中村さんが嫌いじゃない。


 彼の語る過去は今に向かって真っ直ぐに繋がっている。彼が過去を語るときは同時に今を語っている。今彼がしていること。できなかったこと、これからしたいこと。自慢と後悔の混ざり合った、サッカーに対する真摯しんしな情熱が感じられる。

 僕は毎日となりで、彼の働く姿を横で見ているのだ。


 彼と僕は同い年。


 でも、尊敬できる。不遜に聞こえるかもしれないが、僕ははじめて、同い年の人を尊敬した。彼はそれに値する。


 僕は、中村さんが嫌いじゃない。だが——。


「また話が逸れてますよ。サッカーの話じゃないんでしょう。雨の話でしょう」


「それな。えっと、どこまで話したっけ」


「体育委員で遅くまで残っていて、教室には誰もいなくて、外が暗くて、早く帰らなきゃ、ってところまでです」


「ハハ、要約ありがとう」


 中村さんはあきれたような笑みを浮かべた。なにを呆れている、呆れているのはこっちだぞ。と言いたいのを我慢して、沈黙で話をうながした。


「着替え終わって、荷物をまとめて、俺は教室を飛び出した。二教室分の廊下を駆けて、階段は全部三段飛ばし、そうして最後の三段から跳躍した直後だった。一階の床で見事に滑って、背中からバーンと地面に叩きつけられたんだ」


「……散々な思い出じゃないですか」


「アハハハハハ。そうだろ」


 中村さんは朗らかな声をあげて笑った。彼に雨の話は似合わない。言葉の向こうに見えるのは常に、晴れた空だけだった。


「といっても、ランドセル背負ってたからなんともなかったんだけどな。体操着とかが入ってたおかげかもしれない。頭も打たなかったし、少しの怪我もしなかった。

 でも、あまりのことでびっくりしてさ。仰向けになったまましばらくは天井の蛍光灯をじっと見てたんだよ。馬鹿みたいに。

 ああヤバい。そう思った時って不思議と時間がゆっくり流れるだろ。その『ああヤバい』っていう時間を何度も頭のなかで反芻はんすうしてたんだろうな」


 中村さんは遠くを見るような目で窓の外を眺めた。篠突しのつく雨はいまだに、僕たちの視界を暗く閉ざしていた。


「……その時さ、蛍光灯の光のなかから急に白い腕が伸びてきたんだ。陳腐ちんぷな表現だけどさ、天使かって思ったよ。自分は死んだのかって。なのに、ちっとも怖くはなかった。

 俺は自然と手を伸ばして、その手を握りしめていた。細く柔らかな指が濡れていた。

 で、唐突にもう片方の手で、俺の腕がつかまれた。

 俺と同じくらいの身長の女子が、必死に俺の体を引っ張り起こそうとしていたんだ。ようやく俺は、自分がまだ生きてるんだって気がついたんだ」


「雨の思い出って、あんまり雨は関係ないじゃないですか」


「まあ慌てるなって。話はまだ終わってない」


「……で、それからどうしたんですか」


「彼女の手には青い傘が握られてた。女子なのにって思ったから、よく覚えている。昇降口のドアの外は土砂降り。一階の床が滑ったのもきっと、誰かが傘でも振り回して水で濡らしちまったんだろう。

 教室の窓から外を見た時はまだそれほど降ってなかったように見えたんだけどな。仰向あおむけで天井を眺めているうちに強く降り出したのかもな。

 立ち上がった俺と彼女はしばらく黙って見つめ合っていた。俺はいつまでも彼女の手を離せないまま、ただ突っ立っていた。

 彼女が『ねえ、傘持ってる?』って訊いてきたもんだから、俺はあわててブンブンと首を横に振った。『家、どっち?』って尋ねられて、駅の方って答えると、『じゃあ途中まで入ってく?』だってさ。

 あれが俺の初恋だったのかもしれない。雨が降るたびにそんなことを思うんだよな。まあ、顔も名前も覚えてないけど」


 女子が青い傘を持っていると、どうして変わっていることになるのだろう。青い傘、ではないか。


「でも中村さん、傘持ってたんじゃないですか?」


「持ってたよ。俺も、青の折り畳み傘。でも、持ってるって言えなかったんだよな」


「嘘ついたんですか」


「ああ。嘘ついた」


「そうですか」


「ああ」



 僕は、中村さんの嘘の意味を知らなかった。翌週のよく晴れた水曜日の予期せぬ夕方のにわか雨で、君が教えてくれるまでは。

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