幼い頃、私はよく周囲の子供達に馬鹿にされた。薄い雨の降る穏やかな季節に、空のかわりに青い傘をさしていたのだ。


「青い傘なんて、なんか男の子みたい」

「女のくせに青い傘だって。変なの」


 今でこそ、好きな色が青だというのに恥ずかしさは感じない。

 当時はそれだけのことでクラスメイトにからかわれ、聞き流してしまえばいいはずの些細ささいな言葉に、私は何度もいたたまれなさを感じた。


 男の子は青。

 女の子はピンク。


 ——そんなの馬鹿みたい。



 窮屈きゅうくつな時代はとうに過ぎ去り、傘もランドセルも長靴もカラフルになり、誰もが好きな色を選べるようになったらしい。

 雨の日には会社近くの通りが、通学中の小学生の、花の咲くような色鮮やかな傘で埋め尽くされる。

 そうして社会は変わりゆき、今では昔の私のようにくだらないことで心を悩ます子供はいなくなった……わけがない。


 世界は偏見へんけんに満ちている。


 連日ニュースで差別の話題を聞かない日はない。ある国では肌の色を理由に人々が拘束された挙句に殺され、別の国では民族や宗教の違いを理由に戦争をし、さらに別の国では性的指向を理由に人間としての当然の権利が剥奪される。


 でも、私は世の中には変えなければならないことがたくさんあるだとか、自由で平等な社会の実現には各個人が自覚的かつ積極的に行動する必要があるだとか、大それたことをのたまうつもりはない。

 偏見がいけないことだとか、そんなことが言いたいわけでもない、というよりも、それほど悪いことだとすら思っていない。(正確には、かたよりやゆがみのはらむ悪の性質以上に、それが暴力に変遷へんせんする過程こそが問題だと思う。)


 だって。私が青い傘を捨てなかったのは、たった一人、君だけがその傘をめてくれたからだった。


「へー。青い傘、かっこいいね」


 その一言が、傘の下を明るく照らした。


 きっとそれは、世界がいびつで偏見に満ちているからこそ生まれ落ちた、はかない言葉なのだった。

 歪でなければ、偏りがなければ、君はそんなふうに言わなかったし、私だって青い傘なんて差してはいなかった。

 私は君とは違う。君は私とは違う。幼いながらにそんな当たり前のことに気付かされたのは、君と出会ったからだと思う。


 私は特別に、君にだけ傘の内側に描かれた星空を見せた。


 青い傘の内側には、四季折々の星座がちりばめられた、そこにしかない夜が描かれていた。私と君は、夏の大三角形と冬の大三角形が同時に見られる夜空を、ふたりだけで独占した。

 デネブアルタイルベガ、シリウスベテルギウスプロキオンだけじゃない。カストルにポルックス、スピカ、アンタレス、レグス、エトセトラエトセトラ。アルファベットで書かれた星の名前の読み方は、すべて君が教えてくれた。

 春夏秋冬まじりあった星空を見ても君は、変だとは言わない。変だとは言わないと知っていたから、私は見せた。


 空はひとつだから。


 と君は言った。

 立っている場所から見えているか、見えていないか、ただそれだけの違いだと。夏の夜空も冬の夜空も同じ空で、ひとつづきに繋がっている。違う場所から同じ空を見ていたり、同じ場所から違う空を見ていたり、と。いずれにしても、おなじ宇宙のなかで、星が巡り、さまようだけなのだ、と。


 ——これが私の初恋だった。



「でもさ、そんな昔のことよく覚えてるね。初恋がどれだったかなんて、あたしはとっくに忘れちゃったよ」


 斎藤先輩の朗らかな声は騒がしい食堂でもよく通る。、という言葉には、いつもよりどこか力がこもっていた。


 十一時に開く食堂は開店直後にひとつ目の混雑の波をむかえ、十一時半ごろに一旦はいてくる。そして十二時ごろになるとふたつ目の波を迎え、ランチ終わりの十四時ぎりぎりに、ふたたび急速に空いてくる。

 狙い目は二つ。十一時半か十四時ぎりぎり。これを教えてくれたのが、斎藤先輩だった。


「で、それが彼となんの関係があるってのさ」


 私は斎藤先輩の、単刀直入なところが好きでもあり、少し苦手でもある。実直でいてどこか粗野なところもまた、好きでもあり、少し苦手でもある。


 コンディメントの置かれたテーブルでサラダにオリーブオイルと岩塩、塩胡椒をかけ、プラスチックの箸を一膳と紙ナプキンを二枚持っていく。ウォーターサーバーでカップを二つ取り、同時に二つに注ぐ。

 よどみなく流れるように軽やかな斎藤先輩。彼女のその無駄のない動きにはじめは驚いたが、今ではそれがここでのなのだと気がついた。

 迷いなく自分の目的に向かって直線的に進む。最短距離を割り出すためにタスクを分解、再構築して、最小の工数で成果物へとたどり着く。

 斎藤先輩の性格は、この会社にぴったりだった。


「彼、私の傘を誉めてくれたんです」


「はあ? 十年以上前の初恋を彼に重ねてるっての? まじかあ、それ。あり得ないわ。あたしがもしそんなことで自分と誰かを重ねられたら、たとえそれが恋じゃなくても、そんなのたまったもんじゃないね」


 と吐き捨てる斎藤先輩は、私のことを馬鹿にしているわけでも、否定しているわけでもない。いや、否定は少ししている。

 私も彼女に共感を求めているのではなく、考えや意見が違うことを確かめるために、自分の感覚をぶつけたのだからかまわない。

 彼女とのそうしたすれ違いや摩擦は、不思議と心地よい。微かな痛みを伴うこともあるにはあるが、私が知りたい、触れたいなにかに近づけてくれる気がする。


 彼女は悪びれる様子もなく、窓際の並びの席の空きを見つけると、私に目配せしてから先を歩いた。私も素直にあとについて歩く。

 手早く席を二つ確保し、まだ追いつかない私にこぶしを握って見せ、勝ち誇ったように微笑ほほえんだ。

 私も彼女に追いつき、席に着いた。


「もちろんそうなんですけどね。多分、順序はそうじゃないんです。以前からなんとなくかれてはいたんですよ。ただ、彼が傘を誉めてくれたことで、初恋のことを思い出したんだと思います」


「ふーん。なるほどね」


 斎藤先輩の興味は別のことに移ったらしい。

 納豆の円形のふたを剥がすと、裏返してトレーに置いた。たれとからしを取り出し、フィルムをめくるときに伸びる糸を丁寧に箸で巻き取っていく。

 斎藤先輩は大雑把でがさつに見えるのに、その所作はとみに美しかった。


 窓の外は透き通るような青空が広がっている。そのせいか、君に傘を誉められた日がずっと遠くに思える。でも、ひとたび雨が降れば——。


「斎藤先輩って、なんでこの会社を選んだんですか」


 斎藤先輩はブフッと飲んでいた水を少し吹き出した。


「おう、これまた唐突だね」


 私が新卒で入社した頃には、そんな話をしなかった。

 朝のエレベーターや昼の食堂の空いている時間のこと、コピー機を上手に他の人にゆずってもらうコツ、混雑しない女子トイレの階。話したのはそんなことばかりだった。


「ごめんなさい。嫌な質問でしたかね」


 私は、斎藤先輩がこの会社を選んだ理由を知っている。なんとなく、ちょっとからかってみたくなっただけだ。


「いいよ、別に」


 急に喉が渇いたのか、彼女はコップ一杯に入れた水を一気に飲み干し、くはあーっと息を吐いた。居酒屋で飲む一杯目のビールか。




 私は斎藤先輩が好きだ。


 変に飾らない。強がらない。少しかっこつけるけどそこも可愛い。そんな彼女は、実は同い年。

 私は四大卒で彼女は短大卒。だからお給料も、すぐに私が追い越す。

 という事情もあってか、ほとんどの短大卒と四代卒は仲良くなれないらしい。それぞれが徒党ととうを組んで憎みあっているか、よくても互いに関わり合いにならないのが関の山だ。

 面倒を嫌う私と先輩だけが集団から弾き出された。

 時々は仲違いの仲介役を頼まれることもあるけど、税金みたいなものだと割り切り、両者の調整弁となる。

 高い税金だよ、と斎藤先輩は嘆くが、私は安いものだと思う。

 この種の闘争は男女問わず会社に限らず、どこにでも存在している。摩擦ゼロで過ごそうというのは虫が良い話で、社会はそのようにはできていない。割り切って小さな摩擦を引き受ける方が、あらがって大きな摩擦を生むよりもずっと楽に生きられる。

 要するに、私も先輩も、人間関係において横着しているのだ。


「つまらない。属性を持って集団にならないと不安でしかたないんだろうね。あたしはそんなのいらない。欲しいのはたった一つだけだから」


「なにが欲しいんですか?」


「……秘密」


 伏し目がちにそらした視線の先に、一人の青年がいた。その時の斎藤先輩ほど可愛い生き物を、私はいまだかつて見たことがない。


 私は斎藤先輩が好きだ。この話をいつか、君としたい。



「今日、雨降るよ。多分夕方に」


 斎藤先輩は矢庭にそんなことを言い出した。会社に入った理由は話してはくれないらしい。あけっぴろげに見えるが、案外秘密主義だ。

 食堂の外の空は晴れ渡っていた。雨が降りそうな気配はない。強いていうなら、ここからは見えない海の方角に、うっすらと灰色の雲がかかっているくらいだ。雨が降るとは思えなかった。


「あいつ、絶対に折り畳み傘とか持ってるよ」


 先輩のいうとは君のことだ。


「私だって持ってますよ」


「違うって。そういうことじゃなくってさ。下で彼と鉢合わせになるようにタイミングを図りなってこと。傘、入れてもらえるでしょ」


「ああ、相合い傘作戦ですね。この前、先輩が話してくれた」


「そう、それそれ。実践してみなよ」


「うーん。そんなうまくいくもんですかねえ」


 私も納豆のフィルムを取ると、エアコンの風に糸がなびいてふわふわとカップの外にはみ出してしまった。

 先輩のように糸をうまくだぐり寄せることができなかった。ホント、そんなうまくいくもんですかねえ。


「うまくいくか、ではなく、うまくいかせる。そういう気持ちで挑みなさい」


 斎藤先輩は最大限の無責任を発揮して、もっともらしいことを言ってのけた。彼女はただ外野からことの成り行きを楽しんでいるだけだ。だけど、ここで彼女の尻馬に乗ってみるのも一興。

 それに、きっと先輩だって——。


「……はい、じゃあやってみますか!」


「そう、その意気だ!」


 斎藤先輩の声が高らかに響き渡った。食堂の人も、いつの間にかまばらになっていた。

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