第4話 一年前の逢瀬
自宅に到着したピンスとルードは室内にある冷蔵庫から飲み物を取り出して一気に飲み干した。
「いつ飲んでも冷たい。どういう仕組みなんだ?」
ピンスは不思議そうにする彼女に初めてではない解説をする。
「冷却の術式を施した魔力結晶を金属製の保管庫に入れているだけだよ」
「私のいた世界でも昔は冷蔵庫に氷を入れていたみたいだから、それに近いんだな」
ルードは一人で納得するものの、そこへある記憶が浮上した。
「そういえば前にもこんな説明を聞いた気がするな」
「僕もそんな気がする。ルードのいた世界だと電気で機械を動かして冷やしてるんだっけ? そんな技術があるなんてすごいじゃないか」
「ああ、私のいた世界には術式や機械を動かすための魔力がないからな。私からすれば魔力の結晶だの術式だのの方もかなり不思議な技術だと思うが」
過去にも酔っ払いながら話した内容を繰り返す二人。ルードは酔いが完全には覚めていないのでまた忘れるかもしれない。
剣を抜けば凛々しい彼女も、今は愛する少年に気を許した一人の少女だった。
彼女の様子にピンスが笑い出すと釣られてルードも笑う。
朝から悲しみが胸に溢れていたピンスもこのときだけは、明日からルードがいなくなることを想像せずに済んで幸せだった。
ひとしきり笑うと、ピンスは夜食を作るために支度をする。
「何を作ってくれるんだ? グラタンか?」
「それは出来上がってからのお楽しみ」
台所に立つピンスの手元を横から覗き込むルードは期待に胸を膨らませる。ピンスは彼女の目元に掌を翳し、視界を遮った。
「先にシャワーを浴びておいで。ルードもお酒飲んで走ったから汗かいたでしょ?」
「もしかして臭うか?」
服や腕のあたりに鼻を近づけて確かめる彼女に、ピンスは補足する。
「そうじゃなくて、汗かいたままだと不快でしょ? って言いたかったの」
「なんだそうか。それならありがたく使わせてもらうぞ」
「いってらっしゃい」
ルードが浴室へと向かうと、彼女が離れて気が緩んだピンスは思わず率直な思いを口にしてしまう。
「まあ、汗かいたルードの匂いも好きだけど……」
「何か言ったか?」
「き、気のせいだよ」
油断して思いの外大きい声で言ってしまったらしい。まだ近くにルードがいたので危なかった。
邪念を振り払うべくピンスは料理に集中する。ルードには内緒だと言ったが実際に作るのは彼女の予想通りグラタンだった。
「ルードはグラタンが大好きだもんね」
元々家に呼んで一緒に食べようと考えていたのであらかじめ料理の下拵えはしてある。
手順を確認しながら調理を始め、グラタンを焼いている間にデザートの果物を切り分けておく。
果物を冷蔵庫に戻すあたりでルードが浴室から出てきた。
「あースッキリした。風呂を貸してくれたお礼に私の愛用している石鹸を使っていいぞ」
冷蔵庫に果物をしまい終えたピンスは上機嫌な彼女の方へと振り向く。
「石鹸て、あのハマナスみたいな香りがするやつ? って服きなよっ」
元々スタイルのいいルードは湯上がりなことも相まって艶美だ。
ルードが「おっと」と言いながら当然のように部屋に置いてある寝巻きへと着替え始める。
ピンスの部屋に彼女の着替えがあるのはルードがこの街に来たばかりの頃に同棲していたためだ。しばらくして別居するようになったが、別々に暮らしている今でもルードの着替えなどは部屋に多少残っている。
「それにしても。どうして私の石鹸のことなんて知ってたんだ? 使ってたのか?」
私物についてまで知っている相棒の技師に、彼女は怪訝といより純粋な疑問を抱く。
「僕が最初にあげた石鹸もハマナスみたいな香りの石鹸だったでしょ。それに、いつも近くにいるとルードからハマナスみたいな匂いがするから今でも使ってるのかと思ってさ」
「なんだ。まだ同じ種類の石鹸を使い続けてるって知ってたのか」
疑問が解消したルードは台所の匂いに気がつく。
「匂いといえば、これはグラタンか?」
「ありゃ、まだ完成してないのにバレちゃったか」
「わかってしまうとも。私はピンスのグラタンがこの世界で一番好きな料理だからな」
「ふふっ、ありがと」
言い合っているうちに焼き上がったグラタンを取り出してテーブルに置く。
「ごめん。僕も汗を流してくるよ。先に食べてて」
「待ってるからゆっくり入ってきていいぞ」
ルードの言葉を聞きながら浴室に入って汗を流す。ルードが使った石鹸の影響か、室内にはハマナスの香りが微かに残っている。
魔力を燃焼して温められたお湯がチューブ先のノズルから流れ出て、気が付かないうちに外気と汗で冷やされた体を温めた。
視線を移せば棚にはルードの愛用する石鹸が置かれている。
「ちょっと借りちゃお」
布で石鹸を泡立てながら体を擦っていく。次第にハマナスの香りが広がってきて、ピンスの鼻腔をくすぐった。
「これと同じ石鹸を使うたびにルードを思い出しそうだな」
そんなことを考えながら、ピンスは体を洗い終えて浴室を出る。
テーブルの前では椅子に座ったルードがカップに飲み物を注いで待っていた。
彼女はピンスを見るとすかさず近寄って匂いを嗅いぐ。
「おっ、使ったな」
「せっかくだしね」
見ればテーブルの上のグラタンは手付かずのまま。
「先に食べてても良かったんだよ」
「一緒に食べたかったんだ」
「そうか。僕もだよ。待っててくれてありがと」
二人で席へついてグラタンを皿にわけ合う。
いざ食べ始めるとルードは一口目で満面の笑みだ。
「うむ、美味い。ピンスの作るグラタンは最高だな。世界一だぞ」
「流石に褒めすぎじゃないかな」
良くできたとは思うが、世界一かどうかは作った本人にもわからない。それでもルードが喜んでくれるのは素直に嬉しかった。
ルードはよほど気に入ったのか夢中になってグラタンを食べ続ける。
「残りもルードが食べていいよ」
「ホントかっ!?」
銀髪の乙女は目を輝かせて残りのグラタンを自分の皿に取り寄せる。
その食べっぷりを横目にしつつ、ピンスは切り分けておいた果物を冷蔵庫から取り出してテーブルに並べた。
「至れり尽くせりだな」
「そこまでかな?」
「そこまでさ、そんなに甘やかすと私はダメになるぞ」
ルードはフッと笑いながら飲み物を口に含む。ピンスはその横顔を見ながら冷えたフルーツを摘んで口に入れた。
「こんな幸せな思いも、旅に出たらできなくなってしまうな」
彼女の呟きがピンスの胸に突き刺さる。
せっかく忘れかけた現実がまた浮上して彼の心をチクチクと刺すようだった。それでもピンスはルードの意志を尊重したいので、ルードを引き止めるようなことは言わない。
「ルードが旅から帰ってきたらまた料理もするし、好きなだけここで過ごせばいいよ」
「ああ、そのときはいっぱい食べるぞ」
夜食が終わり片付けを済ませていよいよ眠るかという頃、ピンスは先にベッドへと腰掛けたルードに呼ばれた。
どうしたのかと近寄ると不意にピンスは彼女に抱きしめられる。
力は籠もっているのになんだか弱々しい抱擁にピンスは戸惑った。
「なあ、ピンス。しばらくこうしていてもいいか?」
「うん……」
「ありがとう……」
ルードの態度からピンスは彼女の心の奥を垣間見た気がした。
ピンス自身も彼女の高い体温を感じているうちにこれまでの思い出が蘇ってくる。
「出会ったばかりの頃も、こうして抱き合ったね」
「そうだな。この世界に来て私が最初に抱きしめた相手もピンスだった」
「大怪我して治療が終わった後だったよね」
「ああ……」
話しているうちにルードの抱擁から弱々しさが消えていく。反面、彼女の精神が落ち着くと今度はピンスが寂しさに襲われてしまった。
思い出が、抱き締めている彼女が、ピンスの情緒を掻き乱す。彼女と過ごせるのは今夜が最後かもしれないと思うと、鼓動が早く、大きくなっていくのを感じた。
「ルード……僕……」
ルードがピンスを抱きしめたのと同じ様に、今度はピンスが衝動に駆られてルードをベッドへと押し倒す。
「ん」
されるがままのルードは美しい銀髪をベッドシーツに広げてピンスを見上げた、
視線が混じり合い、胸の内側に火が灯るような熱さを覚える。
「ねえ、ルード……」
「ピンス……」
お互いの名前を呼び合ってピンスは彼女の潤んだ瞳を見つめながら顔を近づける。
そしてそのまま二人は唇を重ねた。
「んっ……んうっ……んんっ」
「ふ、んむう……んふ……」
二人は吐息を漏らしながらお互いを求めて唇を吸い合う。
どれくらいそうしていただろうか。二人はどちらからともなく唇を離すと、お互いに蕩けた表情で見つめる。その瞳には寂しさや不安が混じっていた。
「ピンス……私……こんなことされたら……決心が鈍りそうだ……」
「……僕は……ルードと離れたくない……」
彼女の決心が鈍ると聞いて、そうなって欲しいと思ってしまったピンスは感情をグッと抑える。彼の心を察したルードは、ピンスのこめかみから頬にかけてをゆっくりと撫でた。
ピンスは彼女の優しげな表情と手の動きに再び揺さぶられながらも、身体を起こして深呼吸をする。このままだと彼女を引き止めるか際限なく求めてしまいそうなので、ピンスは歯止めの効くうちに眠りにつきたかった。
二人は一度顔を見合わせてから灯りを消してベッドに入り直す。
向き合って横たわる彼らは同じことを考えていた。
「なんだか、出会ったばかりの頃を思い出すね」
「そうだな。私は家もお金もないからどうしようかと困っていて……ピンスが部屋に住まわせてくれたんだ」
暗い部屋の中では相手の表情なんてわからない。なのに吐息と声、感触、体温、それらが入り混じってなんとなく相手のことがわかるような気がした。
「声をかけた僕もそうだけど、ルードは少しも警戒せずに部屋まできたことを気をつけた方がいいよ。僕がやましいことを企んでる変態だったらどうするのさ」
「今思うと不思議だが、あのときは直感でピンスを信用できたんだ」
「……悪い人について行って酷い事されないように注意するんだよ」
「ピンスこそ。変な奴を家にあげるなよ」
口調こそ真面目だったが、すぐに吹き出してしまう。
「ふふふ」
「ふ、あははは」
少しの間笑うと静寂があたりを包む。それを破るのはルードだ。
「なあピンス。私は大丈夫だろうか。わらび餅を守りきって、ここまで帰ってこられるだろうか……」
顔が見えないのに、彼女が泣いているのがわかる。
昼間に思い浮かんだ提案をピンスは口にする。
「ルード……僕も一緒に……」
「ダメだ」
言い終わる前に否定される。彼女がどんな顔をしているのかピンスにはわからない。
「ピンスはここにいてくれ。私は元の世界に戻ることもできないし、この世界と何ら関わりがない。もし旅の途中でピンスに何かあったら私にはもう居場所がないんだ……」
こんなに怯えるルードを見るのは珍しい。
腕を伸ばしたピンスは、彼女の背中と頭に手を回して彼女の顔を胸元に寄せる。
「不安なら、辛いなら……いつだって僕のところに戻ってくればいい。たとえ旅の途中でも、何かを諦めても、僕はいつだってルードを迎えて受け止めるから」
ルードは何も言わず、静かにピンスの胸元へ顔を埋めた。
しばらく別々の道を歩むことになる二人も、今このときだけは心臓の鼓動さえ揃い、一つに融け合えるような気がした。
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