146.港

 何時間か、何日か、……真っ暗な船室の中で何度となく寝たり起きたりを繰り返し、ついに日付感覚なんてものはあてにならなくなっていた。

 こんな湿気っぽい場所じゃぐっすり眠ることもできず、頭もずっとふわふわとしている感じだ。

 だがそんな折、いつの間にか天井のハッチがいつのまにか開いていた。気が付かなかったのは、外が薄暗かったから。夕暮れなのか早朝なのかは分からないけど、どちらにせよなんだか不気味だ。


 ハッチから男が1人降りてくる。……いや、これは2人だ。がたっ、がたっ、と梯子が軋むような音が少しずつ近づいている。


「乗り換えだ。さっさと起きろ」


 不機嫌そうな悪人顔の男には見覚えがある。この前、私が顔に水を吹きかけた奴だ。

 その男は少しずつ、じりじりと私に向けて歩み寄る。


「やだっ、離してッ!!」

「おい、てめぇ、静かにしろ!」


 ぎゅっと腕を掴まれた私は、心の底からせり上がるような不快感に耐えきれなくなって、暴れた。

 だけど、もう1人の男が私を背後から回り込むように抑え込んだため、全く動けなくなってしまった。


「ガキ1人に手こずるな。協力者様がお待ちだぞ」

「おい、てめぇ。調子乗りやがって……」


 ハッチの上のルシアンは、それだけ言ってどこかへ行ってしまった。その様子を見た男の方は、体をぷるぷると震わせながら怒っていた。

 そして男は、直後私の方に向き直る。そのおでこには青筋が浮かんでいた。


「聞け、クソガキ。これ以上暴れるようなら、お前のその立派な角をへし折って、口の中に突っ込んでやるからな。分かったか?」


 明らかに冗談のような言い回しだったけど、そのトーンは冗談ではなかった。私はその気迫に負けて、こくりと1回だけ頷くことしかできなかった。

 結局私は、男の命令に従い、おずおずと梯子を登り甲板へと出た。


「自分で歩け」

「……っ」


 人気のない静かな港。ギシギシと鳴る古い桟橋の板を踏みしめ、私たちは陸の方へ向かっていく。

 私の両手はお腹の前できつく縛られ、そして首につけられた魔導具から伸びたロープは男がしっかりと握っていた。左右には男が並んでいて、私を絶えず監視している。

 でも私は希望を捨てたわけではない。というか、少しでも逃げ出すチャンスがないかずっと様子を伺っている。


「全く、しけた場所だな」

「本当にここで合ってるのか? ヤツがいるってのは」

「……ああ、間違いない。ここを過ぎればもうすぐ――」


 男2人とルシアンの小さな声。それが突如、「バキッ」という激しい音にかき消される。


「――うおっ、マジかよ」


 どうやら右後ろの男が、桟橋の板を踏み抜いたようだ。ぐらりと地面が揺れ、男はバランスを崩す。


「気をつけろよ、海水浴なんてしてる暇ねえんだ」

(……今っ!!)


 これは好機だ。そう直感した私は、考えるよりも先に動き出していた。

 足元に意識を取られた男の不意を突くように、私はぐるりと体を回した。回し蹴りでもするかのように――しかし、私の武器は足ではなく、尻尾。

 怪我を与えるほど強いものではないが、すでによろけている相手には十分だった。


「あ」


 ひょいっとひっくり返った男は、それだけを言って真っ暗な海へ向けて真っ逆さま。一瞬して、ざばんという音とともに水飛沫が舞う。真っ暗な海は、月光に照らされながらゆらゆらと不気味に蠢いている。


「おい、何しやがる――イテテテテテッッ!!!????」


 咄嗟に私に掴みかかるもう1人の男。だが私は、その手に思いっきり噛みついてやった。皮膚の奥の骨の感触すら感じるほど、ごりごりと歯を押し付けてやる。おやつとしてカチカチの保存食を食べることが多いから、顎の力には自信があるのだよ。

 大声で喚きながら痛がる男。そんな彼の手からは、既にロープが離されていた。


「助けてえええぇぇぇ!!!!」


 私は全速力で叫び、そして走った。まだ手は縛られたままだけど、それ以外に私を制限するものはない。

 ギシギシと桟橋が悲鳴を上げ、薄暗い港に私の高い声だけがこだまする。


 ふと後ろを見ると、まだ誰も追いかけてはいなかった。男2人はともかく、ルシアンもいない。

 それに少しだけ安堵したけれど、まだ完全に逃げ切れたわけではない。どこか……お家とか、お店とか、誰でもいいから人がいるところに……!


「誰かっ! 誰か、助けて!!」


 ぐるぐると周囲を見回しながら、私はただ走り続けた。寂れた港、それを覆い尽くす木々や蔦。ぽつりぽつりと見つかる建物は、どれもこれもが朽ち果てている廃墟だ。

 ここがどこだかもよく分からないまま、私はずっと前に進む。――頭上に煌々と光る満月だけが私の道しるべだ。


「誰か、いる――!!」


 人影が見えた。真っ暗なあぜ道、その向こう側に揺らめく人形。

 助かったと思った。ルシアンたちもとっくに引き離していて、あとは安全な場所に逃げ込むだけだ。

 だから私は力を振り絞った。息も絶え絶えだが、全部我慢だ。私はその一点に向けて、ただ走り続ける。




 だけど……そこに佇んでいたのは、燃えるような真っ赤な髪の女の人だ。スレンダーなのに胸が大きくて、とても美人だ。やや吊り目の瞳は髪と同じ赤色で、見ているだけで飲み込まれそうなほど煌めいている。


「――あら、迷ったのね?」


 彼女は優しく微笑むと、私にゆっくりと歩み寄った。




 ――だからこそ、私はおかしいと思った。


「……っ、ちがう!!」


 こんな真夜中に、こんな寂れた場所に、なんの装備もないただの女の人が1人でいるはずがない!!


 やばい。直感的にそう思った私は、すぐに踵を返した。

 その優しそうな笑顔は、むしろ異質なもののようにさえ感じられた。両手を縛られた私を見て、心配や驚きという感情が最初に来ない時点で、明らかにおかしいのだ。

 彼らの仲間なのだろうか。……でもここまできて、捕まるわけにはいかない。


「見つけたわよ~」

「ひゃっ!」


 だが無常にも、全速力で逃げたはずの私の背後から、間延びしたような声が聞こえた。優しそうな声にもかかわらず、ぎゅうっとお腹の中を捻り潰すような、形容しがたい不快さを感じた。

 そして直後――私の全身から力がすとんと抜ける。


「うふふ、これでもう逃げられないわ」


 私はその体勢のまま、真っ直ぐ下に膝をつきながら倒れた。


「なに……これ……?」

「あら、この状態で喋れるなんて。流石はドラゴンなだけあるわねぇ」


 そう言われて、私は初めて自分の体が動かないことに気がついた。


「私に……何を……」

「ふふ、私の魔法よ~? 全身が石みたいになって、動けなくなっちゃう素敵な魔法なの」


 赤髪の女は私の頬をつうっと撫でた。こそばゆくて、気持ち悪くて、今すぐにでも逃げ出したい。だけど……その意思は体に届かない。

 まるで……全身が鉛のようだ。腕が、足が、頭が、すべての部位がカチコチに凍りついてしまっているようで、どれだけ動こうと願ってもびくともしない。そしてその重さはどんどんと強くなっていて、息をすることさえ苦しくなる。


「おねがい…………やめ……て……」

「どんどん重たくなってくるでしょう? そして……どんどんと眠たくなるの。

 ドラゴンとはいえ、あなたはどこまで耐えられるのかしら?」


 肌で感じられるほど、彼女の全身から魔力が溢れ出した。ピリピリと肌の表面を焦がすような強いエネルギーは、私の全身をさらに硬く、重たくしていく。

 どういう原理なのか……どうやってそれに抗えばいいのか。私には見当すらつかなかった。


「や……だ………………」

「―――――――――――」


 女はパクパクと口を開けて何かを喋っている。だが何も声を発していない。

 いや……私の方が聞こえていないだけなのか……。その表情はとても楽しそうで、私のことを弄んで楽しんでいるのだろう。


 徐々に視界も狭くなって、意識も少しずつ弱くなっていく。

 ああ……まずい……はやく、逃げないと…………






 たすけて、セレス……

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